毀れた弓
「ねえ母様、あの子、壊れた弓持ってるよ」
「大人しく座っていなさい、ヴィータ」
母は淑女らしく、幌から身を乗り出した私を嗜めた。
任官した父と共に移り住んだ砂漠の三年間も、母の淑女たる矜持を崩す事はできなかった。彼女は常に貴婦人らしくあり続け、幼い私にも相応の振る舞いを求めた。
「だって、もう飽きたんだもの。いつになったらテウノスに着くの?」
二頭立ての馬車はのんびりと轍を刻み、前にも後ろにも見えるのは平坦な草原ばかり。
10になったばかりの幼い身では、荷台後部に作られた座席でじっとしているのは拷問に近い。
「首都まではまだ何日もかかるわ。辛抱なさい」
「ねえ、それじゃ、馬車を降りて歩いてもいい?」
「およしなさい。遊牧民と並んで歩くなんてとんでもない」
途端に母の語気と目付きが鋭くなる。
「でも、あの遊牧民は私達を守ってくれてるのでしょう?」
「獣を狩って生活する、卑しい民よ。貴方が肩を接して歩くべき相手ではありません」
母だって私だって獣を食べて暮らしているのに、なぜそれが彼らを遠ざける事に繋がるのか、当時は全く分からなかった。
ただもやもやとした、言葉に出来ないもどかしさだけが心に残った。
弓を手にしていたのは、キャラバンの中で私に一番年齢の近い少年だった。
私より二つ以上は年上だったと思うが、人種の違いもあったし、本当はもっと離れていたかもしれない。
少年は黒くてまっすぐな髪とあざやかな民族衣装を身に纏った、他の遊牧民となんら変わる所はない護衛に見えた。
だが、その漆黒の瞳は一目で私を魅了した。
磨いた黒曜石のようにぴかぴかと光る目が、幼い私には物珍しくてたまらなかった。それは彼等トゥラ族にとっては普通の特質だったのだが。
何の事はない、遊牧民を遠ざける母に反発を覚えながら、私自身も彼らを対等な人間として扱ってはいなかったのだ。
もっともその事に気付いたのは何年も後だった。
稀有な宝石にも似たその目が見たくて、私は休憩の度に少年に接触を試みた。
「ねえあなた、なんていう名前?」
「どうして壊れた弓を持ってるの?」
「どこから来たの?」
周りの大人達が皆、にこやかに、それでもやっかいそうに私をいなすのとは違って、少年はハッキリと拒絶の意を示していた。
彼は黙々と馬の世話をしたり、水汲みをするばかりで、私の質問に答えようとしなかったのだ。
しかし私は逆に、私自身にちゃんと相対してくれる人間を見つけた気になった。雇用主の娘にそんな態度を取るのは彼の他に一人としてなく、新鮮だったせいもある。
いっそう、うるさく彼を追いまわした。
けれど予想に反して、大人達はそんな私に特に何も言わなかった。
今思えば、何かと質問攻めにする子供のお守りを、少年は押し付けられていたのだろう。
キャラバンで夜眠る時は、獣や魔獣など外敵に備え、五つの馬車で円陣を組んでキャンプを張る。
もちろん真ん中に、キャラバンの長である父と、その家族である母と私が寝る馬車が陣取る。
草原でキャンプをする初めての晩、護衛の遊牧民が地面に横たわって寝るのを知った時、私は心底びっくりした。
一体誰が彼らにそんな非道な振る舞いを強いるのか、義憤に駆られさえした。
涙ながらに、彼らも馬車に寝かせようと父に提案すると、微妙な苦笑が返って来た。
「いいかい、ヴィータ。彼らにとっては草原がベッドで、草原で寝る事は辛い事じゃないんだ。それにホラ、下に分厚い敷物を引くし、ちっとも寒くはないんだよ」
綺麗に整えられた庭園でさえ、人や馬が歩く場所に寝そべるなど思いもよらなかった私には、大変なカルチャー・ショックだった。
憐憫と傲慢は紙一重だ。
その夜も、遊牧民達は馬車の周囲で毛織物に包まって眠り、あるいは見張りとなり、そうしていつもと同じように夜がふけるのだと思っていた。
