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大連捕虜収容所 (おじいさん18才の体験)

 

捕虜狩り

忘れもしないそれは敗戦から二年目の一九四七年二月の事である。どんよりとした曇り空の底冷えのする日の午後だった。

敗戦から一年半、売り食いの竹の子生活も底をついて、二度目の冬も畳の下の座板を一枚おきに剥がして燃料にしてどうにか凌いで、夢にまで見た祖国引揚げを目前にしていた時だった。既に大連港には祖国より在留同胞の引揚船が何度か入港していて、一郎の家でもこの一年半の間一緒に暮らした東満州の東安市よりソ連軍に追われて乞食同様の姿で大連にたどり着いた叔父と従兄弟の登がひと足早く引揚船に乗る事が出来て、一家は久し振りに水入らずとなりホッとしていたひと時の事だった。父の茂はいつになく上機嫌で

「引揚げまでもう一息だ。故郷(くに)に帰れさえすればなんとか頑張って、もう一旗上げるぞ」と言いながら

 「一郎、これから芋の買出しに行くぞ。ついて来い。今夜は皆で腹一杯食べよう」と言った。十八才の一郎は、二年前、敗戦の年に中学を一年繰り上げの四年で卒業して、身体だけは人一倍に大きかったものの、まだまだ幼く、上級学校に進学しても同級生達の大人びた言動に驚いたり感心させられていた年頃だった。一郎は父が突然言い出した買出しの話になぜか気が進まなかったが、それでも気を取り直して中学時代から着ていた制服の軍服仕立ての外套を着て、その上から父が仕事で出張する時に手放した事のない大きな山歩き用のリュックを肩にかけ、中に二貫目(7.5kg)のバネばかりと風呂敷を用意した。

午後一時過ぎ、茂と連れ立った一郎は郊外の西山屯辺りの農家を訪ねるつもりで歩き出した。この辺りは小学校時代、遠足で何度も通った道だ。暦の上では立春を過ぎていたが景色はまだまだ冬の最中だ。山歩きに慣れた父は身体に似合わない健脚で、大柄の一郎もついて歩くのに精一杯である。黙々と一時間も歩いた頃、向こうから荷馬車に乗ったソ連軍将校と従兵(蒙古兵)がやってきた。距離が近づくにつれてどうやら肩章をはずした日本兵らしいのが側にいる。フッと視線が合った。不吉な予感が走る。

「ダワイ」と大声で呼び止められる。

従兵がマンドリンと言われた自動小銃を構えて、将校が問いかけてくる。その日本兵が通訳して

  「日本人ですか?」

  「そうです」

  「身分証明書を見せてください」

 「そんなものは持っていません」

「ではこのままついて来て下さい」

有無を言わせぬ状況で「下手に動けば撃たれるかも知れない」一瞬そう思ったが、それよりも「なぜこの様に強制的に連行されるのか」理由がわからない。

そのうちに通りがかりの中国人達が集り始めた。その将校が身振りをしてそのままこの馬車に乗れという。結局、来た道を戻る事になってしまった。あっと言う間の出来事だった。言葉を失った一郎たちは押し黙ったまま、ソ連軍将校リチナン少尉、その従兵、日本兵豊住(とよずみ)等としばらく荷馬車に揺られていた。そのうちに又馬車が止まった。見ると若い日本人の男が止められている。リチナン少尉と豊住が馬車から降りて尋問が始まる。茂と一郎たちが捕まった時と同じ状況が展開される。やがてその人も一郎達の仲間になってしまった。こうした状況が何度か繰り返されて強制連行される仲間も十人近くに増えていった。とっくに馬車を乗り捨てた一行は歩いて大正広場(現在の中山広場)に着いた。広場で市電を待つ間、道行く人の不思議そうな視線に晒されながら一郎は晴天の霹靂とも言える突然の出来事に茫然としていた。

 

強制連行

短い冬の陽射しも午後三時を廻るとかなり西に傾いて、ましてや今日のようにどんよりとした日は薄暗い。一郎達の一行は市電に乗せられた。強制連行される仲間達も時間が経つにつれて、緊迫した中にありながらも少しずつ打ち解けてきて、監視の目を盗んで互いにひそひそと話が交わされる。

「どうやらソ連軍司令部に連行されるのではないでしょうかね」とか

「そこで取り調べられるのではないだろうか」とか

「そうすれば事情説明してこちらの主張を通すチャンスがあるかも知れない」

などと言った希望的な会話が囁かれる。思った通り大広場(現在の中山広場)で電車を降りる。ソ連軍司令部のある所である。

しかし実際は違った。司令部の前まで連れて行くにはいかれたが、一郎たちは司令部前の広場に従兵の監視のもとに戸外に立たされて、リチナン少尉だけが司令部に入っていった。小一時間程も待たされた頃、やっと正面のドアが開いて帽子をかぶりながら階段を降りてきたリチナン少尉は、そのまま何事もなかったように、

「これから収容所に向かって帰る」と言う。

零度近い戸外を何時間も引き廻された挙句に又これから収容所に歩いて帰るとは・・・・彼等は拘束した日本人達について何一つ調べようとはせずに・・・・これでは全く理不尽ではないか? 収容所とは一体何だろう? 何の目的でそんなものがあるのだろうか? ふとそんな疑問がわく。それにしても豊住と言う男は何を考えているのだろうか? ひと言も余分な事は喋らず、我々の疑問にも答えず、また我々の不安を打ち消そうともしない。同じ日本人としてあんまりではないか?

