西 安 ・ 敦 煌

2000,4

悠久の大地に 何を求めて? 何を感じに?

日本の歴史の源流を求めて!

日本では希薄になってきた、情愛を感じに!

国花 牡丹

西安

シルクロードの起点、当時は≪長安≫と呼ばれていた 旧市街全体が城壁で囲まれ中心には鐘楼・鼓楼がある 鐘楼では告時の鐘を突く 郊外には始皇帝の陵墓・華清池・兵馬俑坑・大雁塔など史跡が多い

鐘楼

南門

碑林(博物館)の孔子の像

玄奘三蔵がインドから持ち帰った経典をここで訳経し保存した

大雁塔

華清池

楊貴妃の像

玄宗皇帝と楊貴妃の舞台

楊貴妃の浴場

西安郊外は春暖に包まる

兵馬俑坑

秦の始皇帝の陵墓より1km位 離れた地中より発見された 俑の数は 8000体・馬600・戦車100で未だに発掘中 始皇帝の陵墓の守備軍団と言われている 俑の発見者は農民で畠の下から一体の俑を、1974年に掘り上げた 

敦煌

歴史ロマンの宝庫・あこがれの地 西安から飛行機で2時間余で到着  見渡す限りの地平線に広がる悠久の夢と現実を感じる  昔の人はラクダと徒歩で夢を追い求め、現実に打ちひしがれる繰返しがあった  今はこの厳しい環境を文明の利器で乗越え、観光資源として取り入れている  この地 敦煌で、清々しい1青年と出会う

敦煌空港に降り立つ見渡す

限り真ッ平

家も人も見えない

ゴビ砂漠と三危山 敦煌上空 

陝西省博物館

博物館の唐三彩の像

羊の頭を丸ごと煮ている

敦煌市の沙州市場にて

敦煌市の沙州市場にて

市場には南国の果物も売っている

敦煌のシンボル

反弾琵琶技楽天

莫高窟

莫高窟研究院接待部の牛源さんから莫高窟の案内をして頂く 我々二人だけだったので、説明だけでなく世間話から私的な事まで親しく話した そして住所氏名を交換し文通を約束する 文通を続けた4年後、牛源さんは日本に留学する事になる  この時点では将来そんな展開があるとは想像も出来なかった

牛源さんとの出会い 初対面

トピックスの

牛源さんと私達にリンク

我々は、この地敦煌で旅の目的を二つとも見出せた          1、歴史の源流 2、人の情愛 

人への好意に満ち溢れた、清々しい 青年で、疑念を知らぬ純粋さを感じた

般若心経・他経典の源本、飛天(日本の天女)のルーツ、釈迦と弟子達の塑像、仏像の優しさ厳しさ、子供の頃聞いた童話物語の壁画、日本の仏教歴史の原点が莫高窟に濃縮されていると感じた

沙州市場

敦煌の台所

交通整理の警官

敦煌の街には陶製の壁画が多い

鳴砂山の中にある泉(月牙泉)

ゴビ灘(灘とは石砂土が混ざっている地帯)

ゴビ砂漠・三危山を背景に 敦煌空港

北 京

帰路、乗継で北京に一泊 半日観光する 

天安門に登り、雍和宮を見物

前回、北京に来た時には天安門の上には登れなかった 改革開放路線にそっての開放なのか 但し、カメラ以外の荷物は預け、金属探知機を通り、ライターを持っているかの身体検査があり、かなり厳しかった 入場料が結構高かった 登ると制服・私服の警備員がいて、それが手の平を返した様にサービスが良い 寄ってきて『シャッター押しましょうか ここが真ン中で登小兵主席が立ったところです どうぞ! この広場は50万人集まれます』と胸を張って日本語で『?ン50万人?便所如何するの?』『無無・・』 揚げ足取ってご免!通じなかった

ここでは、悲しい歴史を思い起こす

雍和宮

チベットのラマ7世が清朝乾隆帝に献上したもの

直径3mの白檀の1木彫り

乾隆帝は少数民族(チベット・モンゴル)の柔軟政策で、ラマ寺院として寄贈

弥勒菩薩

当初、雍和宮は乾隆帝の邸宅だったが、1744年

雍和宮

.

1 オーストラリア 10 パ リ 19 中国西域 2
2 北 京 11 敦 煌 ・ 西 安 20 中国西域 3
3 ロ ン ド ン 12 トルファン・ウルムチ 21
4 ロ ー マ 13 イ ギ リ ス 南 部 22
5 ポ ン ペ イ 14 ウ イ ー ン 23
6 カ ナ ダ 15 プラハ・ブラチスラバ 24
7 タ イ 16 ブ タ ペ ス ト 25
8 ド イ ツ 17 アンコールワット 26
9 ス イ ス 18 中国西域 1 27

敦煌の街へ