捨てはむと思ふさへこそ哀しけれ
君に慣れにし我が身と思へば





はるものがたり




 それは、皐月の四日の出来事。



 おりんの目覚めは長屋の中でも一番早い。
 狭い一間の家の事なので、隣で寝ている弟の晴兵衛を起こさぬよう、細心の注意を払う。
 手早く身支度を済ませたら、水道井戸で七輪を使い朝飯の準備だ。
 棒手振りの豆腐屋から豆腐と油揚げを買い、ささやかでも見栄えがするよう、少しでも精が付くよう、工夫を凝らして煮炊きをする。
 両親が早くになくなった分、りんの弟に対する想いにはひとかたならぬものがあった。
 年が六つ離れている事も手伝って、どうかすると子煩悩な母親のようでもある。
 弟の晴兵衛が健やかに逞しく成長する事がおりんの目下の夢だ。
 とりあえず今のところは、滋養のある物を食べさせて、手習い所に行かせる事がおりんの役目である。
 豆腐と蕪の味噌汁と、菜の花のおひたし、切干大根に、熱いどんぶり飯といった、おりんの心づくしが膳に並べられた。
「晴兵衛、そろそろ起きたがいいよ、手習い所へ机を並べに行くんだろう」


 晴兵衛が手習い所へ行くのを見送ると、おりんは奉公先の井筒屋へ向かう。
 井筒屋は日本橋通町にある老舗の呉服問屋で、家人の気持ちの良い人柄と古株ゆえに、人々の信用も厚い。
 おりんの両親が流行り病でそろって亡くなり、弟の世話の為に住み込みでなく通いで働きたいと申し出た時も、快く了承してくれた。
 ここでのおりんの仕事は番頭の茂七や女中頭のお静の下で、独楽鼠のように働き回る事である。
 先代である隠居の太一の世話をしたり、勝手口の用向きを預かったりと忙しい。
 それでも泣き言一つ言わず、気働きのあるおりんはお店の人々にもお客にも好かれていた。
 その日の午後、番頭に頼まれたおつかいの帰り、おりんはついと袖を捕られた。
 振り返るとそこには見知りの顔がある。
「あれ、響さん。なんだってこんなとこにいるんです?」
 おりんを引き止めた東雲響之介は姉弟のはす向かいに住む、まだ若い浪人者だ。晴兵衛が通っている手習い所の師範でもあり、おりんも大分気安い。
 日が傾き始めたばかりのこの時刻は、算盤や読み書きなどまだ手習いがあるはずで、だからこその問いだった。
「手習い所は、今日は知り合いに頼んできたんだ」
「へえ、そうですか」
 いつもなら晴兵衛の事なり話したい事もあったが、今はおつかいの帰りである。早く帰らないと、うるさ方である番頭の茂七に叱られてしまう。
「なにかこの辺りにご用ですか?」
「いや、別に・・・」
 言いよどんで視線を落した響之介が、ふいに顔色を変えておりんの腕を掴みあげた。
「どうした、これは? 手当てをしていないようだが」
 見ると左手の薬指、中程に赤い線がうっすら引かれている。
 おりんが先程から感じていたむず痒さの元は、どうやらこれのようだった。
「あら、ちっとも気付きませんでした。お昼に鰹を捌いたんで、その時にでも切ったんでしょう」
 魚を捌いている最中は、指を切っても臓腑の血に紛れて気付きにくいものだ。
 もっとも今まで気付かなかったくらいだから、大した傷ではない。おりんは早く手を離して欲しかった。
「こんなの、舐めときゃなおりますよ」
「そうか」
 言うが早いか、響之介はおりんの薬指に舌を這わせる。
「何すんですか!!」
 おりんは思わず怒鳴りつけ、力いっぱいで響之介の手を振り払っていた。
「えっ、しかし、」
「馬鹿にして! 子ども扱いしないで下さいよ!」
「これは、すまない」
 本気で恐縮した様子で、響之介は生真面目に謝ってきた。
 おりんはかえって「うん」とも「すん」とも応えられず、真っ赤になったのが怒った素振りに見えるよう、足音高くその場を走り去った。
 が、思い立ち、辻の手前でぴたりと立ち止まる。
 振り返ると、響之介はまだおりんを見ていた。
「今日の晩御飯は、鰹なんです」
 ふてた調子で、おりんは言った。
「お内儀さんから大きな柵を頂戴して、私と晴兵衛じゃ食べきれそうにないし、取って置いても悪くなるばっかりだから・・・・・・」
 遠まわしな言葉を理解するにつれて、響之介の、不思議な目付きが緩やかに和んだ。
「夕餉に鰹を頂けるのか? ・・・・・・楽しみだな」
 おりんは決まり悪くうつむいたまま、唇を尖らせた。
「晴兵衛がいつも、お世話んなってますから」
 くすりと響之介が笑った気配がした。
 聞きとがめたおりんは、再び顔に朱を登らせると、くるりと踵を返し今度こそ本当にその場を走り去った。


 その日の夕暮れ、おりんが晩飯の買い物をして帰る途中だった。
「仇討ちだよ! 仇討ちがあったよ!」
 事件を知らせる高らかな声が人々の耳を打った。
 通りを駆け抜けていた読み売りの真吉が、おりんに目を留めて立ち止まった。
「おりんちゃん、てえへんだ! おめえさん、響さんが仇持ちだって知ってたかい?!」
 述べかけた挨拶がおりんの喉に引っ込んだ。
「響さんのお父上は幕府の用人書き方だったんだとさ。それが、悪どい上役の不始末の責をおっかぶせられて、切腹させられたのよ。お家は断絶、お母上も自害して後を追い、響さんは天涯孤独になっちまったんだ。けれども、お父上に着せられた汚名を雪ぐ為、家名を潰された恨みを晴らす為、貧乏長屋で機会をじいっと窺って、本日八つ時、ついに本懐を遂げたんだ! 今時なかなかねえ、泣かせる話だぜい」
 真吉はぐしりと鼻をすすった。
 八つ時と言えば、おりんが昼間会ったすぐ後である。
「たった一人で御家来衆の中に切り込んでいったらしいぜ。見物人の話じゃあ、白装束にきりりとしめた白鉢巻が目にも鮮やか、見事なやっとうとあいまって、まるで舞いを見てるようだったってねえ・・・・・・」
 もはやおりんの耳に真吉の声は届いていなかった。
 この時代、お上は私怨による仇討ちを固く禁じている。そして幕府の許し無き仇討ちは大罪である。私闘に応じた相手方はもちろん、響之介も厳しい処罰は免れない。
 双方まだ生き長らえていれば、の話である。
 おりんの抱えたどんぶりの中、水に浸かった豆腐がただ一度、揺れた。



 それが、皐月の四日の出来事。
 昨日と同じ今日、今日と同じ明日を、爪の先ほども疑っていなかった日の事だ。
 おりんは最後に見た響之介の顔を思い出そうとする。
 あの不思議な目付き。
 どこか張り詰め、熱の灯った眼差しを。




 おりんは涙を流す代わり、薬指に唇を寄せた。






完

2002.5.11

句意:
 貴方と過ごした日々を思うと、捨てるつもりの命も愛しくなる。



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