こちらでは教会月報(最新号)等の牧師説教を掲載しています。


3月 11日 主日礼拝 (
 「 良 い 方 を 選 ぶ 者 」 

 詩  編      27 : 4
ルカによる福音書 10 :38~42
 牧師 児玉 慈子 

 イエス様は、エルサレムへと旅を始められました。旅のなかでいろいろな人と出会われます。当時は旅をするとき、今のように泊まる場所を予約しておくことはできません。町に着いたらまず泊まる場所を確保しなければなりませんでした。エルサレムへと巡礼の旅をする人をもてなすということは、ユダヤ教を信じる人にとって当たり前のことだったようです。しかし、イエス様と弟子たち、たくさんの男性たちを迎え入れてくれる家を確保するのは大変なことだったと思います。 
 ある町にイエス様と弟子たちが到着した時、自分から自分の家へ招いて女性が現れます。名前をマルタといいました。今日の箇所を読んだだけでも、彼女が働き者で、とても気のきく女性であったことが想像できます。イエス様と弟子たちは喜んでマルタの家に入ったことでしょう。イエス様と弟子たち、そしてマルタ誰もがこの出会いを喜びました。
 ところがその出会いの喜びが喜びではなくなってしまう出来事が起こります。マルタの妹のマリアがマルタの手伝いをせずに、イエス様のお話に聞き入ってしまったことから始まります。いつもマリアがどのようにふるまっていたのかはわかりませんが、普段はマルタを手伝っていたのでしょう。ところがこの時は全く手伝うことなく、イエス様の足元に座っていたのです。それは当時のユダヤ教の社会では、男性だけに許されたことでした。教師の足元に座って男性の弟子が言葉を聞く。女性たちは、裏でもてなしのために忙しく働くのが普通の光景だったのだと思います。
 手伝ってくれる人がいるのに、手伝ってもらえない孤独、心の葛藤を感じます。これは女性だけではなく、男性であっても仕事などの時に経験することではないでしょうか。
 40節「主よ、わたしの姉妹は、わたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるよう、おっしゃってください。」この言葉をマルタは、イエス様に近寄って言ったと40節に書かれています。マリアは、イエス様の足元に座って話を聞いていました。イエス様のとても近くにいたのだと思います。それに対してマルタは、イエス様から離れたところで働いていました。この時初めてイエス様の近くにいきました。この姉妹は全く別の方法でイエス様のそばに近づきました。マリアは話を聞くという仕方で近づきました。一方マルタはイエス様に文句を言うという形でイエス様のそばに近づいたのです。
 どちらがイエス様に近づくのに良い方法だったかといえば、それはイエス様のお言葉からわかります。41節「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良いほうを選んだ。それを取り上げてはならない。」マリアのほうが良いほうを選んだと言われています。それは、マルタのもてなしの行動が間違っていたわけではありません。それも大事なことです。しかし、イエス様に近づきたいと思ったときに、マリアのように弟子として足元に座る姿勢を持つことが大事だとイエス様はマルタに言われました。
 マルタはこの時、イエス様に自分の味方になって欲しいと思っていたのだと思います。自分がしていることをとても大事なことだと思ってほしい。誰でもこのような思いになることがあるのではないでしょうか。マルタもマリアのようにイエス様のお話を聞きたいと思っていたことでしょう。心ではそう思っていても、実際に行動にすることはできません。自分にはできなかったことをしているマリアを受け入れることができません。またそのような妹の行動を受け入れておられるイエス様に対して、自分のことも認めて欲しいという思いを強く持ってしまいます。マルタの心の中をイエス様は見抜かれて言われました。「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。」マルタは、ただ手や足を動かすのをやめて、マリアの横に座り、イエス様のお言葉に耳をかたむければよかったのです。しかしマルタの心が揺れ動いてしまいました。
 イエス様は、イエス様に救いを求めて追いかけてくる群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れまれたと書かれています。自分が憐れまれる存在であるとまでは私たちは普段思っていません。しかし、私たちはいつも心が揺れ動き自分が認められた存在なのか、自分がしていることは正しいのか不安になるものです。そのような自分に疲れを感じる時、イエス様の私たちへの深い愛のまなざしに心が解放される思いがします。
 イエス様は自分の心のなかで葛藤し、イエス様に文句を言ったマルタを怒ったり、拒絶したりはなさいませんでした。むしろ、マルタを受け入れてくださいました。「マルタ、マルタ、あなたは多くの事に思い悩み、心を乱している。」イエス様に二度名前を呼ばれる人は多くありません。他にはイエス様を三度知らないと否定することになるペトロとイエス様を迫害していたパウロだけです。ペトロもパウロも間違ったことをしてしまいました。しかし、彼らの一番弱いところさえ、イエス様は受け入れて彼らを弟子として用いてくださいました。マルタも同じです。マルタはイエス様の足元で話を聞くことができずにいました。しかし、イエス様はいろいろなもてなしをするために心乱している彼女の名前を二度優しく呼ばれました。「マルタ、マルタ」二度名前を呼ばれたのは、たとえ足元に座って話を聞いていなくても、すでにマルタは大事な弟子であり、一度は間違えても、これからイエス様のことを伝えていく大事な弟子として成長していくことをイエス様は望んでおられたのだと思います。そのイエス様の選びを信じること。それが私たちに生きる力を与え、自信を与えるのではないでしょうか。自分という存在には自信がなく、これからしっかりと生きていけるかもわかりません。しかし、神様が私を選び、信仰を持って生きていくことをゆるしてくださった。そのことを信じる時に主なる神は私たちの生きる道を整え、守っていてくださいます。
 私たちからイエス様のお言葉を取り上げるもの。私たちの周りにも多くあると思います。その多くは、自分自身が原因になるものではないでしょうか。マルタのように心がいろいろなものに向いてしまうことや、イエス様のお言葉よりも良いように思えるものが私たちの日常には多くあります。教会はそのような時代の流れや人々の思いとは別に、神様のお言葉を伝えていく役割が与えられています。そしてマリアのようにイエス様の足元に座って、静かに神様のお言葉に耳を傾けることができる場所です。目には見えない心のなかのことを置き去りにしてしまいがちな社会のなかで、心を開き、心を養う場所でありたいと思います。そして心のなかまで見て、弱さを 受け入れ、強めてくださるイエス様の思いを伝えていきたいと思います。