< 中央集権国家と直線道路 > |
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従来の常識を大きく覆した
斉明天皇七年正月、百済救援のため西征の軍を発した。伊予の熟田津(にぎたづ)の岩湯の行く宮(かりみや)に着き、潮待ちのため斉明天皇の一行は熟田津に滞在した。いよいよ待っていた瀬戸内航海にふさわしい潮流、大潮の上げ潮の日が来た。額田の王は国運をかけた出港の歴史的瞬間を全身的圧倒的に歌い上げる。 『額田の王の実像』向井鞠夫(集英社) 当時の朝鮮半島は新羅、高句麗、百済三国に唐、倭が加わり、国際関係は緊迫していた。百済が破れると、大和政権は唐、新羅の連合軍に対抗して約3万といわれる救援軍を百済に送る。しかし白村江で大敗、朝鮮半島の足がかりを失うことになる。そのうえ唐、新羅軍の侵攻に備えて、国内の防衛態勢の整備が急務となる。 北九州に水城(みずき)をつくり、防人(さきもり)が配置された。北九州、瀬戸内一帯に防衛のための古代山城が作られる。律令時代の強力な中央集権体制はこうした緊迫した国際関係が生み出したという。
東山道武蔵路(国分寺市の旧国鉄中央学園跡地)
道は踏み跡から始まったといわれ、鎌倉、江戸と時代を経るに従って道路網は徐々に整備されたと思われてきた。しかし律令時代の駅路跡が各地で発掘され、従来の常識は大きく覆された。それらは「踏み跡」どころか6m、9m、12mに規格化され、しかも両脇に側溝を備えた堂々たる直線道路だった。駅路の総延長は6500km、現在の高速道路網に匹敵する規模だったともいわれる。 静岡の曲金北遺跡や、国分寺市の旧国鉄中央学園跡地では道幅9m、両側溝の中心間12mの道路の遺構が発掘された。その他東山道や山陰道の発掘跡から、これらの官道は山には切り通しを、低地には盛り土をし、川には橋を架けた直線道路だったことが分かってきた。 全国は五畿七道に分けられ、国、評、里(後には国、郡、郷)が置かれた。国府には中央から国司が派遣され、地方の豪族は郡司とされた。国分寺、国分尼寺が造られ、条里制がしかれた。戸籍と地図が作られ、人々と土地は国の直接統治となった。
相模国分寺出土 布目瓦
また、「諸家が家々に持っている帝紀と本辞は虚偽を加えているものが多い。」「偽りを削り実(まこと)を定めて後の世に伝えよ。」と『古事記』が書かれた。 古墳時代の宗教において、春の水田耕作に先立って神はまず荒々しい魂<荒魂>として山頂に下るとされた。<依り代>は山頂の巨石や大樹でそれぞれ<磐座(いわくら)>、<神籬(ひもろぎ)>といった。神の命は年毎に新たになり、それを<みあれ>という。<みあれ>は御生れと書き、山頂で神を迎えて祀る。そこから山麓の鎮座地にお迎えして祀られる神は<和魂(にぎたま)>と呼ばれ、豊作が祈願され、これを<祈年(としごい)>という。 『古事記』では神の世界、高天ケ原から皇室の祖先、天照大神、日の神が天下って日本を統治するとされる。古代信仰を取り込み大和政権は神に繋がる系統としてマツリゴトを行う。
大王(王の中の王)から天皇(天の中心、北極星に因む名)へ変わったのは七世紀の後半、壬申の乱の頃といわれている。陰陽五行の考え方に基づいて多くの事柄が執り行われ、都市計画がなされた。丘や沼地をつらぬいた直線道路は陰陽五行の考え方を忠実に行った結果であろう。 国衙などは良い地形が選ばれた。実際の地形では北からみて左、東に流水があるのを青竜。右、西に大道があるのを白虎。正面、南に低い土地があるのを朱雀。後ろ、北に丘陵が玄武。このような地形は災いを避けると思われた。 そして各地に置かれた国府は大王(おおきみ)の遠(とお)の朝廷(みかど)として、大和政権の権威を示すもとなった。 『古代相模の方位線』向井鞠夫(野麦書房)より
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しかし重い税や数十日に及ぶ労働、働き手を防人にとられ困窮する人々は耕地の放棄や逃亡を余儀なくされる。
しかし10世紀頃になると律令体制は本格的に崩壊していく。 相模平野においても糟谷荘、相模国府と想定される現在の四ノ宮一帯の前取荘、豊田荘など多くの荘園が生まれる。大和政権の力が弱くなるに従って、これら官道の維持も困難となり規模が縮小されたり廃道となって、我々が旧道として思い描く中世の道になっていく。再度直線道路が復活するのは1300年後。明治新政府、再び強力な国家権力の完成と同時だった。
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