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勉強に対する心構えについて  (おじいさんからの手紙)

                                 

日本と中国とでは勉強の意味がこんなに違う

拝啓:

 夏休も終わって、いよいよ二学期が始まりましたね。昔から“燈火親しむ頃”と言ってお勉強するには最も良い時期になります。太郎も身体に気をつけて勉強してください。

 所で、今日は前回お約束したように、勉強についておじいさんの考えをお話する訳ですが、最近この勉強という言葉についておじいさんは面白い発見をしました。例によって言葉遊びになりますが、・・・

中国語の辞書で勉強という字を引いてみるとこんな訳が載っています。

勉強

(ミェン・チャン):形容詞として;    

@やっとの事である

Aいやだが仕方がない

B強引である、無理である

動詞として;

無理強いする、強制する

 と日本語で私たちが普段使っている意味とは全く違った解釈が載っています。けれども、この漢字をよくよく見てみると、日本でも勉強の勉と言う字は人の名前などに“つとむ”と読んで使っています。そして“勉”と“努”は同じ意味だと漢字辞典には載っています。その様に見ると日本語でも“勉強”には本来は“努力することを強制する”という意味があったのではないかと思われます。それがどうして“学習”という意味で“勉強”が使われるようになったのでしょう?

ついでに広辞苑で日本語での意味を引いてみると

勉強

: 名詞として;

      @精を出して努めること

      A学問に身を入れること

       B商品を安く売ること

 と中国語とは全く違った意味になってしまっています。

 この中国語本来の意味を念頭において見ると、“勉強、勉強”と子供達に声をかけている日本の親たちの様子は、学問本来の意義を教えずに、嫌々(イヤイヤ)する子に無理やり学習を強制している今の社会の様子ソックリになっていますネ。学問を習うと言う意味の学習という言葉がいつの間にか勉強という言葉にすり替ってしまって

「嫌(いや)でも、しなければなりません」と言っている様で、これでは子供のほうでもたまりません。食べたくない料理を無理にすすめられている様で、これでは学習しないで怠けたくなるのは当たり前と言う事になってしまいますネ。

 一方、中国の子供のほうはどうかと言うと、中国語では勉強の事を学習(シュェ・シー)と言って、「学んでそれを習いなさい(繰り返して自分のものにする)」と言います。

 もともと、学問は仕方なくするものではありません。“勉強、勉強”と強制していては益々反発が強くなって日本人の知的水準が下がってしまうのではないかとおじいさんは心配になります。今日は一つ、昔の人は勉強、いや、学問に対してどんな心構えで向き合ったか、どれだけ真剣に学問に打ち込んだかについてお話したいと思います。

学問の意味

 それともう一つ、太郎たちは学問についてその意味をはっきり理解しておく必要があります。太郎にとって今は学校で学習する事が学問をしている事になりますが、もともと、学問という言葉にはもっと広い意味があって

日本語では君たちが普段思っている様な学習と言う意味ばかりでなく、その他に芸術や科学、哲学などを全て纏めていう意味があります。一方、中国語ではさらに具体的に

  @日本語と同じ意味での学習、学芸、のほかに 

    A知識、学識を直接指し、ここまでは日本語と同じですが 

    B学ぶべき事、やりがい、そして

    C工夫、熟練、と言った事までを含めることがあります。

 このように見てくると日本人には物事を細かく厳密に見ていこうとする傾向がある様で、その為に全体を見失ってしまい勝ちのような気がします。学問と言う事一つとってもあまりにも細かいところにこだわりすぎるように思います。

 学校での勉強(学習)というのはただ良い成績を上げるために努力をするのが目的ではなくて、子供たちが社会に出て自分の選んだ道を歩くときに困らないように最小限の知恵を身につける事が目的なのです

 また、どの子も将来はみんな立派な人になれる無限の素質を持っていて、みんなそれぞれに自分の可能性を信じて自分の道を見つけて歩き出す最初の段階にあるのだと言う事に生徒も先生も世の中の人達も気が付かなければなりません。社会全体、まわりの人がおおらかな気持ちで心にゆとりを持って子供達を見守っていく必要があります。

