こちらでは教会月報(最新号)等の牧師説教を掲載しています。


9月8日 主日礼拝 説 教 
 十字架の判決  

詩編   89:39~42
ルカによる福音書 23:13~25
 牧師 児玉 慈子 

 ユダの裏切りによって、指導者たちにつかまえられた後、イエス様はほとんど語られなくなりました。最高法院でもピラトとヘロデに尋問されても、おっしゃったお言葉は「それはあなたたちが言っている。」ということだけで「わたしは~だ」とご自分の意見やご自分のことについて語られることはありませんでした。
 今日の聖書の箇所には、イエス様のお言葉は一つもありません。そこにイエス様がおられることだけはわかりますが、人間の言葉だけが記されているのです。
 イエス様が語られなくなった後、人間たちの声の戦いが始まります。ピラトは、そこにいた者たちに対して言いました。14節「あなたたには、この男を民衆を惑わす者としてわたしのところに連れて来た。わたしはあなたたちの前で取り調べたが、訴えているような犯罪はこの男には何も見つからなかった。」ピラトはここでイエス様を死刑にする必要はないという判決をだしているのです。ところが、そこにいた祭司長、議員たち、民衆は納得しませんでした。18節「しかし、人々は一斉に「その男を殺せ。バラバを釈放しろ。」と叫んだ。そこには大勢の人がいました。だれか、違う言葉を発することはできなかったのでしょうか。イエス様がここで何かを語ってくださったならば、民衆のなから違う言葉が出てきたかもしれません。しかし、イエス様は何も語られません。そして、だれも違う意見を言う人も現れなかったのです。
 イエス様のお言葉なしに人間の声の戦いは進んでいきます。22節「ピラトは三度目に言った。『いったいどんな悪事を働いたというのか。この男には死刑に当たる犯罪は何も見つからなかった。だから、鞭で凝らしてめて釈放しよう。』」23節「ところが人々は、イエスを十字架につけるようにあくまでも大声で要求し続けた。」ピラトは三度も「この男には死刑に当たる犯罪は何も見つからなかった。」と言っています。罪は何も見つからなかったのです。
 イエス様の十字架に関して「もし~だったら」と考えてしまうことがあります。もしピラトが自分の判決を通していたとしたら、イエス様の十字架はなくなったのだろうか。この時の状況だけを見れば、ピラトがもう少し頑張れば十字架は避けられたのではないかと私たちは思います。しかしイエス様のこれまでの歩みとお言葉を見れば、イエス様にとって十字架はさけることができない神様から与えられた果たすべき使命として自覚しておられたのだと思います。
 イエス様はユダヤ教の社会のなかで罪人と呼ばれていた徴税人や娼婦たちと食事をし、彼らに熱心に神様のことを伝えられました。彼らは確かに罪を犯していた人たちです。そのような彼らに、神様のもとへと戻ってきなさいと招かれました。では、彼らの罪は赦されたのでしょうか。彼らはそのままで罪を赦されました。その罪はどこにいったかといえば、イエス様がその罪をご自分で背負って十字架にかかられたのです。イエス様は彼らの罪の責任を自分がおうからこそ、彼らを招き、彼らと親しく交わり、神の国を伝えたのです。罪を背負う覚悟は、十字架におかかりになる覚悟です。ご自分が十字架におかかりになることが使命であるという覚悟がなければ、罪人を招くことはできませんでした。親しく言葉を交わし、一緒に食事をする。そのようなことは誰にでもできます。私たちにさえできることです。しかし、彼らの罪を背負い、自分の命で罪を洗い流すことは私たちにはとうていできないことなのです。
 この覚悟があるからこそイエス様はピラトの判決を聞いても、それに対してそこにいる人たちが十字架にかけろと叫んでも、何も語ることはなさいませんでした。覚悟していたことであっても、人々がご自分のことを十字架につけろと叫ぶ声は、イエス様の心に悲しく、痛く響いたのではないでしょうか。
 詩編には、「いつまで主よ、隠れておられるのですか。」「いつまで捨てておられるのですか。あなたの僕らを力づけてください。」という言葉がでてきます。私たちにとって、神様を信じて礼拝しているのに、祈っているのに、神様が苦しんでいる自分に対して何もしてくださらないと思ってしまうことがあります。
 「神様の時」と「人間の時」との違いに私たちは苦しむことがあります。そのような時には、神様がこれまで与えてくださった恵みと愛を覚えて待つ時なのだと思います。イエス様を十字架にかけるために捕まえた人々は、すぐに自分たちの手でイエス様を十字架にかけようと急いでいます。それが本当に神様の御心なのか問うことなく、大祭司の家、ピラトとヘロデの滞在先にイエス様を連れて行き、最後にもう一度ピラトのもとに連れてきます。彼らはついにイエス様を自分たちの自由にできる者とすることができたのです。25節「そして、暴動と殺人のかどで投獄されていたバラバを要求通りに釈放し、イエスの方は彼らに引き渡して好きなようにさせた。」人々を惑わす者としてイエス様を訴えていたのに、本当に人々を惑わし、殺人まで犯したバラバという男を解放し、何の罪のないイエス様を死へとおいやろうとしていました。ピラトは、イエス様に対する悪意に満ちた者たちにイエス様を引き渡しました。聖書が書かれたギリシャ語では「彼らの意思のなかにイエス様をほうり込んだ」と訳すことができる文章です。イエス様がどうなろうが自分には関係ないというピラトの決断です。
 こうして人間たちの声の戦いは終わりました。イエス様のお声が一切ない今日の場面には、神様の救いのお言葉が聞こえてきません。神様の沈黙は、人間をひかりのない世界へと導きます。罪のない神の子が十字架にかける場所以上の深い暗闇があるでしょうか。
 イエス様は沈黙されたまま十字架へと歩みだされます。その沈黙は人間に対する沈黙であり、神様の沈黙を受け入れた沈黙のように思います。神様の沈黙は、人間の罪を洗い流すために、独り子イエス様を十字架の苦しみへと引き渡す苦しみの沈黙です。ご自分が造られた人間の罪の責任を御自分で解決してくださった。痛み、苦しみを自らにない、私たちの罪を清めてくださいました。
 神様の沈黙に対して、人間はそこに隠されたお言葉と神様の思いを知る必要があると思います。イエス様を三度知らないと言ったペトロを見つめられたイエス様。そこには沈黙がありました。ペトロは自分を責める思いでイエス様が沈黙されたまま自分を見つめられたと思ったと思います。しかし、イエス様は責めるのではなく、御自分があらかじめ言っておいたように、ペトロが自分の弱さを超えてイエス様のもとへと帰ってくることを思い出すように見つめられたのではないでしょうか。その時には兄弟たちをはげましてほしい。それがイエス様の沈黙に隠された思いだったのだと思います。神様が何も答えてくださらないと思う時、その時こそ、神様の思いがどこにあるかをこれまで自分の心に刻まれた御言葉や讃美歌を通して語りかけてくださった神様のお言葉を思い出したいと思います。