牧師エッセイ      
「十字架の見えるテラスから」(50)
  

 
ようこそ!平塚富士見町教会のホームページへ! 
 
  6月に入りました。季節の変わり目、4月からの疲れも出てくる時、皆様のお心とお体が守られますようにお祈りしています。
 4月から、近くの市民農園で畑を借りました。土を触ると不思議と心が安らぐのを感じ、思い切って畑を借りてみました。畑を借りてみたものの、何から始めたら良いのかわかりません。種をまく前に土を作らなければならないことだけは知っていました。しかし、どうやって土を作ればよいのかわかりません。YouTubeの動画を見て、見様見真似で土を耕し、肥料をまいてから大根のタネと人参の種をまきました。その後、教会員で長年畑をされている方が畑の土作りを手取り足取り教えてくださりました。師匠がいてこその畑であることがよくわかりました。
 2ヶ月が過ぎ、今大根が立派に育っています。見様見真似で植えたにもかかわらず育っていることに毎回感動します。土、雨、日の光が種を成長させました。小さかった命が大きく成長する姿はとても嬉しいです。
 
 種からどのように成長したのか、私たちの目には見えません。いろいろな力が加わって種は成長します。目には見えなくても様々な力が種を守っています。人間も同じではないでしょうか。私たちも目には見えないいろいろな力に守られて生かされています。疲れを感じたり、限界を感じたり、絶望してしまうこともあります。でも、私たちは命ある限りたくさんの力に守られ、力づけられています。何より神様が与えてくださった命が、私たちに生きる力を与えています。
 

  「主ある神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」  創世記2章7節
 
 
 

 
 
 
 「十字架の見えるテラスから」(49)
  5月のゴールデンウィークをどう過ごされたでしょうか。
 最近、教会の掃除をしていて思い出すことがあります。コロナウィルスが流行し始めた頃、学校が休みになり、教会の礼拝もできない日々が続きました。出かけることもできず、やることがないので子ども達と毎日のように礼拝堂の掃除をしていました。運動のためにモップがけをしたらペットボトル一本ジュースを飲んでいいというルールでした。毎日のように掃除をすると、汚れがモップのシートにほとんど付かなくなりました。
 最近、礼拝堂のモップをかけているとシートがすぐに真っ黒になります。礼拝が再開し、子ども達のイベントも行えるようになりました。雨が降る日曜日が多いこともあり、礼拝堂に足跡がついていることもあります。でも、汚れているほうが安心するのです。人がここに集えている。礼拝堂は、人が集うためにあります。神様を思ってここに集い、礼拝で神様のお言葉を聞いてそれぞれの場所へ帰ります。それができなかった日々を思うと、掃除が大変でも汚れている方がいいと毎回思います。「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。」(詩編133編1節)この詩編の言葉が心に繰り返し浮かんできます。

 
 
 
 「十字架の見えるテラスから」(48)
 
  新しい年度を迎えました。3月から4月にかけて人の動きが活発になる時です。新しい学校や職場に行くことを心待ちにしている人も多いと思います。一方で、新しいことが始まると思うと心が騒ぎ、不安を感じる人もいると思います。新しい仕事を任される人、新しい人との出会いが待っている人は、始まる前の緊張感を感じているかもしれません。
 イエス様も十字架におかかりになる前に「今、わたしは心騒ぐ」と言われました。弟子の一人が裏切り、裏切りによって捕まえられる直前のお言葉です。イエス様の深い苦しみと悲しみを感じるお言葉です。だからこそ、私たちと同じように感じられたイエス様と心騒ぐ時を乗り越えていきたいと思います。暗闇がしばらくは支配してしまうかもしれません。しかし、必ず光が与えられます。復活のイースターを待ち望みつつ、不安や緊張の時を過ごしたいと思います。4月を迎えてみれば、あんなに心配する心配する必要はなかったと思えるかもしれません。意外な人が励ましてくれることがあります。思わぬところから助けが与えらることもあります。
 良いことなんて起こらないと決めてしまうのではなく、心を開き続ける時、神様からの思いがけないプレゼントが与えられます。皆様の新しい年度が神様の祝福のうちにあることをお祈りしています。

「わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。」使徒言行録18章10節

 
 
 「十字架の見えるテラスから」(47)
 