 さて前置きが長くなりましたが、おじいさんの子供時代のお話しから始めましょう。

倫理教育の今と昔 その一

今は学校で宗教の話をする事は禁じられていますが、おじいさんが太郎に聞いてもらいたいと思う今日の話は、

所謂宗教の話ではありません。「自制心」つまり自分の意思を自分でコントロールする方法についての話なので

す。それによって学問(学校で習う学習課目ばかりでなくもっと広い意味での)に対する情熱をいつまでも持ち

続けることについての話なのです。

 戦後(1945)、日本の教育制度がガラリと変り、教育を受ける権利は国民の方にあるという事になり、国が国民のために学校教育制度を設けていると言う事は、太郎への最初の手紙「生きがいについて」に書いたので太郎も覚えているだろう? それで、国は国民が平等に教育を受けられる様に学校を建てたり、教科書を作ったりして学問をする場所、つまり教育の環境つくりに力を注いで来たのです。おかげで、太郎達は立派な教室で立派な教科書を使って学習できるようになりました。けれども、新しい学校制度のもとで太郎達が学習する事は「知育(頭脳を鍛える)」と「体育(身体を鍛える)」が中心になってしまって、「徳育」つまり心の鍛錬はおろそかになってしまいました。つまり「徳育」の部分は学校で教わる事ではなくなって、その大部分がそれぞれの家庭でパパやママ達からしつけられなければならない部分となって取り残されてしまったのです。

 更に、戦後は戸籍制度の変革とともに子供が成長して結婚すると独立した戸籍を持つ事になり、核家族という言葉が示すようにどこの家庭もパパとママを中心にして暮らすようになり、昔のようにお爺さんやお婆さんを中心にして伯父さんや伯母さん達と一緒に大人数の家族で暮らす様な事がなくなりました。そして病気や事故とか、そのほかの理由でパパとママが別れたり、そのどちらかが居なくなったりすると、たちまちその家庭の中心がぐらついて、ゆとりのある生活をする事がますます難しくなります。子供たちが人間として成長するために両親と一緒に暮らさなければならない一番大切な時期にパパやママを失ったりすると、子供たちは仮に親戚に預けられたとしても自分一人とか或いは一人か二人のきょうだいとしか一緒に暮らせなくなります。

 おじいさんやおばあさんが居ても、そのおじいさんやおばあさんと一緒に暮らしている家の方がかえって少なくなってしまい、社会的にも大人の目が届き難くなっています。だから子供たちはますますわがままに育ってしまって、親の言う事を聞きません。そして親の方も忙しさにかまけて自分の子供をどの様に躾(シツケ)けたら良いのか分らなくなってしまい、中には学校の先生を頼りにしているパパやママ達が大勢いて、子供たちも自分の心を自分でどの様に落ち着けていけば良いのか分らなくなり、両親と先生方の間で悩んでいる様におじいさんは思います。太郎達が立派な人間になるためにどんな心掛けが必要であるかと言う事についての学習が今の学校では出来なくなってしまっているのです。

倫理教育の今と昔 その二

 では、おじいさん達が子供の頃の小学校ではどうであったかと言いますと、この「徳育」つまり心の鍛錬については、学校で「修身」と言う教科書があって小学校の一年生の時から毎週月曜日、一時間目の修身の時間に必ず教わったのです。たまたまその内容が徳川時代からの儒学と言う学問の伝統をうけていて、それを明治時代に国の方針で天皇のおことばとしてまとめた教育勅語によって、全国の学校が統一した「徳育」つまり「修身教育」を受けたのです。この「修身教育」は戦後の占領時代に教育制度が改革された時、第二次世界大戦を引き起こした日本軍国主義を支えた原因の一つであると言う事で、新しい教育制度(現在の六三制度)では廃止されてしまいました。

 しかし、おじいさんは子供のときに習った「修身教育」の内容のすべてが悪いと言う事ではなかったと思いま

す。それは忠君愛国と言った、軍国主義的に強調された部分を除けば、親孝行の話、家族、兄弟や友達同士が仲

よく暮らす事の大切さ、公益と言って世のため人のために役立つ事、良い行いをすること、進取の気象と言って

積極的に新しい事を取り入れる事、工夫発明の大切さ、博愛と言って広く人を愛する事など、日本や世界の偉人

たちや郷里の先人たちのエピソードを広く取り上げて具体的に教わったものだったからです。

 そしてこの修身教育によっておじいさん達は立派な人間になると言う事がどんな事なのかを教わったのでした。   しかし1945年8月、日本が第2次世界大戦に負けたと言う大きなショックによって、それ迄に、日本がやってきた事は全部悪い事だと言う事になって、日本人の道徳についての考え方は根こそぎひっくり返りました。一口に言えば“世のため人の為に”と言う考え方から、全て“自分さえ良ければ良い”と言った自己中心の考え方に変わってしまいました。

 おまけに『何が善い事で、何が悪い事かについての判断基準さえ自分の良心に従わずに、人が見ていなければ何をやっても良い、無理が通れば道理が引っ込む』と言う事になってしまったのです。

