菜の花
いらっしゃい。
おや、坊やじゃないか。
小学校はもう終わったのかい?
そうか、今は春休みかい。それでひまつぶしに、いつもの写真屋に遊びに来たってわけだね。
前みたいに、重いカメラを床に落っことしたり、写真立てをひっくり返したりしないでおくれよ。
ホラホラ、言った側から。……どうしたんだい?
ははあ、古い物を見つけてきたねえ。
頭に、くもの巣がついてるよ。
もう10歳になるんだから、探検ごっこもほどほどにおし。
これを見るのは何十年ぶりだろうね。どこにあったんだい?
ハハ、自分の店の中の事を知らないのはおかしいかい。
私もこの店と付き合いが長いからねえ。お互い、知らない所もあるだろうさ。
大丈夫、売り物のカメラがどこにあるかは、ちゃんと覚えているよ。
どれどれ、貸してごらん。
これはねえ、幻灯機と言うんだ。
横の所に、細長い四角い穴があるだろう?
ここに、絵を描いたガラス板を差し込んで、裏からランプで照らすんだよ。
近くに種板もなかったかい?
そうさな、緑の棚の上に、あるかもしれないよ。
そうそう、それだ。
私が子供の頃は、このガラスの板に──種板って言うんだけどね──自分で絵を描いて、障子やふすまに映して遊んだものだ。
兄さんたちと弟と、兄弟四人のおこづかいをかき集めて、ようやく買えた時は嬉しかったねえ。
今は、スライドとかプロジェクターって言うのかね。
学校の授業で使ったりしないかい? 白いスクリーンに映して。
テレビや映画なんて、なかった時代だからね。
近所の子供達で集まって、世界の名所や漫画なんかを見るのが、楽しみでしょうがなかったよ。
そうやって集まった幻燈会の最後には、幕に黄色い菜の花が一本映って終りを知らせた。
おかげで菜の花を見ると、ワクワクしてたのが急にしぼんでしまう気分を思い出して、哀しくなったりしていたなあ……
なんだい?
ああ。
……それは。ああ。こんな所にあったのかい…
…いいや、この種板はガラス写真だよ。
フィルムの代わりに、幻灯機用のガラス板を使って写真を撮ったんだ。
カラー写真なんてないから、水彩絵の具でうすくうすく、色を塗り重ねてねえ…
綺麗な菜の花畑だろう?
でも本物は、もっと綺麗だった。
私はそれを残したくて、写真屋になったんだよ。
聞きたそうな顔をしているね。
いつもみたいに面白い話じゃないよ。
…はいはい。坊やのお話好きは相変わらずだねえ。
私が坊やより少し年上の、12、3才の頃の話だよ。
風がねえ、とても強い日だった。
腕に抱えたスケッチブックが、バタバタあおられていたのを覚えてるよ。
私は幻灯機を買ってもらったばっかりで、毎日毎日、何を描こうかってワクワクしていたんだ。
あの頃おもちゃ屋で、一円ぐらいしたかね。
いやいや、言い間違いじゃないよ。一円だ。
今の値段では一万円くらいかねえ。
お金の価値にそれくらいの差ができるほど、昔の事なんだよ。
兄弟四人でやっと買った幻灯機には、12枚のガラス板が付いていた。
これに絵を描いて幻燈を映すんだ。
このガラス板がまた、高くってねえ。
紙芝居みたいな話を幻燈にしようって事になったんだけれど、簡単に手に入る値段じゃなかったから、どんな話を描くか、うんと頭を悩ませたものだよ。
最初は兄弟みんなで、あんな話がいい、こんな話がいい、って話し合ってたんだけどね。
四人もいると好みもバラバラで、ちっともまとまらずに、しまいには大ゲンカになってしまったんだ。
結局、一番上の兄さんの鶴の一声で、それぞれが話を作ってきて、その中から多数決で決めようって事になった。
私は子供の頃、兄さんの命令には逆らえなくってね。
その分、絶対に良い話を作って、みんなを負かしてやろうって思ったものだよ。
は、は、そうかい、坊やのお兄さんも怖いのかい。今も昔も、お兄さんと言うのはいばりん坊だねえ。
私は絵を描くのが得意だったから、綺麗な景色が出てくる話を描けば、兄さん達を納得させられると思った。
それで、外にスケッチブックを持って出かけたんだ。
今みたいに、綺麗なショーウィンドウや大きな噴水はなかったけれど、町を歩くのはそれだけで楽しい事だった。
昔の家は一つ一つの形がだいぶん違ったし、道端で自然に生えている草花も色々種類があって美しかった。
車なんか通らないから──道の真ん中を歩きながら、景色を見てるのがとても面白くてね。
少しずつ家の色が変わり、草花の種類も変わってきて、私はようやく自分がかなり遠くまできてしまったのに気付いた。
昔は目印になるような高いビルもないから、自分がどこをどうやって歩いて来たのか、サッパリ分からなくなってしまったんだ。
全然知らない道を歩いた事があるかい?
