こちらでは教会月報(最新号)等の牧師説教を掲載しています。


5月5日主日礼拝 説 教 
 命をかち取る  

出エジプト記   4:10~12
ルカによる福音書 21:7~19
 牧師 児玉 慈子 

 イエス様が十字架におかかりになるために来られたエルサレムには、人々が誇りにする立派な宗教的な建物がありました。エルサレム神殿です。今日の箇所の少し前の箇所、21:5には「ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると」とあります。神殿はユダヤ教の人たちにとって特別な場所です。長い旅をしてでも行きたい場所です。長旅をして神殿にたどりつき、その神殿が見事な石と奉納物で飾られていたなら、人々は疲れも忘れてこの場所に来ることができたことを喜んだことと思います。
 ところが、そのように喜んでいる人たちに対してイエス様は言われました。21:6「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」積みあがった石が一つ残らず崩れおちる日が来る。目に見える素晴らしい建物は、永遠にそこにあるように感じます。しかし、建物が永遠ではないことをそれが崩れた時に初めて私たちは気が付くのです。
 イエス様が伝えようとされたことの意味がよくわからず、神殿の素晴らしさを話していた人たちはイエス様に訪ねます。7節「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こる時には、どんな徴があるのですか。」イエス様は言われました。8節「惑わされないように気をつけなさい。」イエス様は、ここでエルサレムや神殿の破壊についてではなく、小見出しに「終末の徴」とあるように世界の終わりである終末について語り始められます。「惑わされないように気をつけなさい。」これは神殿の崩壊がすぐにすべての終わりのように惑わされないようにという意味がこめられていると思います。
「どんな徴があるのですか」と聞いているように、私たちは自然災害などが起こると、これがそのあとに起こるより大きな災害の徴ではないかと思うことがあります。ここでイエス様は具体的に私たちを惑わすものを挙げてくださいました。「わたしの名を名乗る者が大勢現れ『私がそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない。戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。」さらに地震や飢饉などの災害や教会に対する迫害などが起こり、私たちを惑わせると言われています。
 「惑わせる」という言葉は、迷い出た羊のたとえに出てくる羊を表す言葉と同じです。羊は、帰り道がわからなくなり、どちらへいくべきか迷ってしまいました。羊と同じように私たちを迷わせ、帰るべきところにつくことができなくさせることがたくさんあるということです。どうすれば私たちは惑わされることなく生きていくことができるのでしょうか。
 今日の聖書の箇所には、終末に起こる私たちが怖いと感じることがたくさん書いてあります。そのなかで、ところどころにあるイエス様のお言葉が私たちの光として浮かび出されてきます。9節「戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。」
 イエス様は終末について次のように言われました。「その日、その時は、誰も知らない。天使たちも、子も知らない。父だけがご存知である。」イエス様さえ何が起こるか分かっておられないのに、人間にわかるはずはありません。わからない未来のことを考えて不安になり惑わされてしまうことがあります。今、神様の前に何をするべきかを考えることが大切はないでしょうか。今、私たちに与えられているものは何か考えてみましょう。私たちには神様のお言葉を聞くことができる教会が与えられています。ともに礼拝する仲間が与えられています。その幸せを他の人にもわけることができる力も与えられているのです。
 では、終末におこるのは迫害や災害ばかりでしょうか。先ほどニカイヤ信条を共に読みました。そこには「生きている者と死んだ者とをさばくために、栄光をもって再び来られます。その御国は終わることがありません。」という言葉がありました。栄光を持って再び誰がこられるのか?イエス様です。イエス様は十字架におかかりになり、復活されて、天にのぼられました。いつか、私たちが予測できない時にイエス様は再びこの地上にこられることを約束してくださいました。
終末は確かに怖いと思うことが起こるかもしれません。しかし終末の一番大きな出来事は、イエス様が再びこの世に来られる喜びがあることです。そして、イエス様が再び来られる時、地上の生涯を終えた者も復活すると聖書に書かれているのです。
 この世界に終わりがあると信じることは、親しい人との間に意見の違いが生じるかもしれません。イエス様はそのような私たちに17節で言われました。「また、わたしの名のためにあなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、あなたがたの髪の毛一本も決してなくならない。忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」すべての人に憎まれる。それは友人や家族も含まれます。それはとてもつらく、苦しいことです。しかし、親しい者たちが共に神様を信じる者になれたならば、人に憎まれても一緒に忍耐できる仲間となります。だかこそ、私たちは苦しい時でも、証しをする機会として神様を信じる者が一人でも多く与えられてほしいと願っています。私たちは、一人で苦しみを受けるのではありません。共に神様を信じる友が与えられています。そして大きな力を持った方が共に歩んでくださいます。イエス様は、十字架の死にいたるまで忍耐されました。ご自分を十字架にかけた者のために祈るほど忍耐され、その痛みと苦しみと孤独に耐えられました。そして、私たちの救いを成し遂げてくださいました。
 「忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」ここで言われている命は、イエス様が忍耐してかち取られた命です。その命をかち取るために、私たちは神様を信じて今日一日を生きる必要があります。そして次の日を迎えたら、その一日、神様を信じていきていきましょう。「明日の事は明日自らが思い悩む。」私たちの弱さも、恐れもすべてを知って、私たちをいつも見守り、導いてくださる方がおられます。
 終末はいつ訪れるかわかりません。今日かもしれない、明日かもしれない。いつイエス様が来られても、イエス様を喜んで大迎えすることができる今日一日でありたいと思います。