むかし小学校の先生は訓導と呼ばれた

 65年前おじいさんが小学校に入った頃、先生方は訓導(クンドウ)と呼ばれていました。訓導とは訓え導く(オシエ ミチビク)と言う意味です。今は小学校の先生方は教諭と呼ばれていますが教諭とは教え諭す(オシエ サトス) と言う意味です。この訓導と教諭の違いは、若し、生徒が何か悪い事をした時、今の教諭先生なら

「そんな事をしてはいけないよ」と

 口で注意する事で済ませてしまうのでしょうが、昔の訓導先生はどうしてそれがいけない事なのかよく説明して納得させて、二度とそんな事をしないように

「こっちへいらっしゃい、そっちへ行ってはいけませんよ」と

 手を引いて導くと言うことだったのです。ですから昔の訓導先生は文字通り知育、体育、徳育の三つを、身をもって子供達に教えられたのです。その様な訳で昔の先生方はいつも生徒のお手本になる様に行動しなければならず、大変なご苦労をされたのです。ですから、当時の社会の人々は先生方のお仕事を聖職(尊い仕事)と言ってお坊さんやお医者さんと同じ様に人を導き育てる大切な仕事をしている人だと言って尊敬しました。おじいさん達は

「三尺下がって師の影を踏ます」とか

「鳩にも三枝の礼あり」などと言って

 先生のおっしゃる事は何でも聞いて守るように、いつも両親から言われたものです。

 今の教育では昔ほど徳育に重点が置かれていませんし、子供を自由に伸び伸びと育てると言う事から小学校は教諭先生で十分だと決められたのでしょう。そうしたほうが先生方の負担も軽くなります。しかしおじいさんは、小学校では、やはり訓導先生であって欲しいと思っています。それはいくら自由だからと言ってもある程度子供が自分で考えて自分の行動をキチンと決められる様になるまでは両親や先生方の躾(シツケ)や支えが必要だと思うからです。

自分で考えるという事は自分の行動に責任を持つという事である

 自分で考えると言う事は他人から意見を聞いたときや、色々なことに出会ったとき、その聞いたこと、見たことをそのまま受け入れて人に伝えるのではなく、自分自身がその事についてどう考え、どう受け止めるか、それ迄に学習した事を基礎にした自分の考えをプラスした判断をキチンと人に伝え、自分の行動に責任を持つと言う事なのです。太郎達はこの様な行動がちゃんととれる様になっているでしょうか? 学問をすると言う事はつまりそう言う事なのです。今の法律では十八歳までは少年として子供達を一人前に扱いません。それは子供達が成長過程にあり、社会や学校や家庭の庇護のもとに一人前になる訓練期間であると言う事なのです。  

 ついでに言いますと、昔は教諭が中学校の先生に対する呼称で、大學の先生は現在と同様に教授と呼ばれていました。その意味は、

『小学生は手をとって訓え導き、中学生は口で諭せば自分で行いを正せる。そして大学生は言われなくてもすべて自分で正しい行いができるのが当たり前なのだ』と言う事だったのです。

 ですから、大學の教室では教授は文字通り知識を教え授けるだけで学生一人一人の行動には一切干渉しないと言う建て前であった訳です。つまり大学生になると完全に一人前の大人としてあつかわれ、又学生も立派に行動できたのです。

 このような訳で立派な人間になる為に は、すべての基礎となる小学生の時の学習や躾がいちばん大切な事になります。子供を私立の評判の良い学校に入れさえすれば、あとは両親が構わなくてもお行儀の良い成績の良い子になると言うような人任せではなくて、

 自分の子供がたとえどんな学校に入学したとしても、まず学校で先生のお話をキチンと聞けるような心構えを身につけている事が最も必要で大切な事なのです。それが学習に対する躾の第一歩である事を今のパパやママ達にわかって欲しいと思います。

 おじいさん達が小学校に入学する時、おじいさんはお父さんやお母さんから

「学校に行ったら先生のお話を良く聞きなさい。先生のおっしゃる事を良く聞いてわからない事は何回でも質問するのですよ。」

  とよく言われたものです。ですから、おじいさん達が小学校に入学する時は非常に緊張しました。これから小学生になるのだと言う強い自覚を持ちました。この様に早いうちから学習に対する心構えをつくる事が大事です。

啐啄(ソツタク)の教え

 さて、おじいさんが旧満州から引き揚げてきて九州の片田舎で暮らしていた頃、鶏を四十羽ほど飼っていた事があります。最初はオス・メスひと番(ツガイ)から飼いはじめましたが、やがてメン鳥が巣ごもりを始めたとき、鶏の数を増やす為にそれ迄に集めた卵をメン鳥に抱かせました。やがて、二十日あまり経って卵の中で育った雛(ヒナ)がいよいよ孵る(カエル)ときの事です。まず、卵の中から雛鳥が鳴き始めます。

