牧師エッセイ      
「十字架の見えるテラスから」2020

 
 「十字架の見えるテラスから」(35)
 

 3月になり、卒業式のシーズンになりました。今年、新しい道へと進もうとしている若い方たちに神様のお守りと励ましがあることを心からお祈りしています。節目の年を思うように過ごすことができなかった思いがあるかもしれません。しかし、新しい道には必ず光があり、喜びがあることを信じて歩みだしていただきたいと思います。
 教会は、2月から4月の初めまで受難節という特別な日々を過ごします。これはイエス様が十字架におかかりになるまでに経験されたお苦しみを覚え、その苦しみが私たち人間のためであったことを覚える時です。イエス様の十字架を歌った賛美歌の歌詞にこうあります。「「十字架の血に救いあれば、来たれ」との声をわれはきけり。」(賛美歌21-436)命を捨ててしまったほうが楽になれるのではないかと思うような苦しみ、どこまでも暗いトンネルが続いているような気持ちになる時があります。そのような時に救いがここにあると伝え「ここに来なさい」と招くためにイエス様は十字架におかかりになりました。誰にでも安心できる場所を作るためにイエス様は十字架にかかってくださいました。イエス様は私たちと一緒に歩き、光を見つける力を与えてくださいます。

 「主よ、わたしの祈りを聞き、助けを求める叫びに耳を傾けてください。
  わたしの涙に沈黙しないでください。
  あなたの目をわたしからそらせ、立ち直らせてください。 
  わたしが去り、失われる前に。」 詩編39編13、14節

 
 
 「十字架の見えるテラスから」(34)

 

 1月17日から、緊急事態宣言を受けて礼拝堂に集うことなく、礼拝のライブ配信を通して各家庭で礼拝を守ることにしました。日曜日の午前9時15分からの日曜学校礼拝は、インスタグラムでライブ配信を見ることができます。午前10時半からの主日礼拝は、ホームページのyoutubeのマークからご覧になることができます

 先日、Yahooニュースのトッピックの中に「ホテルの机や書棚に「聖書」、なぜ置いてあるの?廃業したら、行く先は?」というものがありました。ホテルに行くと、私も必ず聖書が置いてあるかをチェックをします。ホテルに置いてある聖書は、ギデオン協会という世界中で聖書を無料で配付する活動をしているグループによって置かれているものです。会員の皆さんがご自分で聖書を買って、ホテルだけではなく、学校の前で配ったり、病院に配ったりされています。熱心に活動に参加されている何人かの方々にお会いし、親しくさせていただいた経験から、ギデオン協会の活動がこのような形で多くの方に知られるようになることをとても嬉しく思いました。
 なぜこのような記事が載ったのだろかと思いながら読んでいくと、最後の記者の質問はこういうものでした。「ホテルの聖書が自殺防止に役立っている、との話も聞きました。」ギデオン協会の方の答えは「ホテルなどで聖書を読んで心の傷が癒され、魂に休息が与えられることを願っています。」というものでした。本当に悩み、苦しみ、死を選ぼうとする人が増えているからこそ、このような記事が載せられたのだと思いました。自分に利益のない、善意の活動は、人の心を暖かくします。心が冷え切ってしまうような時に、心を暖かくする言葉や行動が強く求められていることを感じました。

「わたしの胸が思い煩いに占められたとき、あなたの慰めがわたしの魂の楽しみとなりました。」                                詩編94:19

 
 
 「十字架の見えるテラスから」(33)
 

 新しい年が始まりました。2021年が神様に守られた、平安で喜びの多い年となりますようにお祈りしています。教会は、今年も神様の人に対する思いを伝え、神の子として生きる喜びを伝えてまいります。

 年末は、2020年という世界にとって特別であった年を振り返る時でした。それぞれの生活が変わっただけではなく、世界が変わってしまったと感じるのは誰にとっても始めての経験だったと思います。いったい何ができなくなってしまったのかと改めて考えてみると、「交わる」ということができなくなりました。交わりのなかには、食事や会話が含まれます。また共に歌うことや一緒の時間を過ごすことも含まれました。教会にとって、食事や会話、賛美歌を歌うことは活動の中心的なものでした。それらがなくなってみると、どうやって人の心と触れ合い、わかりあい、励ましあったらよいのかと悩みつついろいろな挑戦をしています。教会では月に一度カレーをみんなで食べる時間がありました。礼拝後に慌ただしく準備をし、会話をしながらカレーを食べる。あの時間がどれだけ自分の心をなごませ、人と心を通わせることができた時間であったかと振り返ります。