 たそがれてきた道をまた引き返して西山屯方向に歩き始めたが、やがて大連運動場前から聖徳太子堂(現在の中山公園)を通って聖徳街の辺りでとっぷりと日が暮れてしまった。一夜の宿を借りるつもりか、あちこち引き廻されて、とある薬局に押しかけるようにして、泊めてもらう事になる。(当時の街並みを再現したタウンマップで思い起こして見るとミカサ薬局ではなかったかと思う) 

 

薬局での一夜

それまで自宅近くを通りながら母や弟妹達に急を知らせる術もなかった茂と一郎だったが、薬局のご主人や一家のご親切にすがって捕らえられた仲間の全員がそれぞれに家族への伝言をお願いした。その夜、始めてお互いに仲間同士自己紹介をして互いの身の上を語りながら突然我が身に降りかかった災難を自分自身にどう納得させたものかと話し合うのだった。そして明日からどんな運命が待ち受けているのか不安を抱きながら眠りについたのだった。

 しかし、中々眠る事が出来ず、しばらくウトウトしたと思ったとき、突然

 「パーン」と銃声が響いた。ハッとして固唾をのむ。暫くしてまた一発、

 「パーン」。皆がこの銃声に目を覚まして「何事だ」と互いに顔を見合わせたが銃声は二発きりで静かになったのでそのまま眠りについたが、翌朝目が覚めてから騒ぎになった。仲間の一人が夜中トイレに行ったまま戻ってきていないと言うのである。その仲間と言うのは昨夜

 「家に残した新婚の女房と生まれたばかりの赤ん坊が気がかりでどうしても今すぐにも帰りたい」と言い続けていた人だった。

どうやら夜中に小便に行くふりをして便所の窓から脱走を図ったらしい。でも昨夜の銃声は二発だけでそれっきりだったので「何事もなかったのだ」と思っていたのだが、どうやらそうではなかったようだ。

 

遺体を担いで収容所へ

 朝食後リチナン少尉より

 「昨夜脱走を図った者の死体を担いで収容所に向かう」

と申し渡され、遺体を運ぶ準備をする。遺体は薬局と軒を並べる隣の家との一米と離れていない狭い路地に倒れていた。それを二人がかりで引きずるようにして表通りに運び出した。運び出された遺体は大きく目を見開いていて、その目が人形のように澄んでいたのが印象的だった。こめかみにあたった一発が致命傷だった。恐らく即死状態だったに違いない。それにしても「あの蒙古兵の精悍な事よ」と驚かされる。思わず手を出そうとした一郎に茂が小さく叫んだ。

 「触るな。わしがするから一郎はそこで見ておれ」

茂は遺体に手を合わせてからその瞼を閉じ、近所の人の用意した戸板に遺体を乗せて筵を被せ、若い仲間達を指図して手早く急ごしらえの釣り担架を作った。その担架を二本の天秤棒で吊って四人ずつ交代で担ぎながら西山屯を目指して出発した。午前八時頃だったろうか? 薄日の差す比較的穏やかな日だった。

 遺体の重みを肩にきしませながら、聖徳街、真金町、黄金町、大正通、京町、仲町、元町、西町と進む。二十米と離れていない我が家のすぐそばを通る時、家族の誰か、いや近所の誰かがこちらに気づかないかと家のほうを見るが、誰の姿も見えない。戦争中、勤労動員で中学生だった一郎が通った大連機械(現在大連重型機器廠)につながる鉄道の引込線沿いの道を浄水場の塀に沿って歩く。暫く進んで、この線路を横切って大連工業学校の前を通り、名前も知らぬこの犠牲者の家族の住むと思われる社宅を右手に見て通りながらどうする事も出来ず、この無情の葬列はただ黙々と歩き過ぎた。

 

裸の埋葬

 出発してから凡そ十四、五キロも歩いたろうか、急に道を右側にそれて、とある小高い岡に登り始めた。岡の頂上はなだらかな平地だった。そのほぼ中ほどに墓穴を掘った。二月と言うこの季節は、農家ではぼつぼつ春蒔くニンニクの準備をしている頃で間もなく耕作が始まる直前だった。その辺りの畑は去年の秋の収穫以来、北風の吹きすさぶのに任せて放置され、寒風は畑の畝や畦を吹き均(なら)して、ただの岡にしていた。穴掘りの道具など何をどうしたか、今となっては記憶にないが、穴を掘り終わって遺体を埋葬する時、リチナン少尉の指示で遺体が身に着けていたもの全てを脱がした。「これがソ連式と言うのか? 神や仏の存在を否定するのか?」と単純にその時は思ったが、今から思うとこれとは別に証拠隠滅の意図もあったかも知れない。これ等の衣服や靴はまとめて収容所迄運ばれたと思うがその後どうなったかは知らない。全裸の遺体に土をかけて盛り上げ、黙祷を捧げてその場を去った。明日はわが身か? 悲しみの涙も出ない。大声を出して叫ぶ事の出来ない重苦しいこの抑圧感に一郎はただ無表情に耐えるしかなかった。

 

大連捕虜収容所?

 そこから又数キロ歩いた頃、大西山ダムの堰堤が見えてきた。そしてこの堰堤を間近に見上げる所に収容所はあった。収容所はダムの堰堤に向かって右側、水の涸れた馬欄河左岸の土手の台地に数十個のソ連製防寒テントが集合して出来た「仮収容所」と言った感じのものであった。柵も門もなく、茂と一郎達はそのまま誰に挨拶するでなしにテント村の空地に暫く待たされた後、それぞれテントを指定されて分散した。茂と一郎は一緒であった。テントは直径五米ほどの円形で蒙古のパオの様な形をしていて表側が黒で内側は緑色の二重の厚いシートで覆ってあった。 中に入ると入口に暖炉の焚き口があって、そこから幅、深さとも四十センチ位の溝が入口の反対側に向かって地面に直線に掘られて蓋がしてあり、これを煙道にしてテントの外側でケルンの様に泥土と石を一、五米から二米の高さに積み上げた煙突に接続してあった。簡単な構造であったが、テント毎にこの暖炉の構築にかき集める材料がまちまちであったのと構築作業の巧拙によって暖炉の性能に格段の相違があった様だ。焚き口で火を燃やして煙道を熱し、テント内を暖めるのだが、燃料にこと欠き、使役の際に山の立ち木を切って持ち帰り、それを生木のまま燃やすものだから煙がテント内にこもってその日のうちに結膜をやられ、見るもの全てが霞んで虹がかかって見える始末だった。

 この様なテントにそれぞれ十人位の日本人捕虜達が寝泊りして毎日使役労働に駆り出されていた。床には毛布を敷いてあったが、横になると地面の凸凹がじかに背中に当り寝心地は良くない。夜はこの床の上で足をテントの中心に投げ出し、頭を外側に全員が放射状に寝る様になっていた。この収容所の全体の人数は判らなかったが、収容されていた人達の話によると、この収容所は三個中隊で編成され、第一中隊は旅順にいた現役の陸軍軍人、第二中隊は旅順にいた海軍軍人、第三中隊は旅順、大連地区にいた警察官、刑務所看守と言う事であった。各中隊を統括して大隊長が居り、この大隊長が捕虜達の代表としてソ連側との折衝の窓口となっていた様である。捕虜達は戦前からあった旅順と大連を結ぶ旅大北路、旅大南路に加えて敗戦直後計画された第三のルートである旅大中路(現在旅順中路)の建設に駆り出されていたのであった。