「ピョ、ピョ、外に出たいよ。殻(カラ)が割れないよ!」

と言っているみたいです。そうするとお母さん鳥は

「コッ、コッ、ここから出てらっしゃい!」

 と言う様に、卵の殻を外からつつきます。そうすると雛鳥も卵の中で、お母さん鳥のくちばしのあたる所をつつきます。そしてお母さんの強いくちばしで小さな穴が一つ開けられます。その穴からひよこがのぞきます。お母さん鳥は雛鳥を見ながら

「早く出ていらっしゃい。コッ、コッ、」

 と呼びかけます。雛鳥は一生懸命お母さんに開けてもらった穴を自分で少しずつ大きく広げながら殻を破って生まれるのです。

 『生まれたい』と雛が言い、『出ていらっしゃい』と親鳥が呼びかけて、親鳥と雛鳥の「心」が一つになって生まれてくるのです。『生まれたい』と雛が言った時、その雛には『生まれる心構え』が出来ているのです。プラスとマイナスの電気がショートして火花を散らすように、生まれるために親と子が一生懸命に努力するのです。この様に雛鳥が 啐き(ツツキ)、親鳥が啄く(ツツク)様子を禅宗では啐啄(ソツタク)と言い、二つの心がお互いに寄り合って一つになる有様にたとえます。生まれると言う事は人間にとっても動物にとってもその一生の始まりで非常に大切な事です。

 勉強(学習)も同じ事です。『何かを学びたい、何かを覚えたい』と言う生徒の「心」には『学問に対する心構え』がすでに芽生えているのです。そして『それは私が教えてあげます』と言う先生の「心」とピッタリ一致した時に最高の成果が得られるのです。学習の場合は成績と言う言葉でその結果は片付けられますが、それは一度限りの事ではありません。今まで にも太郎の気付かない間に何度も繰り返されて来ているのです。そして、これからもずっと繰り返されて行くのです。それは太郎の心の中で新しい疑問や決心や知識が毎日つぎつぎに生まれつづけているからです。テストだけが知識のレベルアップの関門なのではありません。毎日の生活の中で次々に生まれてくる疑問や矛盾について、それに対する答を先生や両親、友達などに教わり、或いは自分で工夫して出す事が 啐啄なのです。

 学校での学習だけではありません。スポーツ、芸能、芸術など、世の中のすべての事が『〜したい』と思う君たち自身の気持ちからスタートするのです。太郎が何かをしたいと思った時こそ、その時がスタート時点になるのです。そしてその時、太郎より先にそれをやっている人すべてが太郎の先輩であり、先生だと言う事になるのです。「先に生まれる」と書いて先生と読みますが先生とはそう言う意味なのです。そう言う人達(先生方)に助けられ導かれて太郎自身が努力する事によって一つ一つ関門をくぐり抜けて生長しながら進歩するのです。

「勉強にもルールがある」 広瀬旭荘の教え方

 江戸時代の終わりごろ、今の大分県の日田市に広瀬旭荘(ヒロセキョクソウ)という儒学者が居りました。お兄さんの広瀬淡窓(タンソウ)に負けない立派な学者で、淡窓の創立した咸宜園(カンギエン)という塾の後をつぎましたが、三十才の時、大阪に出て大勢の塾生を教えました。旭荘は特に漢詩を作ることに優れていて、その詩は清国(当時の中国)の兪曲園(ュキョクエン)という詩人が「東国詩人の冠たり(日本で一番優れた詩人である)」と言ってほめたたえる程であったと言うことです。旭荘が教えた門人(生徒)の中からは、明治維新後活躍した横田國臣大審院院長(ヨコタクニオミ 今の最高裁判所長官)、清浦奎吾(キヨウラケイゴ 総理大臣)等といった立派な人たちが生まれて巣立ちました。

 この先生の塾則(校則)に『三去』と言うのがあり、『三つを去る』つまり、先生の教えを受ける生徒は皆『三つの事』をまず捨てることを誓ってから先生の弟子(生徒)になると言うものでした。それは

 年齢を去る

 勉強をしたいと塾に入った時が一年生であるという事です。その人の年令が八歳であろうと十五歳であろうとまた二十歳であろうと、年齢に関係なくその人が勉強を始めたときが一年生であると言う事です。

