髪の長い女
「いいよ」
そう言われた時、やった、と思った。
講堂の外階段は誰も使わない。デザイン重視の螺旋階段で昇り降りがしにくいし、なによりすぐ近くにエレベーターがあるからだ。
夕闇が迫る寒い時期ならなおの事で、グルグルと思考を落ち込ませるのにぴったりの場所だった。
元は水色だった鉄の手すりは、風雨に晒され赤錆が塗料を押し上げている。掌全体を使ってそれをこそげ落としながら、僕は地面へ向かって降りていた。
小気味よく剥がれ落ちていく水色の皮を、見るともなしに見る。踊り場にいた人影はだから、二重の意味で僕を驚かせた。
「言ったのか」
「振られちゃった」
「なんだって?」
「僕が一年の女の子とさぁラブホ入る所を見た友達がいたんだって。別れる? って言ったら、『いいよ』だってさ」
「バカか、お前は」
三段ほど高い所にいる僕を、心底見下げるような目で彼は見た。器用だな。
「最低だな」
意外だ。こんな風に言われる事はないと思ってたのに。
「そうだね」
条件反射じゃない笑みで口元が緩む。真剣に怒ってくれているのが分かったから。反対に顔をしかめられたけど。
僕は確かに、最低な人間だ。
決定的な言葉を自分から伝えるのが嫌で、彼女が別れ話を切り出すよう仕向けた。僕が浮気してるという噂を利用して。
後輩の女の子が僕に好意を持ってくれてるのは知ってたし、嬉しくなかったと言えば嘘になる。
だけど、彼女以外の女の子などもう僕の目には入らないのに。
あの日から。
彼女に出会ったのは大学に行く電車の中だった。
午後からの講義に出るため、僕は合コン明けでだるい体を座席にもたせかけぼんやりしていた。その事でまた家族とやりあった。いつもの事だ。
いつもと同じ電車、いつもと同じ景色。進行方向と平行に座席が並んでいる車輌で、二日酔いには眩し過ぎる景色が左から右へ流れていったのを覚えている。
大学のある一つ前の駅で、そのひとは乗り込んできた。何かとても美しい物が視界を掠め、僕の目をくらませた。曖昧だった視点がそちらへ急速に収斂する。
はす向かいに座った彼女は、長い髪をかきあげた所だった。耳にかけた髪が肩をまろやかに滑り、胸元で緩く孤を描く。正午の光を背にして、長い髪が縁取るように金茶色に耀いていた。
エンジェル・ハロゥ。
咄嗟に思い出す。天使の光輪。
だけどその髪以上に、彼女は綺麗だった。
いわゆる今風のアイラインバッチリとかマスカラたっぷりとかくっきり茶眉じゃなくても。
伏せられたまつげの繊細さ。
いっそ青白く見える、化粧っ気のない肌。
ともすると際限なく肩を滑り落ちていく真っ直ぐな髪。
通路を挟んで向かい合っているのに、イコンや天使像といった類の、普段の生活からは遠い物を目前にした時のように彼女は崇高だった。
ああ、これが。と思った。
すぐに分かった。彼女は有名だったからだ。
女子の少ない法学部で、一番優秀で一番美人で一番髪の長い女の子がいると。そのくせ、誰とも付き合ったりしないのだと。
いわゆる高嶺の花という存在で、他学部にもファンがいるくらいだったけど、彼女自身はその事に全く気付いていなかった。
周りが牽制しすぎと言うべきか、彼女が謙遜しすぎと言うべきか。
もっともそれは、僕と彼女が付き合うようになってから知った事だ。
僕が彼女を知って最初にしたのは、ありったけのコネで情報収集して、経営と法学の合コンを企画する事だった。
こういう集まりに来たがらない彼女をムリヤリ引っ張りこむように、友達の友達に頼み込んで手はずを整えた。ほとんど他人のその子のお願いを聞いてくれたのか、彼女が姿を表した時には男連中の目の色が明らかに変わっていた。
反面女の子達の何人かはムッとしていたけど、飲み始めてしまえばもちろん場は盛り上がる。彼女は僕を含めた大方の予想に反してグイグイ焼酎を飲んでいたけど、ちっとも酔った様子がなく、密かに男供をヤキモキさせていた。
僕はと言えばそんなヤツらを睨みつけるくせ、遠くから見てるだけだった。
大声で騒げば注目されるだろうと、やたらハイテンションになったりもした。
騒ぎすぎて疲れかけた頃にやっと思惑通り彼女の視線を捕まえて、だけど長く見つめ返す事はできなかった。
驚いた。
僕は、こんなに彼女が好きだったんだ。
呑んだせいばかりでなく、脈が早くなって頭に血が昇るのが分かった。
彼女が見ていると思ったからだ。
別の場所で飲もうという頃にはライバル達はあらかた諦めて他の女の子達に流れていた。僕は二次会には参加してない彼女を追いかけて、駅まで走ったのを覚えてる。
「帰ったよ」
と告げられた時の喪失感と、彼女を捕まえるまでの焦燥感も。
改札の人波で突然腕を取られた彼女は、ひどく驚いた顔をして振り向いた。描かなくてもきりっとした眉が不快そうに寄せられて。
「痛いんだけど」
そう言われて初めて、彼女の長い髪ごと腕を握りこんでいた事に気付く。
