こちらでは教会月報(最新号)等の牧師説教を掲載しています。


7月1日 主日礼拝  (
 何 を 第 一 に  

 ルカによる福音書 13 :10 ~17
 牧師 児玉 義也 

 神様は少し先の約束としてではなく、今現在の苦しみからの解放を、してくださるのだなと、思わされました。ルカによる福音書131017節の物語を読んで、そう感じました。ある方との思い出が、心に浮かびます。
 もう亡くなられましたその方が「一晩でいいから体の痛みを忘れて熟睡したい」としみじみおっしゃっておられました。その方は、まさに四六時中、痛みと戦っておられました。苦しみを訴えるお話を聞きながら、代わって差し上げることも、どうして差し上げることもできない自らの無力さを思いました。いまも胸に残る小さなトゲのような経験です。
 ルカによる福音書13章の物語では、労働が禁じられている安息日に、治療行為という労働をもって18年腰が曲がったままであった女性を癒したイエス様のお姿が描かれています。労働が禁じられているなかで、これを見た会堂長が怒りを発します。彼には言い分があります。安息日に許される癒しは、緊急のものに限られる。今回は緊急性がありません。もう18年も腰がまがったままなのです。だから、何も安息日の今日、癒されなくとも良いではないかと。
 確かに至極まっとうな意見です。しかし誤っています。出エジプトの際、神が安息日を設けられたのは、囚われからの解放のためでした。イスラエルの人々はエジプトで毎日苦役に追われていました。彼らは生きることを妨げられていたのです。その彼らを、神様はモーセを遣わしてエジプトから連れ出し、約束の地へと導き解放してくださいました。ここで、18年苦しんでいる、病に囚われている女性が出てきます。その囚われから解き放つのは、まさに安息日こそふさわしいのです。主イエスは癒しをなされました。いずれ癒されるのではなく、今まさに癒されなさいというのです。
 会堂長は礼拝を大事にしたい、安息日を重んじたいと思っております。その思いは間違ってはいないのです。けれども、肝心のものを見落としてしまっている。そこに過ちがあるのです。主イエスがここにいてくださる。主が癒してくださる。その喜びがまことの礼拝を作り上げるものだと、私たちはこの物語から教えられます。
 私たちキリスト者は、礼拝を重んじます。礼拝において私たちは一週間のさまざまの囚われから解放されます。仕事のくびきや、人間関係の縄目、あるべき姿、求められている役割とそうできない自分。さまざまな束縛のなかで、日々あえぎあえぎ生きております。
 礼拝に出ることによって、私たちは地上の束縛がボロボロと崩れていく経験をします。一体なにに私は囚われていたのだろうか。それはとても大きなようで、神様の前では小さなことではないだろうか、大丈夫だと、そのような心が与えられる経験をいたします。私たちは全く神様のまえに子どもになって立つことができます。解き放たれることが許されているのです。