 官禄を去る

 これは、肩書きをとると言う事です。偉いお役人や大きな会社の社長の子供であろうと又、小さな会社の平社員の子であろうと、或いは又お金持ちの子供であろうと貧乏人の子であろうと、社会的な地位とは一切関係なく、学問をすると言う立場では、みんな平等で同じ年であって、身分の上下はないと言うことです。ですから教える先生の方も一切ひいきをせずに平等に生徒に接する事が出来ます。

 学問を去る

 これが一番大切な事ですが、これは先生のお話を一生懸命に聞くと言うことで、“他所の塾でこの様に教わりました”などと言って、知ったかぶりをしてはいけないと言う事です。もし君が「この事を知っている」と思ったとしても先生が何か今までと違う説明をされるかも知れません。また、今までと違った新しい解釈をされるかも知れません。君がホンの一瞬でも

 「こんな事、知っている」と心の中で思ったら、その瞬間から君の心の中で“知っている”と言う思いが邪魔をして、“学問をしたいと言う君の気持ちが殺()がれます。折角先生が話そうとされる事が正確に理解できなくなります。教室で他の先生の意見や説明を主張するのであれば

「そちらにいらっしゃい。うちで勉強する必要はありませんよ」  

 と言う事になります。つまり

「私の所で勉強する以上、何もかも捨てて頭を空っぽにしていらっしゃい」

  と言うわけです。先生のお話を最後まで良く聞いて理解しようと努力する事によって教科書に書いてあることや先生の考えておられる事がはじめて生徒に伝わるのです。パパに顔の似た太郎がやがてパパにしゃべり方とか仕草や癖まで似てくるように、先生の教えとともに先生の考え方や話し方と言った、先生の日頃の言動や癖までがそっくりそのまま生徒に伝わるのです。おじいさんが大學予科に入った頃、学部の先輩の中にこの様な学生が大勢居ました。このようにして昔の人は真剣に学問をしたのです。

そして先生から

「もう私から君に教えるものは何もない。君には私の知っている事は全部教えたよ。これからは自分で研究して、自分の道を切り開いて行きなさい。」

 と言って免状(卒業証書)を頂いたのです。そこから先は学生や生徒が自分で先生に教わって身につけた知識を活用して更に自分で研究した新しい工夫や知識をプラスして自分の道を一人で歩いていく事になったのです。先生の教えを受け継いでその延長上に自分の工夫と研究や経験をプラスしていったのです。

  今、君たちは学校を卒業する時にどれだけの勉強をしてどれだけの知識を身につけてきただろうか? 学問知識の他に、身体を十分に鍛えて来ただろうか?更に大人になる為の心構えも十分に出来ているだろうか? 大相撲でよく「心、技、体」と言いますが学校でも同じ様に「徳育、知育、体育」と言います。この三拍子がバランスよく揃った子になって欲しいとおじいさんは心から願います。

 さて、この様にして旭荘先生の塾に入った生徒は社会に出れば地位や名誉のある人でも年上であろうと子供であろうと、一年生は必ず水汲み、薪割り、飯炊き等と言った日課から修業に入り、中々直ぐには本を読ませて貰えなかったと言う事です。始めに名前の出た横田國臣や清浦奎吾等と言った立派な人たちも例外ではありませんでした。専門的に学問が始まるまで三年もかかったと言う事です。

 今のように校則でがんじがらめにされて、髪の色や形まで決められてそれが嫌だとか反対だとか言っているう

ちは学問をする資格はないとおじいさんは思います。それよりも一生懸命に努力する子にとって校則等と言った

ものは、本当はあってもなくても別にどうでも良い事になると思いませんか? 何よりも学問は自分自身の為に

する事だと言う事に気づかねばなりません。

スポーツのルールは守れるのに学習のルールは何故守れない?

 この旭荘先生の塾の話はちょうどスポーツのルールに似ていると思いませんか? 太郎が小学校に入った年にサッカーにあこがれて、少年クラブに入ったね。それから君は土曜日の来るたびに、学校のグラウンドに出かけてボールを追いかけていましたが、コーチの言う事を守って一生懸命でしたね。あの頃は少々の打ち身や擦り傷ぐらいではへこたれずに夢中でした。

 ところが学校での学習となると、そうは行かなかったのは何故だろう? サッカーや野球だったら、コーチが

ひと声かけたら全員がサッと行動出来るのに、教室で先生が声をからして注意しても、クラスの全員が授業に集

中出来ない事があるのはどうしてだろう? 

