<  経世済民 渋沢栄一を訪ねる >

2009/8/22

深谷 - 多胡碑 - 小幡 - 富岡   約100km

 


  誠之堂暖炉に嵌め込まれた渋沢栄一のレリーフ

 

レトロなレンガ作りでも見ようかくらいな気楽な気分で出掛けたのだったが、
「渋沢栄一の再認識」という予想外の結果となった。

 


 

 深谷で電車を降りて、駅前広場で自転車を組む。1996年に改築された駅舎や駅前広場にはレンガが使われ、花壇なども手入れが行き届いている。

 走り出しは少し慎重だった。先日ブレーキケーブルを交換したのだ。北陸路を走ってきて、袋から出して気づいた。ブレーキケーブルの残っている撚り線が2本だけとなって、そのほとんどが切れていた。20数年、2万キロ近くは走っている。事故になる前に気付いて良かった。


 高崎線沿いのレンガ作りの橋の脇で釣りをしている男性に声を掛ける。「お宅の立ってる所が引き込み線の跡だよ。」「今は遊歩道になって、真直ぐレンガ工場へつながっている。」

 


        福川に掛かけられていたチャールズ・ポーナル設計による
日本最古(1895年)のプレートガーター橋


           5連のボックスガーター橋

 


      レンガのみで作られた備前渠アーチ橋

 

 1887年、深谷に日本で最初にレンガ工場がつくられ、レンガは文明開化のシンボルとなった。日本煉瓦製造工場の設立には渋沢栄一が大きく関わっている。1895年、駅からレンガ工場までの約4kmの区間に英国技師の設計でレンガを運ぶ専用線が敷かれた。それまでの利根川による舟運に限界がみえたためという。

 線路跡は遊歩道になっている。車止めが災いして自転車で走るには少し不自由だが、沿道では鉄道黎明期の遺構を見ることができる。日本煉瓦製造跡地にはレンガを焼いたホフマン輪窯、旧事務所、変電所などがあるが現在は公開されていない。

 


            日本煉瓦製造旧事務所

 

 渋沢栄一記念館。受付で案内を頼む。「渋沢栄一についてご存知ですか。」「『明治で最も名を知られた実業家』以上の知識はありません。」

 出生から家業の藍玉の取引、高崎藩乗っ取り計画、京都における一橋家への仕官、ヨーロッパ滞在、新政府大蔵官僚時代、実業家としての活動、福祉活動、平和外交など。順を追っての丁寧な説明。

 


                      渋沢栄一生家

 

 近代日本経済の父といわれる渋沢栄一だが、経済活動と並行して福祉事業にも熱心に取り組んだ。養育院、孤児院、精神薄弱児施設などの施設。赤十字や癩予防協会。また東京慈恵医院、済生会、結核予防協会などの医療機関。現一橋大学や日本女子大学など。幅広い分野にわたって設立や運営に尽力した。

 彼は著述のなかで儒教精神を基にした道徳経済合一説(経済を発展させ、国全体を豊かにし、富は全体で共有するもの)を説いている。

 


    大寄公民館に移築された誠之堂。 並んで清風亭も移築されている

 

 深谷から富岡へ向かう。曇っていた空が次第に晴れて、それに伴い気温も上がる。

 


 

< 多胡碑 >

 

 西上州やまびこ街道と呼ばれる国道254号から分かれて、集落の入り組んだ路地で少し迷う。多胡碑はコンクリート造りのお堂におさめられていた。高さ127cm、笠石を乗せた端正な姿をしている。碑は羊大夫のお墓だと思われ、「おひつじさま」と呼ばれてきた。内容は「和銅4年(711年)上野国の片岡郡、緑野郡、甘良郡、三郡の内300戸を郡と成して、羊に給い多胡郡とする」というもの。

 多胡碑を見て、隣接の記念館に入る。多賀城碑、那須国造碑などの複製や中国古代の拓本などが展示されている。冷房の効いた展示室でひととき暑さを忘れる。

 

     
               多胡碑     

 

   
            多胡碑部分

 

< 小幡 >

 

 小幡は織田氏2万石の城下町。小幡陣屋跡、楽山園の復元工事が行われている。甘楽第二中学周辺の道路や武家屋敷の石垣など、小さいながらも城下町としての風格を具えた魅力的な佇まいをみせていた。

 


                         武家屋敷跡

 
                武家屋敷跡の石垣                雄川堰


                    楽山園

 

 


 

< 富岡製糸場 >

 

 官営富岡製糸場。日本の近代化の先駆けとして明治3年に設立、5年に操業が開始された。設立に渋沢栄一が関わる。以前から訪れたいと思っていたが非公開だった。富岡市に移管され一般公開が始まる。

 場内はテーマパーク並に見学者で込み合っていた。幾つものミストファンが置かれ、解説付きの見学ツアーも1時間おきに行われている。内部公開は繰糸場に限られているが、設立当時の建物がよく保存されている。

 


         繰糸場

 

 工場の建物は「コの字形」をしていて、横棒2本が乾燥を終えた繭倉庫。縦棒が繰糸場となっている。繰糸場は幅が約12m。長さ140m。創業当初は300釜の繰糸機をもつ世界最大規模の工場だった。技術伝習生として15歳から25歳の女性が集められた。彼女たちは技術指導者として地元へ戻り、その後の生糸産業を担っていくことになる。

 


          正門から検査人館と東繭倉庫を見る

 


 

 経済のグローバル化が叫ばれ、経済のダウンサイジングが急速に進み、社会的弱者の存在が社会問題化している。しかし経済学は経済現象の理論的記述に終始するだけで、”未来の夢”に対しては無頓着である。社会主義に代わるアクティブな経済思想の出現が待たれる今、economyを経済(経世済民=国を動かし国民を生かす)と訳した先人たちや、野に下り経世済民そのままを実践した渋沢栄一の存在はわたしにとって改めて新鮮なものだった。

 

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