 彼等は過酷な条件のもとに連日酷使され、栄養失調や事故の為に多くの犠牲者や脱走者を出していた。そうした人員の不足を補う為にソ連側は度々大連の市街に出かけては、脱走兵狩りと称して道行く日本人を強制連行していたのだった。本来ならば脱走者を連れ戻す為に、ソ連側としては脱走した本人を飽くまで追及すべきであるのに、彼等は日本人と見れば誰彼の見境なく拘束していたのだ。茂と一郎たちが拉致されたこの時期は収容所のあった旅順中路の起点から十五キロ程旅順寄りの旅順・大連の境界地点にある鞍子嶺の峠越えの工事を進めている時だったのだ。この区間の工事は旅順中路建設工程のうちで最大の難工事であった。しかも、工事の現場は収容所から日に日に遠くなり、現場への往復だけでも数時間はかかる状況にあったのである。

 ここに収容されたその日のうちに、茂は大隊長に今回の強制連行について、リチナン少尉のとった行動が如何に不当なものであるかを訴えて親子の釈放を要求した。しかも今回連行された中で茂と一郎たちだけが一家族から二人も連行されている。それに一郎が左眼を「陳旧性出血性緑内障」で失明しかけていて大連病院に通院中であり、いつ発作が起きるか分らない状態にあったから一郎だけでも釈放するように主張した。これを聞いた大隊長も茂の話に同情して、ソ連側に交渉する事を約束してくれた。

 

テントの先客たち

 その夜テントでとった最初の食事は玄米の飯に生の塩漬けサンマだった。それまで家で顔が映るような薄い粟や高粱の粥しか食べていなかった一郎には一見ご馳走だと思ったが、圧力釜ではなく普通に炊いた玄米は噛んでも噛んでも噛み切れず、樽から生のまま配られるしょっぱい塩漬けのサンマも喉を通らなかった。けれども抑留されている先客達は生木を燃やして煙のこもるテントの中で熱した石の上でこのサンマを焼きながら、少しでも自分の口の合わせて食べる工夫をしているのだった。聞けば、このところ野菜は全然なくて三食同じ献立だと言う。全員完全に栄養失調状態である。

 茂と一郎が泊まる事になったテントの先客達は元警察官や看守達だった。この人達は嘗て大連や旅順の警察署や監獄に勤務していたが、敗戦と同時に直接職場から拘引されたり、或は戦時中虐待された中国人達の密告によって連行され、ここで強制労働させられているのだった。しかし幸か不幸か、この人達はこれまでの職業柄、この辺りの地形に明るく、所謂土地鑑がある為に脱走者が絶えず、脱走した彼等によって生じた欠員を補充する為に、一郎たちが昨日入れ替わりに捕らえられて来たという訳である。これは推測であるが、第一中隊、第二中隊は現役の将兵であり、年齢も若い。そして何よりも脱走しても帰る家がない。そうした意味から言っても第一、第二中隊は開き直ってがんばっていたに違いない。そうした観点から見ればソ連側から見て第三中隊は収容所のお荷物でひょっとして差別待遇を受けていたかも知れない。

 

ボルネオ? スマトラ?

 就寝前に注意を受ける。夜中に小便に起きる時は、テントを出たところで「ボルネー」と叫んでその辺りで放尿するように言われる。そうしないと脱走と間違えられて撃たれる恐れがあるからとの事だった。その夜、就寝してから間もなく首筋や、両手首、両足首がむずむずする。何かが身体の中心に向かって侵入している。一つや二つではない。次から次へと入ってくる。手首から肘へ、肘から肩へ、又足首からふくらはぎを通って腿から腰や腹の辺りへ、そして首筋からは背中や胸の辺りへと何かが動く。気になって触ってみるが何もない。一体何だろうと思いながら一晩中まんじりともしなかった。身体を動かすとむずむずが止まる。気分転換にテントの外に出る。

 「ボルネー」と叫んで辺りを見ると、一郎を連行した蒙古兵ともう一人顔の知らないのが歩哨に立っている。外套もつけずにこちらを見ている。「彼等は本当に寒さには強いな」と思う。いつ見ても顔ぶれが変わらない所を見ると、交代もせずに「いつ寝ているのかな」と思われるほどだ。翌朝、茂が起きていうのには、夜中に起きてテントの外に出た時、なんと言うのか忘れてしまい、「ボルネオ」だったか「スマトラ」だったかどちらにしても南の島の名前を言えばよかろうと思って「スマトラ」と叫んだそうだ。これを聞いてみんな大笑いした。いずれにしても意味はあたらずともこちらの意図は通じたのであろう。

 

むずむずの正体

玄米とサンマの朝食の後、茂は今日から手ならしの作業に就き、一郎は軍医に呼ばれた。収容所のほぼ中心に大きな三角のテントが立っていた。一目見て「ああ陸軍の野戦病院のテントだ」と分った。周囲のボッテリしたソ連の防寒テントに比べてすっきりと立っていた。医療器材の見えないガランとしたテントに椅子が二つ置いてあるきりで日本の軍医が座っていた。挨拶をして問診を受ける。病名を聞かれ、発病の日時と経過を説明し、現在視力は光覚ゼロである事を告げて眼帯を外したが、軍医はただ私の左眼を覗き込むだけで診察は終わった。

自分のテントに戻る。同じテントにいる一人が裸になってシャツを裏返しにして寒風に曝している。何をしているのかと聞いたら、虱を取っているのだった。虱を取ると言っても動物園の猿の毛づくろいの様なものではない。シャツ一面に胡麻を撒いたように無数の虱がついている。暫くそのままにして置いて寒さで凍えたところを見計らって、傍らの大きな石に叩きつける様に“パタッ、パタッ”とシャツを煽ると、なんと地面にぱらぱらと落ちてしまった。