  戦争が始まってしまいました。毎日のように目にする人々の悲しく苦しそうな顔や子ども達の涙を見ると、なぜ人は殺し合い、傷つけ合うのかと考えさせられます。もう人間は戦争の愚かさを知り尽くしたように思っていましたが、そうではなかったことを思い知らされました。
 私が聖書を教えている学校では、毎年6年生が平和学習の発表会を行います。戦争が始まる少し前に今年の発表を聞いたばかりでした。「戦争はいけない」「平和が大切だ」と誰もが心の中で思っているはずです。小学生が平和の大切さを声に出して伝える姿を見ると、私たち大人も心の中だけではなく、声に出して言わなくてはならないことがあることを感じました。
 イエス様は言葉で神様について語られました。今でも私たちはそのお言葉を聞き続けています。言葉だけで伝えることは、目に見える動画や写真に比べると伝えにくく、伝わりにくいように思います。しかし、目に見える動画や写真はどれだけ正確に物事を伝えているでしょうか。目に見えるものが伝えきれない大切なことがたくさんあります。心に強く思ったことを言葉にして伝えることは、目に見えること以上に人の心に伝わることがあります。今、私たちがお互いに伝え合い、語り合うべきことは、すべての人にとって平和は大切なものであるということです。

「実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」

                           ローマの信徒への手紙10章10節

 
 
 
 「十字架の見えるテラスから」(46)
 

 再びコロナウィルスの感染者が増えるなか、不安や恐れを感じながら過ごしておられる方も多いことと思います。神様のお守りと励ましがあって、お心とお体が守られますようにお祈りしています。
 教会のホームページからYoutubeのボタンを押していただくと、主日礼拝動画、祈祷会動画を見ることができます。さらに「通読ワークブック」という動画がプラスされました。こちらは聖書を創世記から読み続けるための助けとするための動画です。創世記の中に書かれていることからいくつか質問を作りワークブックを作成しました。その答え合わせをしながら、創世記について簡単な説明がされています。初めて聖書を読む方の助けになる動画だと思います。ぜひご覧ください。動画がプラスされていきますので楽しみにお待ちください。
 聖書を初めて読む方にとっては、何が書いてあるのか先が見えず途中で挫折してしまうことが多いと思います。私自身、何度か挫折しました。先が見えないような長い旅路の先にヨハネの黙示録の最後の言葉があります。「以上すべてを証する方が、言われる。『然り、わたしはすぐに来る』アーメン、主イエスよ、来てください。主イエスの恵みが、すべての者と共にあるように。」

 ヨハネの黙示録22章20〜21節
 この言葉にたどり着いた時の達成感は素晴らしいものです。まずはワークブック動画で聖書全体はこういうものだと把握していただければと思います。神様の恵みをたくさん受けることができますようにお祈りしています。

 
 
 
 「十字架の見えるテラスから」(45)
 新しい年を迎えました。2022年が皆様にとって喜び多い一年でありますようにお祈りしています。  

 私たちの教会は、昨年末の29日に大掃除を行いました。いつもは大掃除だけを行いますが、今年は水曜日でしたので、毎週行なっている祈祷会をしてから大掃除をしました。祈祷会は、牧師が聖書の解説を20分程度行い、その後出席者全員で讃美歌のメロディーを聴きながら黙祷をする会です。一年の最後にみんなで祈りをささげ、大掃除をすることができる喜びを感じることができました。
 掃除は幼い頃からそれほど楽しいと思ったことはありません。でも教会の掃除はみんなですることができるので楽しい掃除になります。みんなで一緒に力を合わせて大切な礼拝堂を掃除する。それは改めて礼拝堂が与えられている喜びを感じるときです。この礼拝堂があるからこそ私たちは苦しいときに礼拝堂の椅子にただ座ってステンドグラスを見つめ心が癒されます。この礼拝堂があるからこそ、友が悲しむときに一緒に祈ることができます。この礼拝堂があるからこそ賛美歌を大きな声で歌う喜びを知ることができます。神様が与え、共に築いた礼拝堂は教会の宝です。多くの人に共にこの礼拝堂に集っていただきたいと思って建てられた礼拝堂です。ぜひ一度礼拝堂に入っていただきたい、私たちはお待ちしています。

「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み。なんという喜び。」詩編133編1節

 
 
