こちらでは教会月報(最新号)の牧師説教等を掲載しています。


2016年9月「月報」
2月19日主日礼拝説教要旨  
 「 あなたの心にある神の言葉 」 

申 命 記  30:11〜14
  ローマの信徒への手紙  10:5〜13
 牧師 児玉慈子 

 今月(2月)は「信仰」というテーマで説教をしています。

 神様は信仰を持つ者を最後まで見守っていてくださり、神の国に入れてくださると私たちは信じて、地上の生涯を終えられた方々をお送りしてきました。誰が神の国に入ることができるのか。選ばれた者だけが入れるのか。それとも最後は誰でも入ることができるのか。私たちはいつもその答えを得ることができず悩みます。

 今日の新約聖書の箇所105には「万人の救い」という小見出しがついています。ローマの信徒への手紙を書いたパウロという人は、かつてイエス様を信じるクリスチャンたちを迫害していたイスラエル人でした。イエス様のお声を聞いて回心をし、イエス様のことを信じ、イエス様のことを伝え、多くの人々を救いへと導く人になりました。パウロにとって、大きな心配事は自分と同じイスラエル人が救われるかということでした。イスラエル人は神様に選ばれた民族です。アブラハムから始まるイスラエル人の歴史が旧約聖書に書かれています。しかし彼らはイエス様を救い主と信じることができませんでした。なぜ神様に選ばれた民でありながら、イスラエルはイエス様の救いにあずかることができなかったのか。パウロはそのことをいつも考えていました。そして、イスラエル人がイエス様を救い主と信じることができなかったのは、律法の存在が大きくかかわっていたと考えていました。

 ユダヤ教を熱心に信じ、キリスト者を迫害していたパウロは、ユダヤ教を信じている人たちに対して次のように言っています。10:1「兄弟たち、わたしは彼らが救われることを心から願い、彼らのために祈っています。私は彼らが熱心に神に仕えていることを証ししますが、この熱心さは、正しい認識に戻づくものではありません。」パウロは自分と同じイスラエル人の救いを切望していました。しかし、長い間信じてきたものを変えるということはとても難しいことです。パウロのように劇的な回心体験がなければ変わることは難しい。パウロは、そのことをよくわかっていましたが、あきらめることなく、熱心に律法を守っている仲間たちのために祈り、イエス様の救いを伝えていました。

 律法による救いと、イエス様の救いにはどのような違いがあるのでしょうか。9節「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。」イエス様の救いに求められていることは、イエス様を信じることだけです。ほかに何も強制するものはありません。洗礼を受けられる方の準備会では、お祈りをすることや献金をすること、教会で奉仕することなどが大事なことだとお伝えします。しかしそれらはすべて強制するものではありません。この何も強制されないことが、イエス様を信じる時にとても大事なことなのです。なぜなら、私たち人間は、強制された時に人と自分を比べる弱さを持っているからです。

 私たちは、「〜をしてはいけない」「〜をしなければならない」という約束事を見ると、周りの人が守っているか、守っていないかが気になります。今日の箇所の6節「しかし、信仰による義については、こう述べられています。『心の中で『誰が天に上るか』と言ってはならない』これは、キリストを降ろすことにほかなりません。また、『だれが底なしの淵に下るか。』と言ってもならない。」これは、キリストを死者の中から引き上げることになります。」

あの人は律法をしっかりと守っているから天にのぼれるだろう。あの人は律法を守れていない人だからきっと天には昇れず、救われないと思うのです。そのようなとき、私たちの心は、人間のことしか考えていません。私たちがそのように考えてしまえば、イエス様の救いをまったく意味のないものにしてしまいます。 イエス様にもう一度苦しみの十字架を経験させることになる罪を私たちは犯しているのです。

 では、私たちは何をするべきなのでしょうか。10節に次のようにあります。「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。」信仰を持つことは、神様のお言葉を求めることです。

イエス様がこの地上にお生まれになったのは、律法を守ることができず、弱い者を見捨て、周りにいる者を裁く私たち、自分中心になってしまう私たちが神様のもとにもう一度帰るためでした。イエス様が十字架にかかり、罪を洗い流してくださいました。イエス様が手のなえた人を癒された場面がマルコによる福音書にあります。イエス様がその人を癒されたのは安息日でした。安息日には病気を癒してはいけない決まりになっていました。イエス様はこう言われたのです。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」そこにいた人は誰も答えず、イエス様は彼らのかたくなな心を悲しまれ、手のなえた人を癒されました。律法を守ることに集中するあまり、病で苦しんでいる人々の苦しみに目を向けることを忘れてしまいました。人々は、イエス様が律法を守るかを見ていました。一方イエス様は、手のなえた人の苦しみを見ておられました。

人の苦しみを見ることよりも、人を裁くことを優先してしまう。それが私たちの罪です。イエス様はこの私たちの罪のために十字架におかかりになりました。私たちはするべきことは、罪を知り、イエス様を信じることです。罪が許されるために、イエス様は全てのことを私たちのためにしてくださいました。私たちがするべきことはありません。

 11節「聖書にも『主を信じる者は、だれも失望することがない。』と書いてあります。」また13節にはこうあります。「主の名を呼び求める者はだれでも救われる。」どちらにも「誰でも」という言葉があります。私たちは人と人をいろいろな場面でわけます。ただわけてしまうだけではなく、そこにだんだんと壁を作っていきます。しかし、主なる神は、私たちのなかにある壁を壊し、イエス様の救いへと招いていてくださいます。主の名を呼び求める場所は教会です。

パウロは自分の同胞イスラエルも救われてほしいと強く願い、ローマの信徒への手紙で、最後にイスラエルが救われると書いています。パウロの思いがここにあります。私たちは誰が信仰を持ってほしいでしょうか。お一人お一人それぞれに大切な人を思い浮かべたことでしょう。私たちの信仰は私たちのものだけではありません。私たちが信仰を持つことで、周りの人にもキリストが伝えられてきます。パウロは強い思いをもって、祈り、イスラエルの救いを求めました。同じように私たちも強い思いで、大切な人が救われることを願って祈っていきたいと思います。