好きこそものの上手なれ

 おじいさんが思うのに、この違いは学問に対する心構えとスポーツに対する心構えの違いだと思います。やる気の違いです。サッカーや野球はそれが好きでたまらない子供達の集まりです。それとは逆に学習の方は、その学科の好きな子も嫌いな子もみんな一緒にして一つの教室で先生のお話を聞かなければなりません。むかしは国語や算数が好きで、どんなに習いたくても塾や学校に行けなかった子がいたのに、今は逆に学校が嫌いな子でも全員が中学校卒業までは義務として通学しなければなりません。

●今の子は字が読めない事がどんなにつらい事なのかを知りません。

●お金の計算が出来る事がどんなに大切な事なのかを知りません。

●学校で勉強する事がどれだけ社会に出てから役に立つかを知りません。

 そんな気持ちで甘やかされて、わがまま一杯で学校に入るから先生の話が聞けないのだと思います。

  同じスポーツと言っても学校の体育の時間にやる場合は、クラスの一人一人にとって好きな運動もあり嫌いな運動もあるし、また得意なものもあるしそうでないものもあるでしょう。そうなると授業に対する心構えもそれぞれに違ってきます。太郎が毎週土曜日に通ったサッカークラブはサッカーの好きなものばかりが集ったからこそみんな早く上達できたのだと思います。こうした傾向は体育ばかりでなく一般の学習にもいえます。

執念を持ってやる気をつらぬけ

この執念と言う意味について広辞苑を引いてみると、

思い込んで動かぬ一念(オモイ)  とか 

深く思い込んで忘れられない一念(オモイ)  といった解釈がされています。

  言葉の上では「思い込んで動かぬ一念」などと、ひと口で説明されていますがこの「思い込んで動かない」と言う事は実は大変重みのある言葉で、

 1. パパやママからちょっと説得されたら変わる程度の思い込みなのか

 2. ナイフやピストルを突きつけられてやっと変わる程の思い込みなのか

 3 それとも殺されても絶対変えない程の思い込みなのか

 とその思い込みや決心の固さにも色々な段階があると思いますが、おじいさんはこの場合、

3. のたとえ殺されるような事があっても絶対変えないと言う位の固い決心をさすと思います。

達磨(だるま)大師とその弟子慧可(えか)のお話し

 太郎はダルマと言ったら何を思い浮かべるだろうか? 赤い瓢箪型の起きあがり小法師や七転び八起きの縁起物を思い出すに違いないと思います。しかしこの達磨(ダルマ)さんと言うのは今から1500年位前に実在したインドの坊さんで、八〇歳をこえるほどの高齢になって、前々から考えていた「お釈迦様の教えを中国に広める事」を実行するため、船でインドから中国大陸に着き、梁の国(当時の中国の一部)の都金陵(今の南京)に入りました。ちょうどその頃、既に仏教に深く帰依してお寺を各地に建て、なん万人という数の坊さんや尼さんを養成して仏教を広め、お釈迦様の教えを理想として国を治めていた梁の武帝の歓迎を受けて暫く南京に滞在しましたが、その武帝と仏法について色々と問答をした達磨さんは本当に自分の思っているお釈迦様の教えを正しく伝えられるような人物はこの国には居ないと悟り、梁の国を出る事にしました。そして或る夜、ひそかに小さな船に乗って長江を渡り、その北岸の魏の国に入り、そして魏の都洛陽に着きました。そして、達磨さんはこの洛陽の東南にある嵩山(コウザン)の少林寺に住む事になりました。ちょうど達磨さんが中国大陸についてから2ヶ月ほど経った時の事でした。

 それからの達磨さんは、毎日来る日も来る日も山中の岩壁に向かって、只、黙って座禅をつづけました。

 「こんど少林寺に来た達磨と言うインドの坊さんは少し変っているよ、一体何者だろう? お経を唱えるわけでもなく一日中じっと坐って居られるだけだ。これは一体どういう訳だ?」

  まさか、達磨さんが遠いインドからわざわざ中国にやって来てお釈迦様の教えを伝える為に御弟子さんを探しているとは思いませんでしたから

 「岩壁(いわかべ)と向き合うインド坊主」と言って噂をしました。 

 ちょうどその頃、のちに達磨さんの最初の弟子となる神光さんが訪ねてきます。神光さんはその名前からも想像がつくように小さい時から非常に頭がよく、秀才と言われていて、偉い学者や哲学者等によって書かれた多くの書物を読んでいました。そして、これらの書物に書かれている事は全部理解して人にも説明が出来る程でしたが、それでも自分では納得出来ない物足りなさを感じていました。書物に書かれている「人が生きる本当の意味は一体何であろう」と言う疑問がいつも神光さんの胸の内から離れませんでした。

