こちらでは教会月報(最新号)等の牧師説教を掲載しています。


3月10日主日礼拝 説 教 
 石が叫び出す  

ゼ カ リ ア 書   9:9~10
ルカによる福音書 19:28~40
 牧師 児玉 慈子 

 イエス様はロバに乗ってエルサレムに入られました。強さを表す馬ではなく、忍耐強く荷物を何キロも運ぶロバに乗ってこられました。馬の方がずっとかっこよく、力強いのになぜロバに乗ってこられたのか。それは救い主がロバに乗ってくることが預言者によって預言されていたからです。それが先ほど読んでいただいたゼカリヤ書9:9「娘シオンよ、大いに踊れ、娘イスラエルよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者。高ぶることなくロバに乗って来る。雌ロバの子であるろばに乗って。」この王はなぜイスラエルに与えられたのか。それは平和をもたらすためであると10節で言われています。
 イエス様がエルサレムに入場された場面といえば、人々がホサナと叫んだことを多くの方は思い出すのではないでしょうか。しかしルカによる福音書では、弟子たちがロバを引いてきて、弟子たちが自分の服をイエス様が通られる道にしき、弟子たちが賛美したと描かれています。ルカはこの場面を、弟子たちを中心に描いています。
 イエス様は二人の弟子たちにロバを連れてくるように言われます。30節「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ロバのつないであるのが見つかる。それをほどいて引いてきなさい。もし誰かが『なぜほどくのか。』と尋ねたら、『主がご入用なのです。』と言いなさい。」二人の弟子たちがでかけていくと、イエス様が言われたとおりにすべての事がおこりました。
 弟子たちはこれまでイエス様のお言葉が実現するのを一番近くでみてきました。人間の目から見れば、変わりようのないことをイエス様はそのお言葉で変える力を持っておられる。弟子たちはイエス様のお言葉が実現し、人々が良いほうへ変えられるのを見て、本当に嬉しかったと思います。さらに、今、旧約聖書に預言されているように真の王としてイエス様はロバに乗りエルサレムに入ろうとされていました。彼らの喜びは大きくなり、自分の服をイエス様がお通りになる場所に敷き、賛美をし始めるのです。37節「イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかられたとき、弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた。「主の名によって来られる方、王に祝福があるように、天には平和、いと高きところには栄光。」これは詩編118編の言葉です。
 弟子たちは一人一人の声を出し合い、自分の内面すべてを用いてイエス様のことをたたえ、イエス様と一致したいという彼らの思いがこのときあふれだしたのだと思います。彼らはイエス様がもたらしてくださる平和をもっと多くの人と共有したいと思ったのではないでしょうか。
 そのような弟子たちとは対照的なひとたちがいました。39節「すると、ファリサイ派のある人々が、群衆の中からイエスに向かって『先生、お弟子たちを叱ってください。』」と言った。」弟子たちの賛美がどれほど大きな声であったかわかりません。エルサレムで怪しい群衆の動きがあれば、ローマは兵たちたちを派遣してそれを抑えつけることでしょう。そのような騒ぎは起こしてほしくないとファリサイ派の人々は思っていたのだと思います。
 ルカによる福音書以外の3つの福音書が書いているように、弟子たちの賛美だけではなく、ホサナと叫ぶそこにいあわせた人々の声もあったとしたら、かなり大きな声であったと思います。ホサナとは「神よお救いください」という意味の言葉です。「ホサナ」というときれいな響きなので、優しい意味の言葉かと思うと、実は「神よお救いください」という強い願いを込めた言葉であり、切実な思いが込められた嘆きの言葉だと言ってよいのではないでしょうか。ローマに支配されたイスラエルの人々の苦しみからの切実な救いを求める言葉であったといってよいと思います。そこには植民地であるエルサレムの悲しみがあります。自由に語ること、訴えることができない。少しでもおかしなことをすれば捕まえられ、命の危険があってもおかしくない。それが人に支配されるということです。
 イエス様は、騒ぎによってローマの兵隊たちが来てしまうのではないかと心配したファリサイ派の人々に対して言われました。40節「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫び出す。」石はどこにでもあるものです。石は声を発しません。しかし、イエス様がエルサレムに来られたことを心から喜ぶ人々の声、自分の救いを求めて叫ぶ声を黙らせるようなことをすれば、声のない石が叫び出す。それほど彼らの声は強く、彼らの思いは一致してイエス様を求めているのです。なぜそれを止めるのか。たとえローマの兵士であっても、彼らの思いを止めることはできない。イエス様は彼らの苦しみや悲しみ、悔しさや不安を知って、その思いを彼らが自由に声に出すことを守ってくださったのです。