唖然としていると彼はシャツを着ながら

 「なぁーに、こんなにしても直ぐに産み付けられた卵が孵ってしまうから限がないのよ」

これを聞いて一郎はフト思い当たった。急いで自分もセーターを脱いで裏返しにしてみた。なんとそこには母の編んでくれた毛糸の編目の一つ一つにと言ってよい程にびっしりと虱がついていた。昨夜のむずむずの正体はこれだったのだ。

 

Kさんのこと

 収容所での第二夜は、第一夜に比べていくらか落ち着いて寝られたが、二日前の強制連行時のショックと興奮が未だ醒めないのかボーッとしている。本人はシャンとしているつもりだが、まだ夢の中をさ迷っている感じだ。此処に来て大勢の抑留されている日本人同胞の中にいると、恐怖は全く感じない。いつから労働作業に駆り出されるのかまだ指示はない。寝るとき父と並んで一郎の右側に旅順刑務所の看守だった人と寝た。今はその名前も思い出せないが、仮にKさんとしよう。Kさんは既に四十才に手が届いていたのではないかと思うが、敗戦後一年半に及ぶ抑留生活で連日労働に駆り出され、栄養失調と疲労で身体は弱りきっていた。朝起きた時は顔も手もむくんでパンパンに張っているが、夕方使役を終えてくたくたになって帰るときは、げっそりと骨と皮になってしまっている。そんな自分の手をKさんは

 「ああ我が余命幾ばくもなし」と呟くように見つめている。明日から自分の運命がどうなっていくのか一郎には実感がわかなかった。

 

命がけの物々交換

 次の日、父と相談して一郎は玄米と塩サンマの食事に「これでは身体が持たない」と家を出るときに持っていたリュックとバネ秤などを売って腹の足しにする事にした。収容所には門も柵もなかったから、近くに住む中国人達が昼間、収容されている日本人相手に色々の食べ物を売りに来ていた。彼等の商品は玉蜀黍の粉で作った餅子(ピンズ)や小麦粉の饅頭(マントウ)等が主で他に果物などがあったように思う。彼等はソ連兵から追われた時直ぐに逃げられる様にそれらを小さな手籠に入れて持っていた。一郎が秤とリュックで餅子との物物交換をしようと話を持ちかけると、彼等は最初からこちらの足元を見ているから条件は厳しい。小さな餅子一個との交換にしかならない。

「それは高い三個と交換だ」

「いや一個だ」

「じゃせめて二個にしよう」とし問答する。ついにしびれをきらして

「いくら何でもそんな事があるものか。も少し負けろ」と言いながら思わず知らず相手の肩を軽く叩く仕種で手を上げかけたら、突然後ろから

「ダワイ」と声がかかった。

振り返るといつの間に来たのか見張りのソ連兵がマンダリンを突きつけている。喧嘩にでもなると思われたのだろうか? 交渉はそれっきりになってしまった。一切れの餅子を手に入れるのにも銃口を突きつけられて命がけでなければならないと言う事なのに、虚ろな一郎の心には殺されると言う実感も恐怖心も起こらなかった。「情けない」と言う感情すらもわかない。

今から思うと、この時期、この収容所の使役労働の実態は不明である。休日が有ったかどうか? それとも雨天休日、晴天労働か? 作業交代制があったかどうか? 一郎がこの収容所にいた三日間はどのテントにも必ず誰かいたし、どこでどんな仕事をしていると言うような話は誰もしなかったから・・・実際に現場で仕事をしない限りその実態は分らなかったのかも知れない。

 

父と別れて

四日目の朝、茂を通して一郎を帰宅させると言う話があった。この収容所に着いた日の茂の主張がどうやらソ連側に認められた事らしい。しかし茂自身については帰宅が認められず、此処に残される事になった。 茂は一郎に

「一郎が帰れば、わしは身軽になれる。最悪の場合、機会を見て脱出を図るつもりだ。家へ帰ったらお前も知っている後藤さんに頼んで釈放運動をするようにしてくれ」

と言った。昼食後、父に別れを告げる暇もなく、来る時一緒だったリチナン少尉、従兵、豊住と四人で収容所を離れる。どうやら一郎を家まで送るつもりらしい。来た道をそのまま戻るのかと思っていたら、いきなり反対の裏山に登り始めた。「何故だろう?」と疑問に思いながらリチナンに続く。いつ降った雪なのか石ころや、草の茂みの陰や土の窪みに残る僅かな残雪を踏みながらかなりの急勾配を一気に上る。五十米もあったろうか、頂上で一息入れる。

「何故こんな山道を辿るのか?」考えてみたが結局収容所の存在場所を眩ます為の行動としか思えない。休みながらリチナンに英語が喋れるか聞いてみる。出来ないと言う。けれどもこんな話ができるのは一体どういう訳だ。この五日間一郎が置かれていた境遇と一転した今日の境遇とこの違いは何であろう? と同時に「父の事をどう助け出したものか」で頭の中は一杯だった。

尾根伝いに道を大連の市街方向に下りながら、一郎たち四人は何処をどう歩いたか二時間ほど歩いてやがて見覚えのある所に出た。リチナン少尉に

「お前の家まで案内するように」

と言われて仕方なく彼等を伴って我が家に帰り着いた。

 

五日振りの帰宅

敗戦からこのかた我が家の玄関は締め切りにしてあった。加えて同じアパートの住人や隣組の人達と協力して二つある路地の出入り口の一つを閉鎖し、もう一つには頑丈な木戸を設けて用心していた。狭い裏口のドアを開けて

 「ただ今」と言うと、声を聞きつけた母が飛んで来た。

「ああ一郎だ! お帰り、よく帰ってこられたね。よかった、よかった。みんな、お兄ちゃんが帰ってきたよ!」 母の弾んだ声に弟と妹がドッと駆け寄った。

「実はロシヤ兵に送られて帰ってきたんだ」

「まあ、そうだったの、それなら事情はとにかく後回し、あがって貰いましょう」

事情を知らないまま、母はリチナン少尉一行を座敷に上げて心ならずも一郎を送り届けてくれた礼を述べるのであったが、リチナンは茂や一郎については一切話さず、夕食をとった後、彼等だけで隣の部屋で一泊して翌朝帰っていった。