 太郎にもこのような経験がキットあると思いますが、国語でも、算数でも字は読めて、ひと通りそこに書いてある意味は分るのだけれども、どうしてそうなるのか本当の所が分らないと言うような事があった筈です。例えば11=2と言うことは誰でも知っているけれども

「では、どうして11は2になるの?」と一歩突っ込んで聞かれたら君はなんと説明するだろうか? あの有名な発明王エジソンが小学校の時こう言って担任の先生を困らせたと言う話を太郎は知っているだろう。

「本にそう書いてあるから、そうなるのだ」と言っても、若し相手が納得しなかったらどう説明すればよいのだろうか? しかし、大部分の人がその辺の所は分らなくても11=2 を何となく納得してきています。     11=2無理に暗記するようにして覚えた人もいるかも知れません。

 神光さんは太郎達の算数や国語の問題とは違って

「人がこの世に生きて暮らしていく本当の意味は一体何だろうか?」と

  人生について色々な本を読んで研究していたのでしたが、どうしても自分で納得できる答えを読んだ本の中から見つけられないでいたのでした。そして

「人は人生をどの様に生きていけば良いのだろうか?」

 といつも考えながら暮らしている時にこの達磨さんの噂が神光さんの耳に聞こえて来たのでした。

「そうだ、このインドから来られた坊さんだったら、きっと私の疑問に答えてくれるのではないか?」そう考えた神光さんは少林寺を訪ねます。けれども神光さんが少林寺をいつ訪ねても達磨さんは岩の壁に向かって座禅をしています。

「和尚さん、一つ私のお願いを聞いてください」と声をかければ良いのに、遠慮深い神光さんは“修行の邪魔をしては悪い”と思ったのかも知れません。そのそばで達磨さんが自分に気がついてくれないかとじっと待っています。けれども一向に達磨さんが振り向いてくれる様子はありません。これでは

「お弟子にしてください」と達磨さんにお願いすることも出来ません。その内に時間が経って神光さんは諦めて帰ります。こんな事が繰り返されて幾日かが過ぎました。これではいけないと思った神光さんは

「今日こそは達磨さんにお願いして弟子にして頂くまでは絶対に山を下りないぞ。」と強く決心しました。それは達磨さんが洛陽に来られてから半月ほどたった旧暦12月の寒い夜の事でした。

  その日は朝から大雪で夕方には風も出て吹雪となりました。しかし達磨さんは相変わらず岩壁を前にして坐りつづけています。いっぽう、神光さんの方も庭先にじっと立ったまま少しも動きません。この様にして達磨さんは岩壁の前に坐ったまま、そして神光さんはその傍に立ったまま、次の日の朝まで少しもその場を動きませんでした。降り積もった雪はもう神光さんの膝から下を埋めてしまっています。神光さんは手も足も全身が凍えきっていましたがそれでもじっとして動きません。達磨さんも昨夜一晩中坐りつづけて、積もった雪は膝の所まできていました。

 明け方になって達磨さんがフッと神光さんの方を振り向きました。そしてそこに立っている神光さんを見て

「おや、お前さんはどうやら昨夜からズーッとそこに立っているようだが、一体この私にどんな用事があって来たのかな」とお聞きになりました。

そのお言葉を聞いた途端、神光さんは

「あ、やっと達磨さんが私に声をかけて下さった」と思い、嬉しさのあまり思わず涙をこぼしてしまいましたが、やがてその涙をふいて

「和尚様、どうかお慈悲をもって世のため人のため、お釈迦様の教えを大勢の人々に広めてください」とお願いしました。

  ところが神光さんのこの言葉を聞かれた達磨さんは“こいつ本当は自分がお釈迦様の教えを聞きたいのに、何故正直に自分が教えを受けたいと言わないのだろうか?”“他人にかこつけるようではまだ弟子にするわけにはいかないぞ、何故正直に自分の必死な気持ちを打ち明けられないのだ?”とお思いになりました。

 太郎達にもこれに似たような経験があるのではないかな? 例えば本当は自分がお菓子を食べたいのに、

「ママ、次郎がお菓子を欲しいと言っているよ」と、さも次郎の代わりにママに頼むようなフリをした事はなかったかな? 若し、自分がママに直接おねだりしたら、

「お兄ちゃんだからも少し我慢しなさい」とか「お勉強がすんでから」とか言われるかも知れない。

 この様に、他人の所為にして自分は良い子ぶってしまうと言う、こうした経験の一つや二つは誰でもしていると思うが、

  神光さんも、“こんな事を直接お願いしたら達磨さんに笑われないだろうか”とか“達磨さんにこんな事も分らないで私の所へ来たのかと馬鹿にされるのではないか”とか思って自分を格好よく見せようとしたのかも知れません。それに、“自分は他の人よりも色々と多くの書物を読んでよく分っているのだけれども”、と心のどこかで自分だけは違うぞと偉いぶった自慢の気持ちがあって

