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202月 聖書研究 
   詩   編  119:25~30
牧師 児玉 義也 


 詩編は、150編ありますが、そのうち最も長い詩編になります。この詩はヘブライ語のアルファベットの順で、アレフから始まりタウで終わっています。 日本では、「いろは」ではじまるいろは歌(わらべ唄)があたりますでしょうか。 ひとつのアルファベットにつき8節ずつ詩が語られていき、全部で8掛ける22(英語は24文字ですが、ヘブライ語のアルファベットは22文字です)の計176節の長大な詩になります。

 今日はこのなかでダレトの一部分をとりあげます。詩人が悲しみを語るところから始まります。 「わたしの魂は塵に着いています」。 口語訳では「わが魂はちりについています」と、ほぼ同じように訳されています。 塵に伏す経験です。

関根正雄先生は「魂が塵に伏している体験から信仰が始まる」と、この詩人の語り出しに注目されています。 この詩は苦しみを前にして語られたものです。 いろは唄のように技巧的な詩ですが、この詩は単なる言葉遊びにはとどまりません。 苦しみという具体的な経験を通して語られる詩人の心と、信仰の表明です。

 続いて詩人は、「道」について集中していきます。 それは神さまに従うという道です。 すでに詩人は冒頭の1節から、道について語っていました「いかに幸いなことでしょう まったき道を踏み、主の律法に歩む人は」(1191節)。 この1節の言葉は、遡れば詩編第1編に「いかに幸いなことか 神に逆らう者の計らいに従って歩まず 罪ある者の道にとどまらず 傲慢な者と共に座らず 主の教えを愛し その教えを昼も夜も口ずさむ人」(詩編112節)との関わりがみられます。 詩編119編も1節と2節で「いかに幸いなことでしょう まったき道を踏み、主の律法に歩む人は。 いかに幸いなことでしょう 主の定めを守り 心を尽くしてそれを尋ね求める人は」と「幸いなこと」を繰り返して語っています。 詩編119編は、1編で語られた主題を取り上げながら、さらに大きく広げていったものといえます。 詩編1編では「罪ある者の道」とあります。 道は大きく二つに分けられます。 神さまに従う道と、詩編1編によれば「罪ある者の道」です。

 119編の詩人は、「罪ある者の道」を「偽りの道」29節と語り、続く30節の「信仰の道」と対比させて語ります。 そして、その「信仰の道をわたしは選び取りました」と語ります。 信仰は与えられるものですが、ただ座して神さまが良いように導いてくださるのを待つだけではありません。 ここでは、自らが選びとっていくという選択の責任が問われています。 詩人は「わたしの魂は塵に着いています」と語り出しました。苦しみの中で、詩人は信仰を選び取ります。 「魂が塵に伏している体験から信仰が始まる」との言葉が迫ってきます。

 苦しみは確かに辛く嫌なものです。 小さな苦しみは、それほどではありませんが、大きな苦しみは、わたしたちの生活や価値観を大きく変えます。 大病や大きな事故、天災など、苦しみは自分や家族、知人へとふりかかり、その都度わたしたちは、大きな変化にとまどいます。 苦しみによって、失われたもの、失われないもの。 何かがまだ残っていることの感謝することがあります。 これまで夢中になっていたもの、すべてであると思っていたもの、それらが崩れ去り、あらためて本当に確かなもの、あるいは永遠へと目を向ける機会が与えられます。

 詩人は自分がとるべき「道」、歩むべき「道」を知り、それを選び取りました。 詩人にとってそれは苦しみの中で経験し、選んだ道、確かな道でした。 2月は受験や卒業、就職など人生の大きな転機を迎える方も多くあります。 教会では今月の祈祷課題として「人生の岐路に立つ人のために」お祈りをあわせています。 それぞれの道が、神さまの愛の光で照らされることを祈りつつ。