< 水道道路 >

2002/2

 

何万年にわたって日本列島には人が住んできたので、
我々のすぐ足下にどんな遺跡が眠っているとも限らない

 



 「藤沢市全図」 (部分) 昭和26年
藤沢市

 

この地図には時代を感じさせる、こんな書き込みがある。

現在の荏原製作所の地点は、藤沢飛行場となっている

 

 藤沢の地図を見ていて不思議な道を見つけた。斜め一直線に藤沢市を貫いている(上記地図 赤線)。横須賀水道道路といい、半原系統に属す。横須賀市の水道は明治9年の走水系統に始まり、平成12年の宮が瀬系統までの全6水源。保有水源量は1日当たり387,100G。

 この水道道路は別名海軍道路。愛川町の半原水源池から大正10年に、旧海軍が横須賀軍港に水を送るため10年をかけて敷いたもので、口径20インチの鋳鉄管が53kmにわたって埋設され、自然流下方式で横須賀市逸見浄水場まで水を送っている。

 


Yの印


波と海

水道道路には「Y」の記号の横須賀市の道界に混じって、旧海軍の道界が点々と残っている。

 


大鋸から北西を望む


 

 藤沢市教育委員会の『神奈川の古代道』(1997刊) では「それに先立つ明治42年の地形図に、もうこの直線道路の痕跡が認められ、このような直線道路は何らかの公権力によるものと考えるのが妥当であり、高座郡家から鎌倉郡家を結ぶ律令時代の伝路跡」に想定している。水道道路はこの官道跡を利用して埋設されたものだという。(木下 良氏)

 


      昭和礼文社刊迅速図 「原宿村」(部分)
     明治十五年測量同十六年製版 参謀本部陸軍部測量局

 

 

 海老名には条里制跡や国分寺、尼寺跡、海老名本郷遺跡などがあるが、高倉郡家についてはまだ確認されていない。一方、鎌倉郡家は今小路西遺跡(御成小学校内)で8世紀のコの字状配置の長大な建物群が検出され、また<郡長>などと書かれた木簡なども見つかり鎌倉郡衙跡に推定されている。

 

 

 水道道路は藤沢町田線をまたいで境川へ下ると、ここに「立石」という地名が残る。相模と武蔵の境界、境川の渡河地点を示す。

 立石の対岸が「大鋸(だいぎり)」。『藤沢の地名』(藤沢市)によれば、宋への船大工や玉縄城の築城に関わった大鋸(おおが)を引く集団が住まったことに因む地名。という。しかし「こびき」「おおが」と呼ばず「だいぎり」と呼ぶことに疑問が残る。大鋸は丘陵の南北を広く覆う地名で、単純に考えれば<大きな切り通し>に由来するような気がしないでない。

 また現在の藤沢駅の東側に「大道」があり、小学校の名前にもなっている。『藤沢の地名』(藤沢市)によれば江の島道に因む地名というが、はたしてそうだろうか。

 

 

 注:2002年10月の新聞記事では茅ケ崎市・下寺尾西方A遺跡(茅ケ崎北陵高校の校舎建て直しの際に見つかった、弥生時代環濠集落と古代の集落跡)を高倉郡衙跡とした。

 

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