 しかし、コロナウィルスの流行によって私たちは目に見えない誰かを思う気持ちが生まれました。それはこの世界を混乱させた出来事が生み出した希望だと思います。忙しさのなか、自分と自分の周りのことだけを考えていた私たちが、今大変な思いをしておられる方の思いになって考えるようになりました。自分だけが幸せであればいいという考えは、ウィルスの前では全く意味のないものだったからです。

 新しい年、さらに一歩踏み出して、苦しみ、悲しみのなかにある人を思い、助け合う世界になることができるように祈り、歩んでいきたいと思います。

「神は、あらゆる苦難に際して私たちを慰めてくださるので、私たちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。」 コリントの信徒への手紙 Ⅱ 1:4

 
 
 「十字架の見えるテラスから」(32)
 
 12月になりました。クリスマスが近づいています。教会も、例年にくらべると少なくしましたが、クリスマスの飾り付けをしました。アドベントクランツのローソクに火がともり、庭の電飾の光を見ると、クリスマスを今年も変わることなく迎えることができる喜びを感じます。

 「大草原の小さな家」のテレビシリーズで、インガルス一家が互いに贈るクリスマスプレゼントを用意する物語がありました。お互いにクリスマスまでは内緒にして、相手の喜ぶ顔を想像しながらプレゼントを用意します。貧しいゆえに、どうやってお金を用意するか苦労します。ローラは、お母さんがずっと欲しがっていた薪ストーブを買うために、生まれた時から大事に育てきた馬を売ります。彼女にとっては親友であり、宝物の馬でした。まさかローラが馬を手放したとは思っていないお父さんは、ローラのために馬に乗る時に使う鞍を木彫りで用意していたのでした。クリスマス当日、お父さんがローラのために作った鞍を見せると、ローラは喜び、涙を流します。その時、ローラがお母さんのために買った薪ストーブが到着し、同時に馬が連れられていくのです。

 クリスマスのプレゼントは、相手への深い思いを持って贈り合うものだと気がつかされます。今年のクリスマスは、家族や友人だけではなく、苦しみや悲しみの中にある人、日々懸命に医療に従事している人たちを思って祈り、分かち合う時にできたらと思います。神様が私たちを思ってイエス様をこの世へと降り、生まれさせてくださった本当の喜びを深く知るクリスマスになることでしょう。

「神は、その独り子をお与えになるほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」  ヨハネによる福音書3:16

 
 
 

「十字架の見えるテラスから」(31)

  
 11月になり、11月29日から教会はアドベントに入ります。教会には独自の暦があり、教会の一年はアドベントから始まります。イエス様がお生まれになるクリスマスを待ちながら準備をする期間をアドンベントと呼びます。日曜日ごとに1本ずつローソクに火がともり、4本のローソクに火がともるとクリスマスになります。

 新型コロナウィルスが流行する中で迎えるクリスマスは特別な意味があると思います。世界中が暗闇を経験しました。ローソクの光には、私たちの心まで照らす暖かさがあります。残念ながら、電気の光はスイッチを消せば消え、ローソクの光も吹けば消えてしまいます。しかし、最初のクリスマスに私たちに与えられた真の光、イエス様の光は私たちの心を照らし続ける光です。力のない赤ちゃんとしてお生まれになった神の独り子のお姿は馬小屋にあります。目に見える光はなくても、神がこの世に来てくださった馬小屋は世界で一番安らかで、暖かく、優しい光に包まれた場所です。今年も馬小屋におられるイエス様をお迎えする心の準備をして、真の光をお迎えしたいと思います。

「高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く。」  ルカによる福音書1:78、79

 
 
 「十字架の見えるテラスから」(30)
  10月を迎えました。10月の最初の日曜日に私たちの教会は、聖餐式を9ヶ月ぶりに行うことができました。聖餐式とは、イエス様が十字架で血を流され、その肉体を傷つけられて亡くなられ、私たちの罪を洗い清めるために血を流し、命をささげてくださったことを記念して行う教会がとても大切にしているサクラメントと呼ばれる典礼の儀式です。月の第一日曜日にこれまで行ってきました。しかし、イエス様の血として小さな杯からぶどう酒を飲み、肉体として小さく切ったパンを食べることから、新型コロナウィルスの流行によって中止せざるおえなくなりました。ようやく細心の注意を払って再開することができました。

