晴の日も
  雨の日も
  風の日も
  雪の日も

  晴の日も
  雨の日も
  風の日も
  雪の日も

  からっぽになった心に
  降り続く思いがある

  哀しみも苦しみもいつか
  溶けて流れるだろうか
  凍てついた愛しみよ、


  ────どうか




六花のシズク




 今は昔、人里離れた山中に、猟師の巳之吉と娘のセツが住んでいた。
 峠のてっぺんに建てられた小さなほったて小屋、それが親子の住まいであった。
 巳之吉はまだ若いが狩りの上手で、自分と娘を食わせるのに十分な目方の毛皮を取る事ができる。無口で人を寄せ付けない厳しい顔をしていたが、娘の事は何を置いても大切にしていた。
 数えで九ツになるセツも、不便な山暮らしに不平も言わぬ、父親思いの娘である。母も友達もおらず寂しくないわけはないだろうに、家の事をせっせと手伝った。
 おとなう者とてない静かな小屋で、二人は肩を寄せ合うようにしてつつましく暮らしていた。
 遊び相手のいないセツにとって、猟から帰ってきた巳之吉の話す昔語りは何よりの慰めだ。
 珍しい獣や美しい母の話は、昼間一人で過ごす寂しさを紛らわす事ができた。
 母の思い出を語る巳之吉の暖かい眼差しが、セツは大好きだった。
 日々の話のおしまいに、巳之吉は必ずこう言ったものだ。
「いいか、セツ。おっかあの事は、誰にも言っちゃあならねえぞ。おめえの持つ力の事は、誰にも見せちゃあならねえぞ」
 色々の事を隠したがった巳之吉だが、何より、セツが人目に触れるのを嫌がった。
 里人との関わりも一切断ち、里に用がある時は幼い娘を一人小屋に置き、自分だけが山を下りた。
 小屋の前の細い山道を、ごくたまに旅人が通る束の間でさえもセツを隠した程だ。
 巳之吉の秘匿は概ね上手くいった。
 セツが数えで十になる、その年の冬が来るまでは。


 その日、里へ降りてゆく巳之吉を見送り、セツはいつも通り一人で鞠付きをしていた。
 すると間もなく、つづらを背負った男がふうふうと息を切らしながら山道を駆け上ってきた。
「おうい、おうい。危ねえぞ。熊がここに登ってくるぞ」
 セツはぱちくりと瞬きをした。
 この辺りの熊は獰猛な事で知られているが、冬ごもりの最中の熊は、それでなくても気が荒い。
 前年か更に前の年かに人の味を覚えた熊は、特に始末が悪い。
 少ない取り置きの餌で食いつなぎ、それでも飢えては里まで下りて人を襲ったりもする。
「おめえのおっとうはどこにいる? 鉄砲でズドンと仕留めてくれい」
   男はセツを山奥に暮らす猟師の一家と見、喘ぎながらそう言った。
 よたよたと小屋の戸口まで走ってきた男は、しかし中に誰もおらぬ事に気付いて顔をこわばらせた。
 主人が留守である事は間違いなく、この小さな小屋に隠れて熊をやり過ごさなければならないと見て取ったからである。
 一抱えもある熊の腕が振り下ろされれば、ふっ飛んでしまいそうに覚束ない小屋だ。
 それでもここ以外に隠れられる所はなく、男は狭い土間に足を踏み入れた。
「何をしている。早くしねえと喰われちまうぞ」
 表に出たままのセツを必死の態で呼ばわる。
 熊の好物は女の内臓だ。やわらかく、滋養もある。セツのような子供は特に、熊のご馳走だろう。
 だがセツは、小屋に背を向けた。
 ちょうど、うねる峠の細道を、黒くて大きな熊がのしのしと姿を現した。
 太い首を巡らせると、こちらへまっすぐに走ってくる。
 セツの背後で情けない悲鳴が上がり、ぴしゃりと戸板が閉められた。
 そのまま小屋の中からくぐもった念仏が聞こえてくる。
 熊は鈍重な見かけに似合わぬ素早さで、あっという間にセツの目前に迫った。
 セツは、ひょぅ、と息を吸い込んだ。
 こおおおおお
 小さな紅い唇の先から、白い白い冷気が吹き出した。
 みぞれ交じりにきらめくそれは、たちまち辺りの木々を凍らせ、大きな熊の鼻面を打った。
 面妖な力の振る舞いに、熊はひとたまりもなく山の奥へと逃げ帰ってゆく。
 セツの周りは不思議に風が渦を巻き、着物の端や振り分け髪をなびかせた。
 一帯を霜に変え、セツは小屋を振り返った。
「もう、大丈夫」
 木戸の節穴から目を覗かせる男に向かい、セツは、微笑んだ。
 途端、男は鉄砲の弾のように小屋を飛び出した。
 そのまま里への山道をまろぶようにして、後も見ずに駆け下りてゆく。
 彼は叫んだ。
「化け物」


 ほどなく、黒い着物を着た男達が峠の山道を登ってきた。
 遠目にも、腰に大小を差す侍である事が分かる。
 セツには何が起こったか知りようもなかったが、先程助けた男が先頭を歩き、この小屋を目指しているようだ。
 ただならぬ雰囲気に、セツは小屋の影から怯えて見ているしかなかった。
 小さな手にはツバキの花が握られている。
 それは巳之吉から教えてもらったおまじないだった。
「いいか、セツ。涙がこぼれそうになったら、この花をごらん。おっかあの好きだった花だ。おっかあだと思って、話しかけてみろ。決して人前で泣いたりしちゃあならねえぞ」
 そう言って、巳之吉は暖かい手でセツの頭を撫でてくれたのだ。
 花だけが頼りと言うように両手で頂き、セツは心の中でひたすら、おっかあを呼ばわった。
 白い花弁が、震えていた。