彼等が帰った後、一郎はリチナン少尉に強制連行されてからの経緯を詳しく母に話した。リチナンが茂と一郎を拉致した本人である事をこの時はじめて知った母は

「昨夜この事がわかっていたなら、もっと対応の仕方もあったのに」と口惜しがった。そして母からも茂と一郎がソ連兵に連行された事をその翌日薬局のご主人からの知らせで聞いた後、直ちに父の友人であった白系ロシヤ人のスタブスキー氏を訪ねて何とかならないか相談に行った事を聞かされた。

 

スタブスキー氏のこと

敗戦の時までロシヤ革命で共産主義に反対した帝政派のロシヤ人達は白系露人と言われて海外に亡命していた。満州にも多くの白系露人が流れ住んでいて北部の中心都市であるハルピン市は特にロシヤ情緒にあふれたエキゾチックな街であった。そして大連にも色々の職業に携わりながら多くのロシヤ人が住んでいた。彼等は貿易商、レストラン、ケーキ・パン屋、クリーニング屋等様々な商売をしていた。こうした中の一人であったスタブスキー氏も父の若い頃からの知り合いで一郎の小さい頃、時々我が家に来ては茂と英語、中国語、片言の日本語をチャンポンにして商売の話をしていた。敗戦と同時に思想的に本来はソ連軍と相容れない立場にあった筈の白系ロシヤ人も日本語や中国語ができる事から、棄てたはずの祖国に再び忠誠を誓ってソ連軍の通訳等として働いていた。

母がすぐ下の弟を連れてこのスタブスキー氏の自宅を訪ねた時、話を聞いた同氏は母に同情して、たまたま自分がソ連軍の司令部に勤めている事から茂の身柄釈放に協力する事を約束してくれたが、五日経っても連絡の返事がないと言う。しかし拘束した人間の名前も住所も調べずに収容所に引っ張られていたのだから連絡がなかったのは当然で、これでは母達の骨折りは全くの無駄骨であった訳だ。収容所では自主的に日本側の名簿は出来ていたかも知れないが、ソ連側に存在する名簿は一体どんな内容であったろうか? 実際に一郎が強制連行された経緯から見て、スタブスキー氏が好意をもってソ連側に申し入れてくれたとしてもそんな名前は何処にもないと言う事でそのままになってしまうのがオチだったろう。しかしそれはそれとして父の言っていた後藤さんにも連絡をとって善後策をとる事にした。

 

父の釈放について相談をする

後藤さんは父の戦前からの古い友人だった。一郎の家にも度々来ては茂と仕事の事でよく話し込んでいた。後藤さんにはハルピン学院を卒業した一郎より四、五才年上の息子さんがいてロシヤ語がよく出来た。戦後大連がソ連軍に占領されてからは得意のロシヤ語を生かして通訳をしていた。一郎はこの後藤さんにお願いして父の解放について善後策を相談した。

「実は僕も脱走兵狩りにあって大変な思いをした事があるのですよ。あの時は本当にもう必死の思いで、ありったけのロシヤ語の単語を並べてやっと助かった」と気さくに話しながら一郎の話を聞いてくれた。色々相談した結果、先ず父の身分証明のため沙河口公安局で居住証明書を発行してもらい、それを持って父の所へ行く事にした。早速後藤さんと公安局に行き、公安局内にあったソ連軍司令部の出先の指揮官に事情を話して証明書の発行を申請したらその翌日に居住証明書を手にする事が出来た。更に後藤さんがこの証明書を受け取って一郎に渡しながら

「明日このソ連軍司令部分室から一人下士官を派遣してお父さんの身柄を引き取りに行ってくれるそうです。青木さんあなたが道案内をして下さい」

と言ってくれた。一郎は思いがけない状況の進展に喜び勇んで明日を楽しみに待った。

 

ソ連下士官と二人で収容所へ

翌朝八時に約束どおり公安局の前で待っていると後藤さんとソ連の下士官が現れた。後藤さんは残念そうに

「青木さん、大変申し訳ないけれども、昨夜急に用事が出来て私は今日ご一緒できなくなりました。この下士官によく事情を説明して頼んでありますから、二人で行って下さいませんか」

と言われる。ロシヤ語の出来ない一郎はこの下士官と二人きりの収容所行きに一抹の不安を覚えたが、後藤さんの尽力に感謝し、結果は後で報告する事にして、この下士官と連れ立って西山屯に向かう事にした。黙々とひたすら歩調を合わせながら歩く。あまり黙りこくって歩いていると何だか気まずいと思い敗戦以来聞き覚えたロシヤ語の単語を断片的にぎこちなく並べて話してみるが旨く通じない。そうこうする内に大西山ダムの堰堤が見えてきた。そして、ふと一緒に歩いていた下士官の歩みが止まった。

「収容所はどの辺りか?」と身振り手振りで聞いてくる。

「収容所はすぐそこだ」とその方向を指しながら一郎も必死で身振り手振りの説明をするが、下士官はどうやら

「此処から先は旅順の管轄だから駄目だ」と言う。そして

「あらためて出直さなくてはならない」と言う。

結局収容所を目前にして引き返さざるを得なかった。この顛末は母から後藤さんに報告し、後藤さんから公安局に確認してもらったがやっぱり同じ返事が返って来た。敗戦国民としてソ連や中国の当局に対抗するには、後藤さんの力も此処までが限界だった。

 

居住証明書を持って収容所へ

翌日、母と相談して一郎は父の見舞いに行く事にした。母の手作りの蒸しパンと二合程の焼酎、それに一握りのピーナッツを雑嚢に忍ばせて再び収容所への道を辿る。大西山ダム堰堤前から馬欄河の河原に出て収容所に近づく。見張りのソ連兵は一郎の近づくのに気づいていたが何も言わない。そのまま父のいるテントを目指して潜り込んだ。都合よく父は未だ使役労働には出ていなくてテントにいた。Kさんも横になっていた。一郎は父に居住証明書を渡しながら四日前収容所から釈放されてからの出来事を手短に話した。そして昨日沙河口公安局のソ連軍司令部分室の下士官と一緒に父を引き取りに来ながら途中で引き返した経緯を話した。この話を聞いて茂は非常に残念がった。しかしこの居住証明書をもう一度ソ連側に見せて釈放を要求してみる事にした。それから一郎は雑嚢に忍ばせた焼酎とピーナッツ、それに蒸しパンを父に手渡してからテントを離れた。収容所の台地から馬欄河の河原に下りる時、見張りのソ連兵と目が合った。一郎が片手を挙げて振るとその眼が笑った。この様な場合、無断で収容所に出入りする事は無謀な行為であったに違いない。一郎が誰何もされず、撃たれずに済んだのは一郎が茂とは親子であり、彼が正式に釈放された人間である事を相手が認識していたからに他ならない。このあと一郎は四、五日おきに二度ほど収容所に通った。