「みんなの為にお説教をして下さい」と言ってしまったのかも知れません。

 達磨さんはこんな神光さんの様子を見て“ははぁ、こいつ自分が学問のある事を鼻にかけているな”と思い、

 「お釈迦様の教えを学んで心の底から理解するのには大変な時間がかかるぞ。無限と言わないまでも20年や30年の間は挫けずに一生懸命励んで辛抱に辛抱を重ね、もう、こんな厳しい修業は出来ないと思う位の、そんな厳しい修業を乗り越えなければ、お釈迦様の教えは理解出来ないぞ。それにお前さんの様子を見ていると、人より少しばかり書物を読んで物事が分っていると思っている様だが、そんなものは何の役にも立たないぞ。何もかも捨てて、本当に大決心をしてゼロからの出発をする覚悟がなければ、お釈迦様の教えを学ぶ事などあきらめて今すぐ山を下りた方がよい。」と言われました。

広瀬旭荘の咸宜園

(カンギエン) の塾則“三去”と同じですね。

 達磨さんから、厳しいけれども“本当に何もかも捨ててゼロからの出発が出来るか”と言われた神光さんは思わず、持っていたナイフで自分の左手の肘を切断して達磨さんの前に置き、“弟子にして頂けたら命も惜しまず修行をします。どうか達磨さんの弟子にしてください。”と言う固い決意を示しました。ものすごい決心の表わし方です。

  それほど神光さんの心の中は“達磨さんの弟子になりたい”と言う気持ちでいっぱいだったのです。“達磨さんしか私の心の疑問を解いてくれる先生はいない”と切羽詰っていたのでした。

  もちろん、平成の現代では、いくら“命をかけて修業いたしますから”と言って本当に自分の腕を切り落とすような事をしたら大変な事になりますが、

「僕はこんなに勉強がしたいのです。僕のこの気持ちを受け入れてください。」と言う学問に対する自分の情熱の発露と言った点から見れば、神光さんの様に強く固い決心をして学問を志す事が絶対に大切です。

  達磨さんは神光さんのこの様子を見て、“この男は、鍛えればきっと私が伝えようとしているお釈迦様の教えを受け継いでくれる人物になれる。”と信じました。そして「慧可」と言う法名を神光さんに授けて 達磨さんが中国に来てからの最初のお弟子さんにしたのです。

 これが有名な「慧可断臂(エヵダンヒ)」と言うお話です。おじいさんは禅宗の修業をした事はありませんが、この「慧可断臂」の教えを禅宗では修行を始める時の心構えとして、どんなに大切な事であるか厳しく教えています。

 今年の春、あの有名な雪舟の描いた画の展覧会がありましたが、その中にも雪舟の傑作と言われる「慧可断臂図」がありました。

 おじいさんが読んだある本では、お寺からお寺へと歩いて旅をしながら修業する坊さん(雲水)が、教えを受けたいと思う師の御坊(先生)が住持するお寺にたどり着いて入門を申し込む時、すぐにはお寺の中には入れて貰えず何回も門前払いをされ、それでも門の前に土下座してじっと動かず入門を許されるまで待つのだと言うことが書いてありました。そして雨が降ろうが、雪が降ろうが、何日も粘って“そこまで決心が固いのなら弟子にしてやろう”と言う事になるのだそうです。これは達磨大師とその一番弟子慧可和尚との故事を忘れず、またその故事にならってその伝統が現在でも守られていると言う事 であろうと思います。

 おじいさん達の子供の頃は普段の生活の中で、お盆とかお彼岸にはお寺に参ってお坊さんのお説教を聞いたりして、夫々の家庭で信仰する宗教観に触れて生長してきたものです。戦後は核家族化により、こうした習慣が段々と薄れてきています。

  毎日テレビを見て世の中の表面だけを見ていては人生について大切な事をつい見逃してしまう事になってしまいます。また、学校は先生を友達にして遊ぶ所だなどと考えていては、立派な日本の学問に対する伝統が失われてしまい、大変な事になるのではないかと心配です。

  今日は勉強をする事の大切さ、昔の人が如何に真剣に学問や修業に取り組んだかについてお話して来ましたが、この次は「希望」についてお話したいと思います。これからは段々涼しくなり、やがて「燈火親しむ候」となります。 学習にはもってこいの季節です。毎日少しずつの努力の積み重ねが大きく実を結ぶ時です。

では、又、お元気で

太郎 殿