 
 「十字架の見えるテラスから」(44)
  11月28日から今年のアドベントに入りました。アドベントとは、日本語で「待降節」と言います。イエス様が父なる神様のもとから降って来られるのを待つ時です。ちょうど年末に向かう時期にアドベントに入りますので、街がにぎやかになり、心も弾む気持ちがする時です。
 先日、駅のホームにある本屋さんでクリスマスの絵本を特集していました。10冊くらいのクリスマス絵本が選ばれて店頭に置かれていました。10冊のうち、イエス様がお生まれになったクリスマスについて伝えているのは、1冊だけでした。もっとクリスマスの本当に出来事を子どもたちに知って欲しい!と思いました。なぜなら、クリスマスはプレゼントをもらえる喜びだけではなく、もっと大きな喜びを持つことができる日だからです。
 クリスマスは、神様がとても長い期間準備をしてくださって起こった出来事です。突然起こった出来事ではありませんし、その日で終わってしまった出来事でもありません。神様が一つ一つを丁寧に準備をされてイエス様はこの世にお生まれになりました。この日に、この場所で、この若い夫婦のもとに生まれさせる。知らせるのは貧しい羊飼いたちと遠くの国の博士たち。神様が私たち人間にご自身の愛と救いを知らせるために全てを整えてくださいました。そのような日だからこそ、私たちはクリスマスを毎年待ち望むことができます。何回お祝いしてもお祝いし続けたい嬉しい日なのです。ぜひクリスマスの喜びをお祝いする礼拝にお越しください。オンラインでも参加することができます。良いクリスマスをお迎えください。神様のお守りと祝福が豊かにありますように。

「学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。」

                          マタイによる福音書2章10、11節

 
 
 
  「十字架の見えるテラスから」(43)
 

 最近、人への誹謗中傷に関するニュースが多くなってきたように思います。長引くコロナとの戦いの中で、怒りや不安がそのような誹謗中傷を引き起こしているのかもしれません。確かに私たちは疲れや不安を感じる時に、人に対する優しさを忘れてしまいがちです。しかし、誹謗中傷は優しさを忘れただけではなく、相手の気持ちを考えずに攻撃をすることです。そのようなことが多い社会になってしまうことは、私たちが望んでいることでしょうか。
 ある女優さんが、全く自分の意思とは違う報道をされたことに対して次のようなコメントをしていました。「違和感に疑問を持つことから始めてほしい。中略 みんなの力は一つ一つ集まればとても大きいです。私たち一人一人は意志のある素晴らしい精神と魂を持っていますよね。」人間一人一人の精神と魂について言及していることに感心しました。
 ヘンリー・ナウエンという人が老いについて書いた本の中に次のような文章がありました。「年齢をかさねるのは闇に向かうことなのか、光に向かうことなのか。だれも他人にそれを決定してもらうことはできない。自分の存在の中核からしか、答えはもたらされない。」すべてのことについて決めるのは自分なのだと言われています。
 誹謗中傷についてそれに同調することも、人が不安に感じることについて同じように不安に感じて光に向かっていると信じるのではなく、闇に向かっていると思ってしまうことも決めるのは自分自身なのだと言われています。しっかりと自分自身で決める力を得たいと思います。神様が私たち一人一人に正しい判断と光に向かって歩む力を与えてくださいますように祈ります。

「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。」エフェソの信徒への手紙5章8〜9節

 
 
  「十字架の見えるテラスから」(42)
 

 みなさんは、幼いころに読んだ本を大人になって読み返して新しい発見をされたことはあるでしょうか。子どもの夏休みに、ミヒャエル・エンデ作の「モモ」を読みました。小学校高学年の頃に読んで以来、久しぶりに読みました。モモという、人の話を聞いて、人と人との和を作るのがとても上手な女の子と人の時間を奪っていく「灰色の男」たちとの戦いの物語です。灰色の男たちは、人からある時間を奪っていきます。全ての時間を奪うのではありません。たとえば床屋を経営していた男の人からは、お客さんと世間話をしたり、知り合いの障害がある女性を訪ねてお花をプレゼントする時間を奪っていきます。仕事をする時間は奪いません。そうやって人から話をしたり、楽しんだりする時間を奪っていくと、人々はとても豊かになりました。しかし街の人たちはレストランで並んでいる時に、人が少しでもモタモタすると文句を言いあうようになっていきました。モモとゆっくり話をして、喧嘩をしてもいつの間にか仲良くなれた日々を忘れていってしまいます。
 この物語を読むとコロナウィルスとの戦いのなかで私たちが忘れてしまいそうになっている大切なものがあることを感じました。ズームでの会議や授業では、その前後にある人との交わりがありません。仕事や授業はこれまでと同じようにできても、お茶を飲みながら話をしたり、帰りながら悩みを相談したりすることはできません。
 今、私たちにできることは、そういう時間が大切な時間であったことを忘れないことだと思います。イエス様はいろいろな人たちの家にいかれて話をお聞きになり、お話をされました。それはいろいろな人の話を聞いて、その人に必要な神様のお言葉を語られるためであったと思います。教会は、いろいろな場面でお互いに語り合うことを大切にしてきました。そして一緒に神様のお言葉を聞いてきました。感染が少し落ち着いた時、もう一度何が大切なことであるかを思い起こしたいと思います。

