< 東山道、白川の関 >
2008/9/6

宇都宮 ー 黒羽 ー 伊王野 ー 白河   約70km

 

青春18切符がまだ1日分残っている。
将軍道と呼ばれる古代東山道の跡を辿り、白河の関へ向かう。

 


 

< 古い建物 >

 

 宇都宮着8時58分。先月はここから日光へ向かったが、今日は逆方向、白河の関である。走り始めるとすぐ、駅近くに重厚な商家があった。旧篠原家住宅。明治期の商家である。

 


              旧篠原家住宅

 

 篠原家は18世紀末頃から現在の地、奥州街道口で醤油の製造や肥料商を営んだとある。戦災で醤油製造蔵や米蔵などは焼失し、主屋と石蔵2棟が残った。 

 1階が店、2階が住まいである。この日は2階の座敷で刺し子の展示会が開かれていた。古い建物がただ保存されるだけでなく、その特徴を活かして実際に使われている。

 

  
ケヤキの大黒柱が2階座敷の床柱になっている。                店から通りを見る。

 

 在来工法の建物は時とともに美しさを増すといわれるが、それには適切な手当と行き届いた手入れが必須である。木の床は雑巾がけで自然な光沢をみせ、たたきの打ち水が適度な湿り気をもたらす。何より人が出入りすることで、建物全体が呼吸をしているようにさえ感じられる。

 


 

< 将軍道 >

 

 宇都宮駅から4号線を北東に真直ぐ延長すると、那須烏山市とさくら市の行政境界が直線的に通る箇所がある。ここが地元で将軍道と呼ばれる古道で、かつての東山道の跡である。厩久保遺跡や長者ヶ平遺跡の発掘調査の結果、東山道跡と確認された。道路跡は両側に側溝を備えた道幅6mの直線道路であった。

 


                      厩久保遺跡付近

 

 将軍道はごく普通の農道だった。今は通る人もなく、枝が散乱し倒木もあり、荒れたままになっている。有名な将軍桜に立ち寄り、少し辿れないかと自転車を押してみたが、少し行った先で道は夏草に埋もれてしまっていた。

 


                  将軍道

 


                     将軍桜

 


          道の跡は夏草に埋もれてしまっている

 

 東山道はここから小川、黒羽、伊王野を経て白川の関に至る。

 


 

< 前方後方墳 >

 


                 駒形大塚古墳

 

 小川町。道沿いに駒形大塚古墳、下侍塚古墳があった。いずれも前方後方墳とある。前方後方墳と聞いても単なるバリエーションのひとつくらいの認識だったが、調べてみると面白い。4世紀から5世紀にかけて、畿内の前方後円墳、尾張から関東への東日本では前方後方墳の世界とでもいうように、異なった展開を示していた。

 近畿地方では150mを越える大型の前方後円墳が作られるようになり、権力の集中が進むが、一方の東日本においては100mを越えるものは作られず、権力の集中はおだやかだったと思われている。当時下野の中心はここ那須地方であった。

 6世紀になると大和政権の影響力が東国に浸透するようになり、それに伴って関東平野においても前方後円墳が作られるようになる。しかし、那須地方においては宇都宮の南、姿川の流域であった。

 

 

 


                    下侍塚古墳

 


 

< 雷雨 >

 

 駒形大塚古墳のある小川町は雷雲が去った後で、道路がまだ濡れていた。昼食をとり、なす風土記の丘資料館で那須国造碑のレプリカを見、下侍塚古墳で写真を撮っているうちに、ぽつりぽつりが始まった。右手の山の端に黒雲が現れて稲光が見える。

 やがて雨脚が強くなり、前方がかすんできた。そろそろ雨宿りをと思った瞬間、100メーター程先の路面が雨で光っているのが見えた。とっさに農家の長屋門に飛び込むと同時に土砂降りの雨と強い風。間一髪とはこのことだ。

 猛烈な雨と突風である。屋根があっても横なぐりの雨にはお手上げである。そのうちに屋敷内に降った雨が川となって足下に迫ってくる。小さな捨て石の上に避難する。すぐそばに雷が落ちる。

 


               反射的に農家の長屋門に避難

 


                 雨上がりの黒羽

 


 

< 白河の関 >

 

 雷雨やパンクで時間を消費したが、伊王野を過ぎ、いよいよ白河の関への山越えが始まる。11kmで200mちょとの上り。雨上がりの静かな道は車がほとんど通らない。ひと漕ぎひと漕ぎ、山深さを増す道は段々寂しくなっていく。昔の旅人はどんな思いでこの峠道を越えていったのだろう。

 


 道は巻くことなく峠に至る。「是より北は白川領」の碑があり、追分の明神が祀られていた。

 


                   追分の明神

 


                       峠の下り

 

 

古関跡の碑


  白河藩主松平定信が1800年8月この地が白河関跡であると断定し、建立したとある。

 

 のどかな田園風景を下った所が白河の関跡。一帯は公園として整備され、神社の入り口に古関跡の碑が建っていた。「幌掛けの楓」や「従二位の杉」などの案内がある。閑散とした木立の中での一時。あとは白河駅まで下るだけである。

 


 


                        白河駅

 

 白河駅は思いがけなくアールデコ調の美しい駅舎だった。自転車を担いでホームへ上がると、線路をはさんで、目の前が小峰城である。見ている間に最後の残照も消えて、お城は闇につつまれていった。

 

 

 

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