 

Kさんの死

二度目に一郎が収容所を訪ねた時の事である。Kさんの姿が見えない。どうしたのかと茂に尋ねると

「あゝ、Kさんか、Kさんは亡くなったよ。このあいだ一郎が来た翌々日だったかな。前の晩まで元気に話をしていたのに、朝起きた時は冷たくなっていた」と言う。

茂の話では一郎が届けた焼酎はその晩、食事の後で同じテントの仲間と一口づつ飲んだそうだ。長いあいだアルコールを口にしていなかった身体にはこの一口の焼酎はひどく効いて、みんな打ち解けて身の上話をしながらお互いに慰めあったと言う。Kさんも

「昔は酒に強かったのになぁ。たった一口で本当に酔ってしまった。青木さんの息子さんのお陰でこんな旨い酒が飲めるとは思わなかった」

と言いながら旅順刑務所に勤務していた時代の話をしたそうだ。刑務所では当時重罪の囚人達を収監していて、中には死刑囚も居たそうだ。死刑囚の日常の生活振りや、死刑執行に立ち会う話や、死刑が執行された夜、特別に支給される酒に酔って重苦しい気分を紛らわせた話など茂には始めて聞く話ばかりだった。一日置いた次の朝、Kさんの安らかな寝顔のままの死に顔を見て、あの夜のKさんの話はきっとKさんの思い出話と言うよりも死を予感していたKさんの問わず語りの遺言だったのではなかったかと思われてならないと茂は言った。

 

帰国引揚げ目前に迫る

一郎たちの住む地区にもそろそろ引揚げ帰国の順番がまわって来て、引揚げ団の編成があり、一九四七年三月初旬に乗船が決った。ただし、日本からの配船の都合でその直前まで確定的な時間の知らせはないとの事で連絡を受け次第、小学校の校庭に集合する事になった。一郎はこの事を収容所の茂に知らせる為に出発予定の三日ほど前にテントに茂を訪ねた。

「お父さん、いよいよ引揚げの日程が決りました。とりあえずお母さんの実家に落ち着く事にしました」

「そうかとうとう決ったか。それならばこの際お前はお母さんと弟妹を連れて先に帰ってわしを待っていてくれ。わしはお前たちの帰った頃を見計らって此処を抜け出す」

こんな会話を交わした後、一郎は幾らかの食物と日本には持ち帰れない残りの軍票を差し入れてテントを去った。父の生還を信じていた一郎には不思議な程に「生きるとか、死ぬとか」言った悲壮感のようなものはわかなかった。

 

脱走計画

一郎を帰した後、茂はある意味で身軽になった事を実感していた。そして残した家族が全員内地に引き揚げるのを待って、脱走を実行する事について具体的に策を練る事にした。いつ、何処で、どの様に、実行するかを決めなければならないと同時に、労働使役は真面目にこなして監視の兵隊に「あいつには脱走の意思は全くない」と思わせる必要がある。茂は日々の重労働に耐えながらチャンスを狙った。

その頃、茂が使役されていた第三の旅大道路の開削工事もこの収容所から十五キロ程旅順寄りにある旅大間の最高峰(鞍子嶺、標高凡そ500)の峠に差しかかっていて工事は最大の難関に逢着していた。毎日収容所より歩いて現場への往復に時間を費やして夕方へとへとになってテントに帰った。

茂は一九三五年頃より十年に亘って満蒙の地下資源開発事業に携わっていて、石炭、金属鉱物、耐火煉瓦の原料となる硅石等の鉱物を探鉱調査しながら山歩きをしていたので地質や地形についての知識を持っていたし、中国語も不自由無しに相当に話せた。茂は使役の行き帰りに、歩きながら道の両脇の地形を観察しながら密かに脱走計画を練った。

◎ 直接収容所から脱出するのは危険が多い。

◎ 脱走するとすれば現場と収容所との往復の途上しかない。

◎ 脱走地点は平地より谷あいの地形の方が有利である。しかし三月の鞍子嶺の山肌は裸同然で、まばらに生えている木は落葉していて、たとえ脱走しても尾根を越えるまで身体を遮蔽するものがない。となると時間的には夜と言う事になる。

◎ 地形的には収容所は大西山ダムの貯水湖畔にあり、馬欄河の上流には現場の鞍子嶺迄にもう一つ王家店子ダムがある。この二つのダムを避けなければ脱走しても南下して黒石礁に出るまでかなり迂回しなければならない。

◎ 結局、脱走地点はできるだけ現場に近く蘇家屯か岔鞍村の村外れ辺りが良いのではないか?

 茂はこうして基本的な考えを纏めて決断し、後は天の時を待った。

 

脱出成功

程なくその機会はやって来た。三月末の事だった。いつもの様に使役作業を終えて、捕虜達は隊列を組んで道具を担ぎ収容所までの帰途についた。茂は例によって隊列の後ろの方をのろのろと歩きながら「今日辺りひょっとしたらチャンスがあるかも知れない」フッとそんな予感がした。新月の前の頃で暦の上で春とは言っても未だ短い冬の日はとっぷりと暮れて宵闇はかなり暗い。隊列はいつもより長く伸びて先頭との距離がかなり開いた。殿(しんがり)にいる蒙古兵がマンドリンを突きつけて