 3月の礼拝堂に集う礼拝を中止する日々から、私たちは少しずつ回復をしてきています。礼拝堂に集うことができました。礼拝のプログラムを少しずつ増やしています。賛美歌を一節だけ歌うことができるようになりました。これまで当たり前のようにしてきたことを一旦全て中止して、そこから回復をしていく。そのプロセスはゆっくりでも、一つずつ回復するたびに大きな喜びを感じることができます。これは、苦しいコロナウィルスの流行の日々のなかで私たちに与えられた光です。暗い気持ちになることが多いなかで、私たちはさらに暗闇を見てしまいそうになりますが、小さな光を見逃さないで生きていきたいと思います。一人では光を探し出せない私たちに、神様は教会という場所を与えてくださいました。教会は一緒に光を見つけ出す場所です。私たちと一緒に光を見つけ出しましょう。

「暗闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」  
                                           イザヤ書9:1

 
 「十字架の見えるテラスから」(29) 
  9月6日(日)の礼拝から主日礼拝(教会が一番大切にしている礼拝です)のライブ配信を行う予定にしています。これまで説教動画をyouTubeを通して教会ホームページから見ることができるようにしてきました。しかし、機材や礼拝堂の音の反響などで音がとても聞きとりにくい動画になっていました。なんとか日曜日の10時30分からの礼拝をライブで配信できないかと模索してきました。いろいろな人の関わりと協力によってライブ配信ができる環境が整いました。不具合が出て、配信ができない事態になることがあると思いますが、その時も協力しあって解決していきたいと思います
 教会は、神様から与えられたものを持ち寄って協力しあうことができる場所です。それぞれ与えられたものが神様のものであると思って感謝を持って差し出す時、暖かい気持ちと喜びが生まれます。そのようにして与えられた共に喜ぶ時間は、父なる神様から与えられたご褒美であり、私たちの心を喜びで満たします。
 どうぞ教会の礼拝をライブ配信を通して経験してみていただきたいと思います。そして、いつか礼拝堂に共に集う日がくることを私たちは祈っていきたいと思います。

「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。」詩篇133:1

 
 「十字架の見えるテラスから」(28) 
 先月後半から午前9時15分から日曜学校礼拝、午前10時30分から主日礼拝を行うようになりました。礼拝堂と集会室に座席をわけて礼拝を守っています。まだ短縮礼拝は続いています。先週から、日曜学校の礼拝をインスタグラムを使ってライブ中継で見られるようになりました。社会全体がそうであるように、コロナウィルスの流行によって、私たちの教会はどのように安心して礼拝を守り、礼拝堂に集えない人たちとどのようにつながることができるか模索を続けています。

 心が落ち着かず不安になったり、イライラしたり、怒りが我慢できなくなったり、ストレスがたまる日々のなかでいろいろなことを私たちは感じています。良い言葉や良い思いが私たちの心を落ち着かせてくれます。教会に行くには勇気がいると思っておられる方も、どうぞこの機会にオンラインでの礼拝に参加してみていただきたいと思います。礼拝のなかで語られる聖書の言葉は、私たちの心を落ち着かせる力があります。

「キリスト・イエスによって与えられる信仰を愛をもって、わたしから聞いた健全な言葉を手本としなさい。」テモテへの手紙二1:13

 
 「十字架の見えるテラスから」(27)     
  礼拝が二回に分けて再開されて一ヶ月が過ぎました。今まで、礼拝の中で賛美歌を4曲歌っていましたが、今は最後の短い賛美歌一曲のみを歌います。キリスト教主義学校の礼拝では、賛美歌を歌うのを控えているようです。礼拝の最後で短くても賛美歌を歌うと、とても嬉しく、神様が与えて下さった礼拝の時に心から感謝する気持ちになります。

 コロナウィルスがイタリアで多くの死者を出した時、ミラノ市からの依頼でイースターにテノール歌手のアンドレア・ボチェッリさんが大聖堂で独唱し、インターネットで無料配信されました。広い大聖堂のなかで、オルガニストと二人でのコンサートです。アンドレアさんの伸びのある声が大聖堂に響き渡りました。「アヴェ・マリア」や「アメージング・グレイス」が歌われ、暗い気持ちになりがちだった時、神様を賛美する歌声は世界中の人の心を癒したことと思います。

