< 西近江路 >
2008/4/1

瀬田 ー 膳所 ー 坂本 ー 堅田 ー 海津  70km

 

 

「 雪ふるる比良の高嶺の夕暮れは 花の盛りにすぐる春かな 」 

 

 4月だというのに比良山塊は雪が白く残り、桜もつぼみのままである。北からの季節風が時にハンドルが取られる程強く吹く。足早に流れる雲は断続的に雨を伴い、降ると軒先を借り、照れば走るを繰り返す。敦賀まで走る予定だったが、膳所、坂本、堅田など見どころも多く、雨宿りでのロスタイムもあって海津で時間切れとなってしまった。

 


                 湖北方面をのぞむ

 


 

 昨年、近江八幡、彦根、長浜など琵琶湖の東側を走った。今年は湖西方面。瀬田、膳所、坂本、堅田、海津である。
特に膳所、瀬田は芭蕉ゆかりの地。「奥の細道」の後、この地に長く留まり、
幻住庵記をまとめた。義仲寺には墓がある。

 

 

< 近江国庁跡・堂の上遺跡 >

 

 瀬田で下車、まず近江国衙跡。多くの国庁跡と同じように丘の上にあった。案内板などが古び、住人の関心も薄れている様子。ポツポツきそうな空模様のせいもあって、広い跡地は人影もなく、ひっそりしていていた。

 


                  近江国衙跡

 近江の国庁は奈良時代の前半から平安時代の後半まで存続した。前殿、後殿と東西の脇殿と、それを囲む門や築地などからなり、東西2町(約216m)、南北3町(約324m)、その外側には約9町(約972m)四方の街区が広がっていた。 初めて国庁の全容が明らかとなったところである。(案内板より)

 




                      堂の上遺跡

 少し引き返して堂の上遺跡に寄る。瀬田駅跡といわれるところ。意外にも馬の背のような地形で、関所にふさわしいような場所であった。

 


 

< 瀬田の唐橋 >

 


                   瀬田の唐橋

 

 有名な瀬田の唐橋である。更級日記には「湖のおもてはるばるとして、なでしま、竹生島などいふ所の見えたる、いとおもしろし。勢多の橋みなくづれて、わたりわづらふ。」とある。

 

< 幻住庵 >

 

 幻住庵へは急な坂を上る。往時は深い山の中だったにちがいない。庵のすぐ下に泉があり、吉野の西行庵とイメージが重なる。芭蕉がここへ滞在したのも、その意識のゆえであろうか。

 4月だというのに、門前の梅はまだ花を残していた。

 


                      幻住庵


                         幻住庵記

 


 

< 膳所 >

 

 この地を訪れるにあたって、二つの疑問があった。芭蕉は何故「墓は木曽殿の隣へ」と願ったのか。もうひとつ

   「 行く春を近江の人と惜しみける 」     芭蕉

 芭蕉が行く春を惜しんだ近江の人とは誰か。

 


                    義仲寺

 義仲寺は旧東海道沿いにあった。表はひっきりなしに車が通る。しかし、一歩中に入ると広くはないが静かで品格のある佇まいの寺である。芭蕉の墓は写真で見た通り、義仲の墓と並んでいた。

 


                 芭蕉の墓


                       木曾義仲の墓と義仲寺境内

 

< フロントランナーの孤独 >

 

 芭蕉の義仲好きについて判官びいきという意見もあるが、それだけで墓を隣に建てるだろうか。

 芭蕉の弟子には武士くずれや僧侶くずれが多い。日本文化の基調となるのは武士にしろ、農民にしろ基本的には「集団の文化」である。しかし俳諧の世界では「己のまなざし」をもったものたちが新しい表現を獲得していく。それがこうした集団から抜け落ちた人々や、商人たちであった。

 芭蕉は名前を知られる存在となったといっても、俳諧の宗匠のひとり。芭蕉のこころは新しい文学表現への強い自負と、十分に理解されない不満という両極の間で揺れ動いたに違いない。フロントランナーは常に孤独である。

 木曽義仲は頼朝のような後ろ盾もなく、強い個性で旧体制に立ち向かっていった。芭蕉が義仲に共感したのは、そうした激しい個の戦いだったのではあるまいか。そして、その義仲を通して見えるのは、妥協を嫌い、激しく闘う芭蕉である。

 



 

< 竜が丘俳人墓地 >

 

 こどもの頃、我が家の正月は俳句カルタだった。

水鳥やむかふの岸へつういつい
松の月枝に掛たりはづしたり
にょつぽりと秋の空なる富士の山
転居(わたまし)や先に来てゐるきりぎりす
ものいへばくちびる寒し秋の風
けふになりて菊作らふとおもひけり
むしつてはむしつては捨て春の草
春の海ひねもすのたりのたりかな
盗人の銭おく雪のやどりかな
狗子(いぬのこ)の目をぽつちりと明けの春
朝顔につるべ取られてもらひ水
長松が親の名で来る御慶かな