 「しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取りあげてはならない。」ルカによる福音書10章42節

 
 
 
 「十字架の見えるテラスから」(41)
  心に疲れを感じ、夜よく眠れなくなったり、不安を感じることはあるでしょうか。長いコロナウィルスとの戦いは、私たちの心にじわじわと疲れや痛みを加えてきました。外に出られない疲れ、外に出た時の緊張、人との距離がこれまでとは違ってしまったことも小さな傷となって私たちの心に残ります。頭も心もたくさんのことをフル回転させて考えたり、気をつけたりしています。気がつかないうちにとても疲れていると感じることがあります。
 平塚富士見町教会では、日曜日の礼拝後に毎月一回、礼拝堂の開放日を設けることにしました。静かな礼拝堂で三羽の鳩が描かれたステンドグラスを見ていると、心が落ち着いてきます。神様のお守りのうちに自分がいることを感じることができます。そのような心に落ち着きを取り戻し、心の疲れを癒すための場所を提供できればと願っています。礼拝が行われた後の礼拝堂には、不思議な暖かさと心落ち着く空気があります。教会に入ることに勇気がいると思われる方は、この機会に礼拝堂にお越しいただければと思います。皆さんの心と体が守られますようにお祈りしています。

「主よ、あなたがいやしてくださるなら、わたしはいやされます。あなたが救ってくださるなら、わたしは救われます。あなたをこそ、わたしはたたえます。」エレミヤ書17章14節

 
 
 「十字架の見えるテラスから」(40)
 
 暑い日々、いかがお過ごしでしょうか。
オリンピックが始まりました。コロナウィルス感染者が増加する中、賛否両論ありますが、オリンピックを見ていると、心が熱くなったり、嬉しくなったり、悔しくなったり、日常生活のなかにある不安や緊張する心が解き放たれる思いがします。
 聖書には、競技をたとえにした言葉が出てきます。
「競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。」(コリントの信徒への手紙Ⅰ 9:24)
 人生を競技にたとえるなら、賞を取れたら誰がプレゼンターでしょうか。イエス様がプレゼンターだったら嬉しいですね。イエス様にメダルをかけていただけるなら、最後までイエス様に向かって走っていけるような気がします。
 数ヶ月前に、神学校(牧師になるための学校)で共に学んだ同級生が亡くなったことを知りました。彼女がご牧師館で倒れているところを教会の方が見つけられ、コピー機には次の日の礼拝の週報が残されていたと知りました。最後の最後まで礼拝の準備をしようとしていた彼女の姿が思い浮かび、きっとイエス様は輝く賞を彼女に与え「忠実な良い僕だ。よくやった。」と声をかけてくださっただろうと思いました。それぞれの人生を走りぬきましょう。ゴールには、私たちを迎えてくださるイエス様がおられます。

 
 
 
 「十字架の見えるテラスから」(39)
 

 教会の庭に、春からいろいろな花が咲きました。花の形や色に種類があるように、花の咲き方にもそれぞれの特徴があることを感じます。日曜学校の子どもたちと一緒にイースターからカモミールを育てました。6月の3週目に毎年行っている「野の花を飾ろう」というイベントで手作りの花瓶にカモミールの花を飾ろうと思ったからです。ところが、葉っぱは茂ってもなかなか花が咲きません。次に百日草の種を植えました。こちらは順調に育ちましたが、6月20日には残念ながら咲きませんでした。結局6月20日には、子どもたちが育てた花は一輪も咲かなかったのです。
 「この日までに花を咲かせる」という人間の思いは、花たちにとっては勝手な思いだったようです。カモミールはまだ咲いていませんが、百日草は今になってたくさんの花が咲いています。神様から与えられた命のなかでいつ花を咲かせるか、どんな花を咲かせるのか、それは人間にはわからないことだと感じました。長く花を咲かせて庭を彩ってくれる花があれば、花は咲かないけれど、大きな葉っぱをたくさん茂らせるものもあります。どれも天に向かって伸びている姿は美しく、見ている者に力を与えてくれます。
 人間の生き方も同じではないでしょうか。どのような花をいつ咲かせるかは、自分でもわかりません。しかし、神様のおられる場所に向かって生きて行く時、私たちは自分でも気がつかずに隣人を喜ばせ、隣人を力づけ、神様のもとに迎えられるのだと思います。

