こちらでは教会月報(最新号)等の牧師説教を掲載しています。


5月24日 主日礼拝 説教 
 「 教会に満ちるもの  

詩  編   110:1~3
エフェソの信徒への手紙  1:20~23
 牧師 児玉 慈子 

今日の聖書の箇所にはパウロという人の神様への溢れるばかりの思いが書かれています。20、21節「神は、この力をキリストにおいて働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上におかれました。」神様のお力をほめたたえたい、人々に伝えたいという思いがあふれている言葉です。

 神様をほめたたえる言葉を言いなさいと言われたら、みなさんはどれだけの言葉を発することができるでしょうか。神様へのお願いの言葉や感謝の言葉は思いついても、ほめたたえる言葉というのはなかなか出てこないのではないでしょうか。神様をほめたたえる言葉や思いは、聖書の御言葉に深く触れて行くときに初めて与えられるものです。牧師という職業が祝福されていると思うのは、聖書の言葉に深く入り込む機会が与えられる時です。何度も聖書を読み、その意味や背景を知ろうと思うときに、神様はこんなに人間を愛し、思っていてくださることを改めて知らされる瞬間があります。そのようなときに、神様をほめたたえたいという思いが与えらえます。

 パウロも手紙を書きながら、どのように教会に対して神様のお力、深い愛を伝えようかと考え、思いを巡らしているときに神様の恵みの深さに触れたのだと思います。そして、神様をほめたたえる言葉が溢れ出したのだと思います。これ以上ない地位を父なる神はイエス様にお与えになりました。それはイエス様を通して、私たちが父なる神の子となり、イエス様と同じように死から救い出してくださるためでした。私たち人間は、大切なものの命を誰かのためにさし出してまで誰かを救おうとは簡単に思うことはできません。そのような愛は、人間同士のなかから生み出されることは難しいのです。しかしそのような人間に対して、父なる神は愛する独り子をささげる決断をしてくださいました。それは死によって断絶がおこる私たちの命が、神様のもとでもう一度神様と共にある命を得るためでした

 命が与えられて、その命がつきるまで地上で生きる。それは当たり前のことのようで、簡単に成し遂げることができるわけではありません。明日どのように生きればよいのかわからなくなることや生きるのに大きな壁があるような気持ちになることがあります。それでも与えられた命をいきぬくために、神様はイエス様を通して多くのものを与えてくださいました。私たちはそれを一人で受けるのではなく、教会という場で受けているのです。22節「神はまたすべてのものをキリストの足もとに従わせキリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。」すべてのものはイエス様の足元におかれ、イエス様はすべてのものの上にある。その方が教会の頭なのだとパウロはいうのです。教会はときに自信を失う時があります。出来たばかりの教会は特にそうだったのでしょう。社会の中で認められているかという人間の視線で見てしまうとき、教会が必要とされていないのではないかと不安に思う時があるのです。そのような教会に対して、パウロは力強く、思いにあふれて語ります。たとえ目に見える人間の力が強いと思っていても、すべてのものを従わせる方が、教会の頭として私たちに与えられているのです。

 それは私たちがイエス様を必要としているのと同時に、イエス様が教会を必要としてくださっているということです。なぜなら教会を通してイエス様が今も生きて働いてくださるからです。イエス様の思いがこの教会に満ちているからです。

 23節「教会は、キリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場所です。」教会は、キリストの体である。教会に通っておられる方であれば、何度も聞いたことがある言葉です。しかし、教会に来られて間もない方にとって、この言葉はとても不思議な言葉なのではないでしょうか。イエス様と教会が一体であるということをパウロはいいあらわしたかったのだと思います。教会は、唯一イエス様の思いを伝え続けている場所です。この場所がなくなってしまえば、イエス様の思いを伝える場所がなくなってしまう。そう思うと教会がこの場所にある意味の重さを思います。

 平塚富士見町教会は、この地に長老主義教会を建てたいという思いで集まった人たちの祈り会から始まりました。その思いは、イエス様が救いの出来事を伝えなさいと言われたイエス様の思いを受け取ったことによって与えられたものです。イエス様の思いを受け継いだ人間がその思いを伝え続けて、今全世界の教会が存在しています。私たちはその思いをどう受け止めていけばよいのでしょうか。礼拝堂での礼拝を中止するというこれまでに経験したことのない経験をしてなお、私たちはイエス様からうけた思いを大切に持ち続けたいと思うのです。そしてそれを次の世代へと受け継いでいく使命が与えられています。イエス様の思いの強さがそれを受け継いだ人間たちを突き動かし続けてきました。イエス様の思いにはどんな困難な状態でも人間を突き動かし続ける力があります。自分の家よりも先に礼拝堂を、牧師館をとかつてこの地に教会を建てた人たちが突き動かされた思いを、私たちも受け継いでいる一人一人なのです。 

 

 私たちの救い主であり、今も教会の頭として私たちを励まし、導いてくださる主イエス・キリストの父なる神様、今朝もあなたは私たちに礼拝を守る時を与えてくださいました。あなたの言葉によって、私たちは力が与えられて歩みだします。どうぞ新しい一週間の旅路をあなたと共に歩ませてください。

  今、病に苦しむもの、苦しむもののためを支える者、医療や介護に携わり、それを使命として懸命に働く者にあなたのお守りと力がありますように。イエス様が弱い者と共に歩んでくださったように、私たちも今苦しむ者のために祈り、助ける力をお与えください。

 教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場所です。どうぞイエス様の思いが溢れる教会として、私たちの教会をと通して救いが語られ、与えられますように私たちをあなたの器として用いてください。

 新しい一週間もイエス様の思いに満たされますように。私たちの体を互いに助け合うために、健康にたもち、強めてください。聖霊によって体の中から強められ、歩みだす者とさせてください。

この祈りを主イエス・キリストの御名によってみ前におささげいたします。