「ダワイ、ダワイ」と急き立てるが茂はわざと歩けぬ振りをする。

暫くそんな状況が続いたがその内に先頭の方で何かあったのか、殿(しんがり)のこの蒙古兵が急に隊列の前の方に駆け出した。「チャンスだ!」そう思った瞬間、その時最後尾にいた茂は歩きを止めた。暫く前の方の様子を窺がいながら「先ずは腹ごしらえだ」と、うまい具合に路傍にあった飯屋に飛び込んだ。スープを注文し、それに冷えた餅子を千切って浮かしてかき込みながら更に前の様子を窺がうが一向に蒙古兵が戻ってくる様子はない。茂はチャンス到来を確信した。スープをひと息に飲み干してから茂は道具を捨て、飯屋のすぐ裏の斜面を一気に駆け上った。五十米はあったろうか急な斜面を駆け上がって稜線の向こう側に身を躍らせた時、後ろの方で自動小銃の連続発射音が響いた。すぐ傍らの岩陰に身を隠して息を殺して様子を見る。どうやら追ってくる様子はない。「助かった!」と茂は思った。

暫くしてから茂はゆっくりと身を起こした。幸い空は晴れていて月はなくても満天の星である。深夜に道路を歩いては却って怪しまれると思い山道を辿る事にした。北極星を見定めて方位を確かめ南の方角を目指す。「小平島と黒石礁との間の何処かで旅大南路に出さえすれば後は道を東に取れば良い」と考えて只管夜道を歩いた。明け方近く倭寇伝説のある陵水寺に出た。此処から黒石礁まではもう一息である。黒石礁迄行けば市電がある。停留所近くから人ごみに紛れて始発電車に乗った。「仲町の自宅に帰って足がついてはまずい」そう思った茂はこのまま市内の友人松木氏を訪ねる事にした。松木氏はW大出身の新聞記者で若い頃一時期社会主義思想に惹かれた事もあったらしい。茂とは古い友人で会えば時局を談じる相当の論客であった。そうした事から敗戦後は大連に在留する日本人同胞(日僑)の世話役として町内会の役員も兼ねていて、同胞引揚げ団の編成に当たっていた。

 

帰 国

突然飛び込んだ早朝の訪問客に松木氏は非常に驚いたが、すぐにそれは喜びに変わり

「おお青木さん! よく帰ってきた! あんたの事は奥さんから聞いてとても心配していたよ!」

「松木さん今度と言う今度はえらい目にあったよ」

と茂は昨日からの脱走の顛末を話しながらこの後どうしたものかを松木氏に相談するのであった。

やがて松木氏は茂の名前を変えて山田健一とし、茂のために架空の身の上話を作り、最も早い引揚げ船の乗船名簿にその名を加えてくれた。

こうして茂は山田健一と名乗って帰国する事が出来た。

 

大連再訪

一郎一家が中国大陸より引き揚げてから既に五十四年が経過した。父の茂は既に他界して今はない。この間に一郎は引揚げ後四十年目の一九八七年に戦後初めて大連を訪れた。当時の大連は文化大革命が終わったばかりで、中国全体が藍一色の世界であった。道行く人々は男も女も皆藍色の工人服に工人帽であった。既に戦後四十二年たっていたにも拘らず、大連の街の様子は一郎が引き揚げてきた時のままであり、当時住んでいた家も故郷の廃屋と言った趣ではあったが数家族の中国人が住んでいた。正に四十二年前にタイムスリップした思いがしたものである。その後、一郎は勤め先の関係や、個人的なつながりから毎年のように中国に出かけるようになったが、いつも仕事がらみで、父と共有したこの体験についていつか現地を再訪して見たいと思いながらも果たせないでいた。

ところが文化大革命後の十余年間、中国の経済発展には目を見張るものがあり、ここ大連市も嘗ての市街地区はどんどん西北に伸び、人口も日本の統治時代に比べて十倍以上にもなり、今や人口二百万の大都市に成長し、北方の香港と言われる迄になっている。一郎達が住んでいた仲町の家は既に取り壊されてこの辺り一帯は七階建てのアパート群に変貌し、一郎が遠足や強制連行で辿った馬欄屯までの道も、今は黄河路として大連駅からバスが走る幹線道路になっている。一郎達が捕まって、その夜撃たれた犠牲者の遺体を担いで歩いた道の様子も、遺体を埋葬した岡の景色も今は新しい街並みに埋もれてしまって当時の面影は全くない。何が何処にあったのかその手掛かりすら見つからない。そしてこの黄河路は馬欄屯広場で紅旗路に続き、更に旅順中路とつながる。紅旗路と名づけられた辺りは紅旗鎮と称する町であるが、この名称は戦前にはなかったものである。この紅旗鎮の西のはずれ近くに湾家村があり、今はこの辺りから大西山貯水池を望む事ができるが、当時は貯水池との間に小高い丘があり貯水池を望めなかった筈である。馬欄河に沿った紅旗路は貯水池の堰堤の辺りから旅順中路となっている。

 

収容所跡発見

「ここの小学校が嘗て捕虜収容所の在った所ですよ。ご希望でしたらお昼前にご案内しましょう。そう、私が子供の頃の事でした。あそこに日本人が大勢収容されていて、毎朝道具を担いで整列し、旅順中路の建設現場に駆り出されていましたよ」

一郎が一九九九年三月大連に旧友を訪ねてその紹介で馬欄屯にある某企業を訪ねた時の事だった。そこの副社長の案内で収容所の在った跡を見る事が出来た。しかし貯水池の堰堤の上から「それ」と指差された方向にある馬欄河の左岸台地には小学校を始め幾つかの数階建ての建物が川を背にして建っていた。これ等の建物の正面を走る紅旗路は四車線の立派な舗装道路であるがこれが完成したのが二年前(九七年)だと言う。一郎が解放される時リチナン少尉等と登った収容所裏の小高い丘は完全に無くなってこの四車線の道路に変貌していた。

一郎は今回ここを確認する以前にやはり仕事の関係でここより旅順寄りにある張家村の縫製工場を訪ねた事を思い出した。九五年の事である。そう言えば当時この辺りは道路の拡張工事の最中で特に湾家村から張家村へ抜ける道は切り通しにになっていて、車二台がやっとすれ違う程の道幅しかなかった。思えばあの道こそが茂や日本人捕虜達によって開かれた道だったのだ。そしてあの時通った工事中の切り通しの貯水池側はすっかり削り取られて平地となり、今は貯水池を見晴らす広い公園になっていて園内には亭や花壇が作られて、遊歩道が巡らされていた。

 