「わぁ、ごめん」
イキナリ悪印象を持たれて、僕は気が動転していた。彼女の横に並んでもおかしくないよう色々シミュレーションを重ねていたのだ、一応。それが、呑んで騒いで走って、酔いと共に全身に散らばっていってしまった。段取りも何もあったもんじゃない。
慌ててその場で適当に自己紹介をして、それから、それから。
「好きなんだ。付き合って欲しい」
彼女が好きで、好きで、好き過ぎて、彼女を思いやる余裕がなかった。まったく僕は彼女の事が好きだった。
メチャクチャだ。
彼女も不審そうに見上げてくる。こんな所で、こんな風に、言うつもりじゃなかったのに。
もっと静かな場所で、落ち着いた告白で。通り過ぎる人に「邪魔なんだよ」とか吐き捨てられる状況ではなく。
僕の印象は間違いなく最低だ。僕はここ数年で最高潮の自己嫌悪にどっぷり浸っていた。
だから「いいよ」と言われた時には、思わず「嘘?!」と叫んでしまい、付き合って5秒で別れる所だった。
「顔色が悪いぞ」
気遣う調子でもなく、彼が言う。
「日陰にいるからだろ」
じろりと睨みつけられた。長年一緒にいると、さすがにごまかされてくれないか。
「屋上で風に当たったから体温が下がったんだよ。それだけだってば」
まだ納得してないようだけど、それ以上の追求は免れた。止まりそうなほどゆっくりと階段を降りる僕の隣に並んでくる。
ああ、面倒だな。
普段何も言わないくせに、こんな時だけ兄貴面をされて説教を喰らうのも面倒だし、膝から下が別の生き物みたいに勝手に震えてるのを隠さなくちゃならないのも面倒だ。
「そんな顔をするなら、最初から言うな」
どんな顔だろう。
少なくとも僕は、自分と、自分の想いと、彼女を守れた事で充分満足してるつもりなんだけど。
「お前は最低だな」
最低最低って、連呼しないで欲しいなあ。
「自分を痛めつけても誰も楽にはならない」
「けど少なくとも、誰かを傷付ける事はないだろ」
「俺だったら」
珍しく口篭もる。
「俺だったら、どんなに醜くても、たとえ人殺しでも、傍にいられる方がいい」
本当に、珍しい。思わず失笑が漏れた。
「それって自己満足とどこが違うのさ」
「……悪かったな。所詮俺には、他人事だ」
「だね」
足早に遠のいていく背中が消えたのを見届けてから、僕は壁を背にズルズルと座り込んだ。
言わせたのは僕だから、せめて後悔はしない。
酸素を求めて口を開けると、あの日駅まで走って彼女を追いかけた時のように喘ぎが洩れる。堪えていた分、呼吸がいつもより荒い。
知っている。
彼は彼なりに、僕を心配している。言葉にされなくても分かってる。本当は。
彼女が好きだった。
嘘だ。
僕は彼女が好きなままだ。本当は。
彼女の凛とした勁さも、彼女の貴重な笑顔も、彼女の長い髪も、みんな好きだ。
震えが指先にまで伝播してきた。あと一分も隣にいたら気付かれてただろう。
少しでも暖めようと口元に伸ばした掌は、皺の一つ一つに入りこんだ錆びの粉がまるで固まった血だ。爪の内側は夕空を閉じ込めたような色。握りこんで、眼を閉じた。
僕は彼女のように頭が良くないし、彼のように物を言う勇気もないので、こうやって自分の気持ちを切り倒す方法しか選べない。
誰かや何かを恨むのはしんどいから、自分の手で殺す。
臆病だと、多分彼女は怒るだろう。凛とした眉をしかめて。
その勁さにこそ僕は引かれたんだけど、いつだったかふとした瞬間に見た彼女の笑顔が、彼女の髪以上に僕の目を奪った。
その笑顔はとても貴重で、いつからか僕の寡占状態になった。彼女の笑顔が好きだから、本当に大好きだから、僕はいつも彼女を楽しませる事ばかり考えてきた。
彼女から笑顔を奪う物は、たとえそれが僕自身であっても許せない。
知っている。
これは僕の我が侭だと。
供に在りたいと願う事が罪だ、とは思わない。ただひたすら受け入れるのが優しさではないと知っているだけで。大切にする事と、その人の為に最善を尽くす事とは違う。
それでも側にいてくれと、口に出す勁さが僕にはない。
泣きたい、と思った。
実際には涙は出てこなかったけれど。見開いた目は乾いて、もう何かがにじむ事もないだろう。
哀しいのとは違う。誰に縋りついても慰められても、この苦しみは消えない。そんな確信めいた予感がある。
時々、分からなくなる。こうしてギリギリで踏みとどまる事が、何の意味を持つのか。無駄に苦しんでいるだけではないかと。
眼を閉じれば背を向けた彼女の白い襟足を思い出す。
振り払うようにひるがえる長い髪を見た時に感じた、途方もない安堵はけれど確かな物だった。
少しずつ開いてゆく距離に、伸ばしても手が届かない事に、僕は本当に、安心した。それは色褪せたり錆びたりしない、鋼鉄よりも確かな心だ。
完
2004.2.5
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