惟然坊
小西来山
鬼貫
露川坊
芭蕉
二水
小西来山
蕪村
白馬散人
仙鶴
千代女
野坡

 

 後に「俳家奇人談続俳家奇人談 竹内玄玄一著」を手にして、それらが、江戸期のポピュラーな句だと知る。記憶を頼りに作者を確かめるのが楽しみとなった。

 丈草の句は「飛び込んだままか都の杜鵑」「わが事と泥鰌の逃げし根芹かな」の2句。しかし丈草といえば、やはりこの句であろうか。

 「 うずくまる薬缶の下の寒さかな 」     丈草

  


      芭蕉のための経塚を囲んで丈草など 俳人の墓

 

 竜が丘俳人墓地は現在の国道1号線の脇にある。周囲を削られて、小島のように取り残されている。もともとは、義仲寺の境内の一部だったというが、排気ガスと騒音で車座となっての俳諧どころのはなしではない。

 


 

< 大津 >

 

 大津の港に立つ。往古の港はもっと山側だったという。

 


                            大津の港

 

 もうひとつの疑問。芭蕉が行く春を惜しんだ近江のひととは誰だったのか。この句は一般的な解釈では近江の友人たちと過ぎ行く春を惜しんだとある。しかし、芭蕉がそんな座りのわるい句をつくるだろうか。

   近江の海夕波千鳥汝が鳴けば心もしのにいにしへおもほゆ    柿本人麻呂

 この歌があまりにも有名なので、近江の地についてのイメージは冬枯れかと思っていたが、実際には春と滅びのイメージだったのである。歌人たちの感性は鋭敏であった。

   楽浪の大津宮は名のみして霞たなびき宮木守なし        柿本人麻呂
   荒れ果てし志賀のふるさと来てみれば春こそ花の都なりけれ   京極為兼
   楽浪や志賀の都の花盛り風より先に問はましものを       源実朝
   近江なる志賀の花園里荒れて鶯ひとり春ぞ忘れぬ        後鳥羽院
   春風の花の吹雪にうづもれて行きもやられぬ志賀の山みち    西行
   袖の雪空の吹雪もひとつにて花ににほへる志賀の山越え     藤原定家

 芭蕉が行く春を共に惜しんだのは大津の都人や人麻呂、西行、実朝など、古の歌人達であった。

 


 

< 坂本 >

 

 坂本は比叡山から琵琶湖への山裾に開かれた町である。穴太積みの石垣が美しい。旧竹林院に寄る。苔の築山と水の流れを囲むように、高低差のある回遊路がめぐる。天の川席と呼ばれる茶室がある。亭主を挟んで、客が左右に分かれて座る、特異な形式である。

 


                        旧竹林院

 


                 旧竹林院庭園

 


                          坂本の町並み まだ桜はつぼみ

 


 

< 居初氏庭園・天然図画亭 >

 

 

 浮御堂で雨宿りをして、集落内の狭い道を居初家までくる。「向かいの建物ですよ。」前まで来ていても気づかなかった。ベルを鳴らして案内してもらう。堅田の天然図画亭である。

 「雨が降って来たので」といって、わたしのために雨戸を開けてくれる。「蹲は鎌倉時代のものです。」「向こう岸に景色を損なう建物が建ってしまって。」琵琶湖三大豪族の一つとはいえ、数百年間変わらずに維持されてきたことに驚く。

 北村幽安作というが、想像していたよりずっと小さな庭だった。建物の縁をなぞる敷石の直線とさつきの刈り込みの曲線の対比。シンプルでありながら、おおらかなスケール感が印象的であった。茶席や路地、船着きなど基本的な骨格が大胆であり、細部にわたって細やかな配慮がある。しかもあくまで自然で技巧が表にでない。「ここに来てよかった。」とつくづく思った。

 

 

 

 

 

 

 


 

< 海津まで >

 

 湖西線に沿って北へむかう。比良の山には雪が残り、強い風が正面から吹く。身を屈めても速度が落ちるばかりである。ポタリングペースから時には歩く速度になってしまうことさえある。天気は相変わらず。雨雲が雨を降らしては去っていく。遠くで虹が立つ。

 

 


                   白鬚神社

 


                     鵜川の四十八体仏

 


                 安曇川

 

 旧街道の風景を横目にひたすらペダルを廻す。白鬚神社で雨宿りをしたり、鵜川の四十八体仏に立ち寄る。

 


                                      今井浜からの奥琵琶湖     

 

 湖岸に沿って松並木を走る。陽が少し傾き始めた。そろそろ切り上げ時か。今日は海津で終わりと決める。

 


            海津浜、江戸時代の迫力ある石組み

 


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