再び現場をたずねて

翌日一郎は昨日の手掛かりをもう少し確かめたいと思い、友人の息子で日本語の話せる漢君を連れてもう一度湾家村、張家村を訪ねる事にした。湾家村で貯水湖畔を耕していた老人の家族を見かけて話し掛けてみたところ、偶然にも当時の事を覚えていて捕虜達の労役を見ていたと言う。フト茂から聞いていた鞍子嶺と言う地名を思い出し、

「ところでお爺さん、鞍子嶺という所を知らないかね?」

「ああそれなら此処から旅順寄りにバスで三十分程行った所にあるよ」

思いがけない返事であった。

早速通りがかりのタクシーをとめて、時間決めでこれを雇い鞍子嶺まで行く事にする。車が走り出して凡そ十分も経ったろうか? 道はやがて山にさしかかった。大西山ダムから一つ上流の王家店子ダムを過ぎて間もなくタクシーの走行メーターがそろそろ十五キロを示す頃鞍子嶺に着いた。

鞍子嶺は旅順口区と甘井子区との境界にある峠の頂上で、そこには両区の境界石が建っていた。此処から先は乃木・ステッセル両将軍の会見で有名な水師営を経由して旅順に通じていると運転手が言う。「この足元の道こそ父の茂や日本人捕虜達の血と汗で拓かれた道なのだ」そう思うと万感胸に迫るものを覚えた。車を降りて二つの境界石を前にして写真をとる。思えば茂が脱走したのもこの時期である。山の木々は全て葉を落としていたが、早春の柔らかい日差しに「蕾が膨らみかけたかな」と言った感じである。空は抜けるような群青で山の稜線がくっきりと浮かび上がっている。時折通る車から訝しそうに我々に向けた視線が覗く。鳥の囀りがひときわ高く響く静寂に身をゆだねながら暫く辺りの景色を心に刻んだ。

「旅順に向かいますか?」運転手の声にフト我に帰り

「いや、もう良い、このまま戻ろう」と答えて車を転回させて帰途につく。

 

直感!「此処に違いない」

あらためて道の両側を注意深く見ながらタクシーを走らせる。と、突然両側に山が迫り、村の家々が途切れ途切れに一列に道に沿って並ぶ所があった。「此処だ!」と思わず心に叫んでタクシーをゆっくり走らせる。そこから暫くこうした風景が続いた。王家店子ダムまでの約二キロ程の間である。この間の何処かで脱走をしたとすれば二つの貯水池を避けて山道をたどって小平島から黒石礁の間に出られた筈である。車を停めて少し歩いて見たいと思ったが同行の漢君の

「大連市内なら良いけど、この辺りの人達の日本人に対する感情が分らないから用心した方がよい」との忠告を入れて通過する。蘇家屯、岔鞍村の地名を地図に記しながら「それにしても大西山ダムから此処まで十五キロ余りの道程を毎日ツルハシやスコップを担いで朝夕鞍子嶺の現場まで歩かされたのだろうか?」と疑問が脳裏をかすめる。若しそうだとすれば現場往復に四時間以上かけた事になる。犠牲になられた人達の苦労は如何ばかりであったろう。戦争に敗れたが故にこの様に日本人の血と汗によって建設された道路も世に知られる事も無くその佇まいをどんどん変えてゆく。ほんの五十年余り前の出来事だと言うのに・・・・・

 

大連図書館で

次の日、旅順中路について中国側に当時の記録がないか調べたいと思い、旧友のU君と相談して大連図書館に行った。去年刊行されたと言う大連誌()を閲覧して昨日までに知り得た事についての記述を期待したのだったが、お目当ての本は無かった。しかし折角此処まで来たのだからと思い直してあれこれ探すうちに甘井子区誌()に行き当たった。その三〇二頁に僅か数行だが旅順中路に関する記述を見つけた。記述によると、結局捕虜を使役に使った事は全然書いてなく(当時はソ連の捕虜だったし、中国の公文書だから当然と言えば当然だが)ただ単に、

「一九四七年十一月着工、四八年十一月二十五日完成、同年十二月八日開通式を行った」とあった。

ただし、この記述の中に旅順中路の工事中、鞍子嶺工区が最大の難工事区間であったと記してあった。茂の脱走したのが四七年の三月末頃だとすると、この記述は時間的に一年以上のズレがあるが、それは関東州が当時ソ連軍の軍政下にあり、ソ連管轄の下に日本人捕虜達が二年余をかけて建設した基盤の上に中国側がソ連よりこの工事を引き継いで完成したものと思われる。茂が脱走したその頃は工事区間も鞍子嶺にさしかかっていて貫通を目前にしていたに違いない。いずれにしても一郎は日本人捕虜の労役によって旅順中路建設が始められた事は間違いないと確信した。

また同区誌によると、日本による関東州統治時代に建設された旅大北路と南路(いずれも一九二四年開通)についても記述があったが、これによると逆に当時の中国住民が、金持ちは馬車や車を、一般農民達は労役を供出させられて無報酬で道路建設工事に駆り出されたと書かれていた。所謂勝てば官軍で、敗者の声は勝者によって消されてしまうのだ。

関東州は敗戦により、ソ連軍に占領されたが、そのソ連軍は一九五〇年十二月全面的に大連より撤退して旅順に移動し、更に一九五四年七月旅順からも全面撤退した。現在大連市政府 (旧関東州庁)前広場に建っているソ連軍の戦勝記念碑はその名残である。

その後この捕虜収容所がどうなったか一郎は知らない。ソ連軍撤退に伴ってシベリヤ辺りに移送されたのか? それとも旅順中路完成後大連で解放されたのか? 

どなたか知る人があれば教えて頂きたいと思う。

 

記録抜粋:

◎ 甘井子区誌 三〇二頁 県級公路:

  截至一九九〇年末、全区有十条県級公路。総里程98.2公里、全部黒色路面。解放后至一九九〇年間、県級公路較大工程有。一九四七年新建大連到旅順的第三条通道―旅大中路、全長46.085公里。該路在境内馬欄村魏家台子到鞍子嶺路段打通鞍子嶺工程最為艱巨。該工程由大連県政府負責施工、港鉄築路大隊承建。全線于十一月開工、翌年十一月二十五日建成十二月八日挙行通車典礼。

◎ 一九五〇年十二月「中国長春鉄路、旅順口及大連的協定」蘇連側代管的企業全部移交中国政府。