 「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。ーだから明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労はその日だけで十分である。」マタイによる福音書6章28、34節


 
 

 
 「十字架の見えるテラスから」(38)
 
 5月最後の日曜日の礼拝前のひととき、何人かの方々から「ワクチンを打ってきました!」と元気に言われました。思えばこの1年半の間、明るい声で何かを語り合うことさえできていなかったのだと感じました。まだワクチンの予約さえ取れていない方もおられますし、様々な理由でワクチンを受けられない方もおられると思います。そのような方々も含めて、本当の回復が世界で進んでいくことを心から願い、神様にお祈りします。
 そして、今苦しみか悲しみの中でどう生きていけば良いのかわからなくなっている方がおられ、教会のホームページを見てくださったら、ぜひオンラインの礼拝も見ていただきたいと思います。生きる力となる聖書の言葉を聞いて、少しでも生きる力になるようにと願っています。

「死の陰の谷を行くときも、
わたしは災いを恐れない。
あなたがわたしと共にいてくださる。」詩編23

目に見える自分は孤独でも、目に見えない方はいつでも私たちと共に歩んでくださいます。目に見えないからこそ、目に見えない私たちの心を励まし、力付けてくださいます。
 今月もお一人お一人の上に神様のお守りと祝福がありますことをお祈りしています。

 
 
 
 
 「十字架の見えるテラスから」(37)
 
 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」これは聖書に書かれているイエス様のお言葉です。重荷とは、自分が抱えている目には見えない、過去に背負った苦しみや悲しみ、今抱えている悩みのことです。イエス様は、あなたが抱えている心のなかにある重たいものを私のもとに来て降ろしなさいと言ってくださいました。

 今、疲れを感じ、自分の心に重荷を持ち、いつも気持ちが辛くて苦しい方は、ぜひこのイエス様のお言葉を聞いていただきたいです。イエス様のこのお言葉に出会う時、私たちは初めて、自分が抱えている目には見えない苦しみや悲しみを置いて生きていいことを知ることができます。

 自分が原因で起こした問題は、自分で解決しなければならないと誰もが思います。周りの人もそう思っていると感じるからです。しかし、イエス様は、私のもとに来て、それらのものを全て置いて、喜んで生きていきなさいと言われました。ただ重荷を置くのではなく、喜んで生きて行くことを私たちに求めておられます。置いてはいけない荷物はありません。

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。」マタイによる福音書11章28節

 
 
 
 「十字架の見えるテラスから」(36)
 

 新しい年度を迎えて、最初の日曜日がイースターになります。イースターは、イエス様が十字架におかかりになり、三日目に復活されたことをお祝いする日です。死が終わりではなく、復活の命があることをイエス様は私たちに教えてくださいました。

 イースターといえば、イースターエッグの思い出があります。幼い頃は、イースター礼拝の朝、教会の庭に隠された卵を探すのがとても楽しみでした。その日の夜には、イースタエッグを家族で食べました。クリスマスのようなプレゼントや特別な料理があるわけではありません。しかし、春の明るい日差しと花が咲き出す季節だということもあり、イースターはクリスマスよりも明るいイメージがあります。

 イエス様がかけられた十字架は、とても恐ろしい刑です。十字架を思っただけで人は動揺し、恐れを感じたことと思います。ところが、今ではその十字架がアクセサリーになっています。なぜ暗闇の十字架が、光輝く十字架になったのでしょうか。それはイエス様が復活されたことが眩い光に包まれることだったからです。復活は、喜びであり、輝きであり、希望が与えられた日です。大転換が起こった日なのです。

 イースターの喜びが世界中に与えられますように、お祈りしています。

「あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを探しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。」マルコによる福音書16:6  

 
  
 


十字架の見えるテラスから」2018 ①~⑫

十字架の見えるテラスから」2019 ⑬~(24)

十字架の見えるテラスから」2020 (25)~(35) はこちらから読むことができます。