「アーキス族だ!」
長い歴史を誇る温和なトゥラ族に対して、戦いと蛮勇を宗とする荒っぽい遊牧民がアーキス族だ。
彼らはこの冬の乏しい実りの代わりに、キャラバンを襲って糧を得ようとしたのだ。
それからは大人の叫び声が次々と私の遥か頭上を飛び交い、気付いたら私は馬車の外に出て積荷の山の側に座り込んでいた。
私は取り乱して泣き叫んだりはしなかったが、それは恐怖を堪えていたからではなく、目まぐるしい状況の変化についていけなかったからだ。
次に気付いたのは、せわしない呼吸音と、自分の側にいる誰かの気配だった。
得体の知れないそれに反射的に飛びのこうとして、強い力で首根っこを掴まれ地面に引き倒された。
「矢が当たる」
闇に慣れた目で、ようやくそれが例の少年だと言う事が分かり、私はこわばった全身を弛緩させた。
もしや言葉が通じないのではとさえ思い始めていた相手が喋った事は、興味の移ろいやすい子供をとりあえずは落ち着かせた。
頭を低くさせたまま円陣の内側に母を探したが、暗く混乱したそこには何も見出せなかった。
傍らの気配が不意に動くのを感じた。
懸命に目を凝らす私の前に、月明かりをはじく壊れた弓が輪郭を現した。
幼かった私は、その弓が壊れているのだと思っていた。
その弓には弦が無かったからだ。
なぜ弦のない弓を持ち歩いているのか、少年に興味を持ったのはそもそもこれが原因だった。
彼は近くにあった木箱に弓の上端を押し当て、中程よりやや下を握って力を込め、くるりと反りを反転させた。
どこからか取り出した黒い弦をあっと言う間に上端と下端にはめるとそこには、もはや壊れた弓ではない、毅い草原の弓が出現していた。
まるで、何百年も前から取り決められた儀式を行うように、その動作はよどみがなかった。
見とれていると、少年がふわりと腰を浮かせた。
「危ないよ!」
咄嗟に袖を取った私は、この期に及んで彼が護衛だと言う事をすっかり失念していた。
「大丈夫」
そっけなく振り払われるかと思われた腕は、意外にもそっと元に戻された。
息を詰めるほど間近へ顔が寄せられる。闇が凝った瞳に月影が映り込んだ。
「我等は夜の加護を賜っている」
その言葉の意味も理解せぬうちに、彼は動き出していた。
陣の内側を移動しながら、彼は最適な射場を探し出し、時には恐れ気もなく立ち、時には地面に腹這いになりながら敵に向かって射続けた。
打ち込まれた火矢は即座に布で叩いて消し、射線を遡って射手を射る。
類稀なその腕前は素人目にも明らかで、子供ながらに彼が護衛の任に付いている意味が知れた。
粘り強い護衛の甲斐あってアーキス族は何も取らずに去っていった。
護衛のトゥラ族の中にも負傷者は出たものの死者はなく、皆、互いの身と積荷の安全を喜び合った。
近づいたと思った少年との距離も翌日にはまた元通りだったが、寂しくはなかった。
あの夜に何かしら得る物があったからかもしれないし、彼の持つ弓が壊れてなどいない事を知ったからかもしれない。
草原を抜けるまでの一ヶ月の旅の後、護衛の任期は切れた。
それ以後彼等には会っていないが、今でもどこかのキャラバンを守り、草原のベッドで寝ているだろうか。
あれから私は首都テウノスで学問の道に進んだ。女の身で勉学など無作法な、と母はあまりいい顔をしない。
彼等草原の民についても、色々な事を学んだ。
弓を持ち歩く時にはその質を保つ為に弦を外しておく事。
遊牧民は草原を出るのを法で許されていない事。
トゥラ族が弓に秀でている事、その名が彼らの言葉で『月』を意味する事。
草原では自由で、放たれた矢のように見えた彼等も、法に縛られた存在だったのだ。
法の中心たる街に棲み、草原から離れた明るい夜を過ごしても、月を見ると思い出す。
夜を閉じ込めたような瞳と、三日月のような毀れた弓を。
完 |