こちらでは教会月報(最新号)等の牧師説教を掲載しています。


5 月  (
 何事にも時があり 天の下の出来事にはすべて
定められた時がある。生まれる時、死ぬ時
 

 コレヘトの言葉  3 : 1 ~ 3
 牧師 児玉 義也 

 入所先にて生涯を閉じられた姉妹の納骨が、ペンテコステ礼拝(5月20日)の後、教会墓地にて執り行われます。葬儀の後しばらくして、訪問した教会の姉妹方のなかには「どうしても列席できなかった、最後にお別れがしたかった」と、残念に思っておられる方が少なからず居られました。
 最近とくに考えさせられることは、長寿を与えられることの喜びの裏側にある寂しさです。年を重ねると、親しいの最後のお別れの場に行くことが難しくなってきます。親しい友が地上での終わりを迎えても、自分の足で行くことはできず。あるいは、その時は知らせも受けられない。ある程度時間が経過してから、逝去の知らせを受け取りたいへん驚く、そのようなさまです。
 礼拝後に、楽しそうに連れ立って昼食を摂りに出かけられていた姉妹方のなかで、先に召された方、施設で暮らされて葬儀に参列でなかった方のお顔や、その想いが心をよぎります。やがて天国で再会できる、その希望を知りつつも、やはりお別れができない寂しさは、ひとしおです。
 讃美歌のなかに『球根の中には』という歌があります(讃美歌21ー575番、日本基督教団出版局、1997年)。3番までの歌詞のいずれもが「その日、その時を、ただ神が知る」と結びます。これは、やがて訪れる復活の日を歌った歌です。歌いながら、私たちの死についても想いを馳せます。3番の歌詞には「いのちの終わりは いのちの始め」という言葉が歌われています。命の終わり「その日、その時を、ただ神が知る
」のです。
 コヘレトが3章で「何事にも時があり 天の下の出来事にはすべて定められた時がある」と語るように、地上にはあらゆる「時」が備えられています。コヘレトが挙げている「時」のなかで、私たちの知ることのできない「時」があります。それは「生まれる時、死ぬ時」です。それは神さまが支配される「時」です。神さまが、私たちに命を与え、その命を召してくださる。私たちは、「ただ知る」神さまに信頼します。最後の別れの寂しさを知るのも「ただ」神さまです。神さまが、去る者の悲しみも、残された者の悲しみも「知」ってくださっています。
 最後は誰もが一人で旅立っていきます。けれども、私たちはイエスさまにおいて、一つの家族です。その場に居合すことができなくとも、再び時間を経て、またお互いを想い合い、祈り合うことができます。その意味では、私たちは時を超え、場所を超えておられる神さまにおいて、やはり一つの家族です。互いに過去のものになってしまうのではなく、今も互いに想い合うことができます。