こちらでは教会月報(最新号)等の牧師説教を掲載しています。


9月10日 礼拝
 「 主に返された命 」 

 列 王 記 下   4:33~37
ルカによる福音書   7:11~17
 牧師 児玉 慈子 

 イエス様が大勢の群衆を引き連れてナインという町に到着された時、反対方向からイエス様のほうへ向かってくる大勢の人たちがいました。一人息子を亡くした母親と共に息子の棺を担ぎ出そうとする人々でした。当時の町は、城壁に囲まれ、町に入るにも、町から出るのにも門をくぐらなければなりませんでした。ちょうど二つの群衆が全く違う方向から進んできて、この時イエス様と棺を真ん中にして門のまえで出会いました。これから父なる神のことを人々に与え、生きる力を与えるために、イエス様はこの町に入っていかれようとしていました。反対に棺は、おそらく町の外、人々が住む場所から離れた墓地に遺体を葬るために出て行こうとしていました。気温が高い場所では、すぐに埋葬しなければなりませんでした。もう少し自分の息子の体と共に過ごしたいという思いが母親にはあったかもしれません。しかし、それはゆるされないことでした。亡くなれば、遺体を棺にいれ、人が住む場所から離れた墓地に埋葬する。それは誰も止めることができないことでした。母親はただ自分の息子の遺体が担ぎ出され、進んでいく時、後からついていくことしかできませんでした。

 死というものに対して、私たちは無力です。どれだけ大切に思っていても、一度息を引き取った人を生き返らせることはできません。やがては誰もが死を迎えるということも、避けることはできないのです。この母親はやもめであり、息子は一人息子であったと書かれています。当時は今よりもっと働いて生活のためのお金や食べ物を得るのは男性の役割でした。女性は男性の収入で生きていく時代です。この母親の悲惨な状況を誰もがわかっていました。息子を失った悲しみだけではなく、生活の苦しみが与えられたのです。しかし、この母親がどれだけこの後苦しい生活をしなければならないか、悲しい思いをしなければならないかということは、死を免れる理由にはなりませんでした。

 イエス様は、一人息子を失い、明日の生活もどうしたらよいかわからない母親のことをご覧になりました。13節「主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。」これまでも何度か説教で出てきましたが、憐れむという言葉は、ギリシャ語で内蔵を表す言葉からでた言葉です。イエス様は、この時母親の苦しみや悲しみ、痛み、すべてをご自分の内臓が痛むように心と身体で受け止められたのだと思います。私たちは人が苦しんでいるのを目で見ることはできます。しかし、苦しんでいる人の心の悲しみや痛みまですぐには理解することはできないのではないでしょうか。ルカによる福音書には有名な良いサマリア人のたとえがあります。追剥に襲われた人の前を三人の人が通りました。最初の二人は傷ついて死にそうな人を見るには見ましたが、助けることなく通り過ぎていきました。ところが三番目にその道を通ったサマリア人は、倒れている人を見て、憐れみ、回復するように助けるのです。人の痛みに対して自分も心を痛め、その人を助けようと思う。同情して心を動かし助けようとする。それがイエス様です。私たちがイエス様の10分の1でもお互いの痛みや苦しみを理解することができたならば、私たちはもっとお互いに優しさや思いやりを持てるのかもしれません。

 イエス様は「もう泣かなくともよい」と言われ、門の外へと持ち出されようとしている棺に近づき手を触れられました14節「そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。」そのまま母親のもとから離され、町の外へと出されるしかなかった。死をそのまま受け止めるしかなかった母の前で、イエス様は、死を止められました。誰も止めることができなかった死をイエス様は止めてくださったのです。

 私たちは死に対して抵抗することはできません。いつ失われるかわからない命を持ちながら、私たちは生きています。イエス様は自分の命に不安を持ち、愛する者の死に心と身体全体で悲しみ、苦しんでいる人々をご覧になりました。そして、全てのものの痛みをその体に感じるように、十字架の上で苦しみ、死んでくださいました。そして、三日目に復活してくださったのです。やがては死を迎える復活ではなく、もう死ぬことのない復活をイエス様は私たちにも約束してくださいました。その復活は、今すぐに私たちに与えられるものではありません。今、すぐにという思いを私たちは持ちます。しかし、私たちの生きる道は、地上の道だけではありません。そのあとに続く神の国への道へと繋がります。そして、神様が私たちに与えてくださる救いは、神の国で完成するのです。エフェソの信徒への手紙に次のような言葉があります。「こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。」

私たちの目には天にあるものは見えません。しかし、イエス様が必ず天に召された方々を今、守っていてくださることをイエス様によって信じることができるのです。神の国がどのようなものなのか、私たちはわかりません。私たちが知っているのは、神の国に神様が呼んでくださって、イエス様が迎えにきてくださり、私たちは迷うことなくそこにたどり着くということです。天と地をつないでくださるイエス様は、地上で愛する者とわかれる私たちの苦しみや悲しみを見て、憐れんでくださる方です。この方を信じて、新しい一週間に歩み出したいと思います。