 悲惨な状況の中で、神様はどうしてこのような状況を作りだしたのかと質問されることがあります。しかし本当に悲惨な中にあって、神様を信じる者は、それでも神様に賛美の歌声をささげ、そこから慰めを受けたいと思います。賛美歌を自由に歌うことができないのはとても寂しい思いがします。しかし、歌えない時だからこそ、神様への賛美の素晴らしさを知ることができました。

「死の綱がわたしにからみつき、陰府の脅威にさらされ、苦しみと嘆きを前にして、主の御名をわたしは呼ぶ。どうか主よ、わたしの魂をお救いください。」 詩編116:3

 
 

 
 
十字架の見えるテラスから」(26)      
   5月31日に教会の誕生日である「ペンテコステ」の礼拝を礼拝堂で守ることができました。3月から礼拝堂に集っての礼拝ではなく、オンラインでの礼拝をしてきました。日曜日に礼拝をするのは牧師家族だけでした。ペンテコステ礼拝も礼拝堂では無理だろうかと思っていたのに、緊急事態宣言が早めに解除されて、31日には約50名の方が二回の礼拝にわけて礼拝堂に集うことができました。神様が再び集う時を必ず備えていてくださると思いながら、ガランとした礼拝堂で礼拝を守ってきました。まだ短縮礼拝ではありますが、礼拝は礼拝堂に集って守るべきものだと強く感じることができました。

 31日の夜、教会に集う大学生2名の海外経験をzoomで聞く会を持つことができました。コロナウィルスが流行するまえに海外での研修やボランティア活動をした二人が、自分の経験を写真などを交えて報告してくれました。印象的だったのは、二人が現地の人や他の国から研修に参加した人に助けられた経験をとても嬉しそうに語っていたことです。今、私たちは自分の身を守ることで精一杯になっています。海外のニュースは、コロナの関係のニュースしか入ってきません。しかし神様が人間をどのような思いで造られたかといえば、最初の人間アダムに必要な助け手としてエバが与えられたように、人間は助け合うために造られました。

 目に見えないウィルスによって、私たちは体を近づけて助け合うことができなくなってしまいました。体が近づかないと、心も遠くなったように感じます。しかし、私たちには心が遠くならないためにできることがあります。それは祈りあうことです。祈ることを妨げるものはありません。そして祈ることは、私たちの心をお互いにとても近くすることができます。今こそ、祈り合うことで助け合いましょう。

「わたしは、あなたのために、信仰がなくならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」ルカによる福音書22:32

 
 
 
 十字架の見えるテラスから」(25)     

 新緑が美しい5月になりました。5月の日々が神様に守られて、心安らかな日々になるようにとお祈りしています。緊急事態宣言が出され、いつになったら元の生活に戻れるか見通しがつかない日々が続いています。コロナウィルスに感染されて苦しんでおられる方々、それを支える医療従事者の皆さんに特に神様のお力が注がれますように。体調は崩していなくても、家の中でいろいろな不安や苦しみ、悲しみを抱えておられる方々がおられます。 

 私たちの心は、自分でコントロールしようと思っても、なかなかうまくいきません。いつもと違う日々に心の疲れが強く出てくる時です。そのような時には、外からの良いものをたくさん心に送り込みましょう。綺麗な景色や素晴らしい音楽、自分を励ます言葉。たくさんの音や言葉が溢れるなかで、自分の心が動かされるものに出会うことは、宝探しのようにわくわくし私たちの心だけではなく体も強めてくれることでしょう。 

 自粛、中止ばかりをしてきましたが、私たちには回復があり未来があります。その時のために準備をしておくことも大切だと思います。先日、去年漬けた梅干しを食べました。食べながら「今年ももうすぐ梅の時期だ」と思いました。私たちが悩みながら家のなかで過ごしていても、季節はいつもと変わらずに進んでいき、季節ごとに喜びが与えられます。神様が与えてくださる小さな喜びに心をむけていく5月にしたいと思います。

「神は、恵みをくださり、天からの雨を降らせて実りの季節を与え、食物を施して、あなたがたの心を喜びで満たしてくださっているのです。」使徒言行録14:17