普通だったら怖くて、坊やがこの店に初めて来た時みたいに体が固くなってしまうだろうね。
だけど、その時の私は心配と同時に、何かに期待もしていた。
よく分からないけど、なんだかとても素敵な物を見つけられる予感がしたんだ。
だから立ち止まったり誰かに道を聞いたりせず、どんどん歩いて行った。
幻灯の事なんか、頭の中から飛んでいってしまったねえ。
やがて私は細い路地に入りこんだ。
複雑に折れ曲がった道は薄暗くて、両側から高い木の壁が迫ってくるようで、青い空がとても小さく見えたのを覚えているよ。
私は何かに急かされるように走りだした。
手に持ったままのスケッチブックが風を受けて、とても走りにくかった。
路地をメチャクチャに曲がって曲がって、その時。
突然に、視界がハレーションを起こした。
目に入る物全部が、真っ白い光になってしまったんだ。
ちょうど、カメラのフラッシュをまともに見た時みたいに。
私はビックリして、その場に立ちどまったったまま動けなくなった。
まぶしくてたまらなくて、ぎゅうと眼をつむってねえ。
やがてまぶたの裏でたくさんの光がチカチカしてきて、私はそっと眼を開いた。
……火が。
火がついてるのか、と思ったよ。
風にちぎり取られた花びらが、宙を舞って火の粉のようだったんだ。
菜の花は満開だった。
萌葱色、って分かるかい?
薄い黄緑色のくきの上で、純粋な、本当の黄色の花が風に揺れて揺れて。
風にうねる菜の花畑、それ自体がまるで生き物みたいでね。
その光景が、信じられないほど遠くまで続いてるんだ……。
私は初め、どこの世界に迷い込んでしまったんだろうと思ったよ。
とても、この世の風景とは思えなかったからね。
振り返れば薄暗い路地があると分かっていたけれども、目の前の黄色い炎から、一瞬でも目を離す事が出来なくなっていた。
ただの菜の花だったけれど、そこにあるのは菜の花じゃなくて、もっとすごい、神様の庭の花みたいだった。
菜の花は太陽の光を集めて、燃え立つように輝いているんだ。
私はまぶしくて、うれしくて、かなしくて、涙が出てきた。
私は今までにこんな立派な花を見た事はなかった。
奇跡のように私はここに導かれた。
その何かに、ありがたいとさえ思ったよ。
けれど花はやがて枯れていく。
その事が無性に恨めしかった。
今この瞬間にさえ、少しずつ終りが近づいているんだ。
私はその場所を、その時間を、切り取って永遠に残したかった。
いつか消えてしまうものだと分かっているからこそ、失いたくなかった。
足に震えがきてしまうほど、強く願った。
そう。だから私は写真屋になったんだよ。
痛むほどの思いに、背中を押されて。
坊やにはちょっと難しかったかな。
とにかく私はその日一日でいっぺんに、大人になったら写真屋になって少しでもたくさんの物を残す、って決めていたよ。
今はこの店からめったに出ないけど、若い頃は珍しい花や一瞬も同じ形をしていない雲なんかを、たくさん撮ったもんだ。
ああ、幻燈会の事かい?
私はその日から写真の事ばかり考えてぼうっとしてしまってね。
けっきょく、二番目の兄が作った「桃太郎」に決まったよ。 桃太郎が実は女の子で……っていう話だった。
女の子の話なんか嫌だって弟は嫌がったけど、あらすじを聞いてみたら面白くってね。二番目の兄は今では物書きをしているけれど、やっぱり子供の頃から物語を作るのが上手かったねえ。
それから?
私は菜の花が枯れていくのを見るのが怖くて、その場所には二度と行かなかった。
うん。おかしいだろう?
いやいや、そんな事はないよ。
とてもとても、あの場所が好きだった。
だけど同じくらい怖かったんだ。
町の中に、あんなに広い菜の花畑があるわけがない。
もしかしたらあれは、私が勝手に思い描いた夢だったのかもしれない。
そう思ってしまったんだ。
とてもとても大切だったから、失うのが怖くてたまらなくなったんだ。
なんて言ったらいいのかねえ……
失いたくないって言う強い願いも、失って初めて得る痛みも、坊やはこれから知るんだろうねえ。
は、は、そんな顔をしなさんな。
実はボヤボヤしている内に、あの菜の花畑に行く道を忘れてしまってね。
適当に歩いていたヨソの町だから、そうなるともう二度と行けなくなってしまったんだ。
もちろん、次の年の春、その次の年の春と、菜の花畑を探してみたんだけどね……
変わって行く物でも、永遠に失くしてしまうよりはマシだったかもしれないな。今となっては意味のない考えだけれども。
その種板は、大人になってから、あの時の菜の花畑に似た場所を探して撮った物だよ。
どうしてもあの時の感動を形に残したくてねえ。せめて少しでも似た物を、と思ってね。
私は昔、失う時の痛みに耐えられなくて、ちゃんと手に残る確かな物が欲しくて堪らなかった。
形のある物はいつでも確かめられるからね。
けどね、年をとってからは、形ある物は失う事も簡単だと気付いたんだ。
たとえば写真なら、破ってしまえばいい。
もしも種板ならば、割ってしまえばいい。
だけど形のない物は、どうやったって壊す事が出来ない。
胸の中に浮かび上がったまま、色褪せる事も枯れる事もないんだ。
言ってみれば、この想い出は、私の心の種板に焼きついた幻灯のような物かねえ。
坊や。
坊やがこの先、大切な人や、失って痛みを感じる程の物に出会ったら、ね。
忘れないでほしいんだ。
ただ、忘れないでいてほしいんだ。
側にいられなくてもいい。
写真に撮らなくてもいい。
心の中で、強く、強く、思って。
幻灯のように、胸の中へ焼き付けておくんだよ。
そうしたらきっと──私の菜の花のように輝いて、坊やの心を照らしてくれるよ。
いつも。いつまでも。
完2003.3.21
■戻る■