こちらでは教会月報(最新号)等の牧師説教を掲載しています。


2月 25日 主日礼拝 (
 「 幼 子 の 口 で 」 

 詩  編      8 : 2 ~ 5
 牧師 児玉 義也 

 冬のオリンピックの感動が思い出されます。競技のなかで、これから出る選手の名前の横に競技の実績が表示されます。世界選手権で3位以内に入っている、ワールドカップで上位に入っている、そのような表示が出ていると、こちらも手作業を止めて見入ってしまいます。何も表記がない選手の番になると手作業に戻って、いつの間にかその選手の競技は終わっていることがあります。 

 何気ないことですけれども、ハッとさせられました。ここに境界線が引かれています。惹かれる選手と、そうでない選手がいます。各々できる限りの努力をして、国の代表になった選手たちです。それだけでも素晴らしい。代表になれない人もたくさんいます。代表になるための境界線を超え、代表の座を射止めても、なおその先にも境界線が、たくさん引かれています。こちらは、何気なく見たり見なかったりとしながらも、思えばずいぶん残酷なことをしています。  

 年齢、運動能力、健康、財、社会的地位。見渡すと、世界はさまざまの境界線が引かれ、クラスわけがされています。より力があり、大きく、優れているものが、私たちの目を惹きます。小さく、弱く、みすぼらしいものは人の目を惹きません。 

「主よ、わたしたちの主よ あなたの御名は、いかに力強く 全地に満ちていることでしょう。天に輝くあなたの威光をたたえます。幼子、乳飲み子の口によって」(詩編823
 神さまは幼子、乳飲み子の賛美によって、ほめたたえられると詩編は歌います。幼子はともかく、乳飲み子は、喃語のような不十分な言葉しか発せられない、そのような乳飲み子の賛美を、神さまは喜んでお受けくださると、詩編は歌います。ここには、境界線はありません。力のないもの、知識のないものを拒む、私たちの悲しみの世界の視点はありません。そこには神さまのご視点があります。神さまは、幼子、乳飲み子を喜んでくださる。 

 この詩編の賛美を目にしながら、私たちの賛美へと思いが至ります。私たちはどれほど立派に言葉を整えても、神さまの御前では、十分ではありません。そのような弱く小さな私たちの賛美や祈りの言葉を、神さまは喜んでくださるのです。