こちらでは教会月報(最新号)の牧師説教等を掲載しています。


201月8日 日曜学校説教要旨 
   マタイによる福音書  4:1~11
牧師 児玉 義也 


今日の箇所で「悪魔」が登場します。悪魔と聞くと、どこか遠い存在のように思います。想像のなかでのものにすぎないように思います。尻尾が生えていて、黒くて、不気味な存在というなんとなくのイメージを思い浮かべて、滑稽な気持ちになります。

説教のために、この場面を描いた絵画を探してみました。 悪魔は実にさまざまな姿で描かれておりました。 ある絵では、わたしたちが思い描くような黒くて、羽の生えた人間として。人間の姿をとどめておらず、モンスターのような悪魔もありました。意外なものでは、非常に賢そうな老人が描かれているものもありました。

悪魔の姿は、そのまま悪魔理解を表しているように感じました。悪魔は自由に空を飛び回れる羽を持ち、人間の能力を超えた脅威として、モンスターのように、あるいは賢者のように描かれておりました。 いずれもわたしたちを脅かす力の現れといえます。

イエス様が悪魔の誘惑をお受けになったことの重みを、画家たちは工夫しながら描いているように感じました。 悪魔の圧倒的な力、誘惑を前に、これに屈服せずご自身の道を歩まれるイエス様を描くことによって、マタイはわたしたちに何を教えようとしているのでしょうか。

今日の箇所の直前に、イエス様の洗礼の物語が出てきます。 イエス様は洗礼者ヨハネからヨルダン川で洗礼をお受けになって、救い主としての生涯(公生涯)を歩み始めます。マタイはその洗礼の場面で、洗礼を受けられたイエス様に、聖霊が鳩のように降ったとし、つづいて「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた」と記します。 ヘンリ・ナウエンはこの父なる神からのお言葉が、イエス様のご生涯を決定づけたと理解しています。

つづいて、誘惑の物語が記されていることに注目しています。 ナウエンは、悪魔からの誘惑に抗うことのできる根拠は、洗礼時に語られた「神からの愛」によるものとしています。

悪魔の三つの誘惑を
1、パンを求める誘惑=所有する欲
2、奇跡を求める誘惑=注目を受けることへの欲
3、権力を求める誘惑=支配することへの欲

と理解しますと、これはわたしたちが生きる上で、決して無視できないことばかりだといえます。 「・・が欲しい」という気持ちがあり、「他人の注目を浴びたい、中心でいたい」と願い、「他人を支配したい、自分のイメージ通りに他人を動かしたい」と思います。 それは小さな家族という集団から、もう少し大きく広げた学校、部活、社会、さまざまの領域で起こります。 「自分はこうしたい、みんなもそうするべきだ」と思うことがあります。

悪魔の三つの誘惑とコントラストをなすのが、先に父なる神様によってかたられた「わたしの愛する子」という言葉です。 愛は支配するものではなく、与えるもの、はぐくむものです。 悪魔の誘惑に対し、イエス様は「愛されている」ということで対抗します。所有ではなく与えることで、注目されることではなく注目する(目を注ぐ)ことで、支配するのではなく、仕えることによって。

イエス様のご生涯の頂点である十字架はまさに愛の具体的な現れです。イエス様の公生涯は、十字架へと向かわれる歩みです。その最初に、愛されていることの確認が描かれていることの大切さを思います。