 この土地に赴任してきた代官は、山と雪とに閉ざされる、さびれた里にうんざりしていた。
 彼の頭にあったのは里人の安全などではなく、華やかな都へ舞い戻る方法だ。
 それにはみやげが必要だった。
 真っ青になった薬売りが「化け物が出た」と代官所に駆け込んできた時、代官は膝を打って喜んだ。
 これを手柄に、都へ帰れる。
 件の妖かしが子供のなりをしている事など、構う男ではなかった。セツが捕らえられると、さっそく代官の命により、広場に里人が集められた。
「これより化け物の征伐を行う」
 縄をかけられた小さな娘が、衆人の前にさらされた。
「これなるは薬売りの二平を襲った雪妖である」
 自分の手柄を見せつける為に、代官は震える子供をことさらひどく扱った。
「あんな子供が」
「かわいそうに」
「放してあげればいいのに」
 里人達が弱々しく反駁する。
 代官は得たり、と唇を歪めると、
「化け物の証を見せてやれ」
 と家来に命じた。
 侍がセツの顔に、松明の炎をぐいと近づけた。
「熱いよう。熱いよう」
 赤赤と照らされ、侍達と里人達とに囲繞されたセツの涙が、ぽろぽろと地面に落ちてゆく。
 幼い子供が泣く様に、けれど誰も救いの手を差し伸べようとはしない。
 それは涙ではありえなかった。
 如何なる怪異の仕業か、セツの瞳を覆った水は、頬へ零れる時にはきらきらしい玉石となっていた。
 あからさまな異相に、息を潜め成り行きを見守っていた里人の間からどよめきが起こる。
 代官が得意満面で嘲笑った。
「面妖な。天の神に成り代わり、この私が成敗してくれるわ」
 抜き身の刀がまっすぐに空に伸び、白白とセツの顔を照らした。
「やめてくれえ」
 人の群れの中から、まろび出る影があった。
「そいつは、そいつは俺の子です。セツと言います。化け物なんかじゃあ、ありゃあしません」
 背に負うた荷をかなぐり捨て、代官の足に縋りつき、慈悲を請う男は巳之吉であった。
「ええい、邪魔な奴め。ひっ捉えよ」
 たちまちたくさんの侍が出てきて、巳之吉の手と言わず足と言わず押さえ込んだ。
「これは何かの間違いで」
 苦しい息の下から、巳之吉は必死に言い募る。
 父親が踏みつけにされているのを見て、セツはますます激しく泣きだした。
 流れたシズクはたちまち凝り固まり、ぱらぱらと地べたを転がった。
 人々の畏れはますます高まった。
 しまいには、速く殺せ、その化け物を退治してくれと罵声がいくつも上がる。
 厳しい環境では概して、自分の身を守る為に猜疑心と連帯感が強くなる。
 自分と異なる物は得体の知れない、恐ろしい物だ。
 ただそれだけで彼らにとっては外敵となりうる、許容できない物である。
 ましてや、人の身では在り得ぬ仕業を目の当たりにしたのである。
 長年降り積もった自衛手段が、里人の心を押しつぶそうとしていた。
 誰も彼もが何事か喚き散らし、怯えうろたえ、我を忘れてただ一人の娘を糾弾する中、巳之吉はどうする事も出来ずにぎゅうと眼をつぶった。
 哀しみと苦しみと、愛しみとが冷えて固まった目を。
「……いやだ」
 初めそれは低く、誰の耳にも届かなかった。
「もう、失いたくねえ」
 彼はがっくりとうなだれていたから、目を留める者はいなかった。
「二度と、置いていかれたくねえ」
 わずかに強まった調子に、幾人かが振り向いた。
「あれは、俺の子だ。俺の最後の身内なんだ。たった一つ、残された物だ」
 あらん限りの大声で、巳之吉は叫んだ。
「あの子が化け物だと言うなら、化け物の子を愛した俺も化け物だ。化け物の女房を愛した俺も化け物だ。いっそあの子といっぺんに、俺の事も殺してくれ」
 巳之吉は顔を上げ、連れ合いをなくしてから殆ど初めて、哀しそうに呟いた。
「愛しているんだ」
 つぶやきとシズクとが、ぽとりと地に落ち、砂に吸い込まれていった。

  びょうびょうびょうびょうびょう

 だしぬけに、空からすさまじい突風が降りて来た。
 その勢いはひどく強く、広場へ居合わせた者達は目を開けていられなかった。
 皆一様に、つむったまぶたや頬にびちびちと冷たい飛礫が当たるのを感じた。
 みぞれ交じりの寒風が、辺りに渦を巻いているのだった。
 風がうなり、木立がうねる。
 里中の板戸と言う板戸がばたばたと鳴り、里人の着物の裾や袖がはたはたと鳴った。
 視界を白く染め、耳を切る冷気の中、あえかな声が女の名を呼んだ。
「ユキ。ユキ。お前なのだろう」

  びょうびょう

 冷たい風が応えるばかり。
「ずっとずっと探していたんだ」

  びょうびょうびょう

 やはり吹きすさぶ風の音。
「晴の日も、雨の日も、風の日も、雪の日も、ずっとずっと一緒に居よう。供に生きよう」

  びょうびょうびょうびょうびょうびょうびょうびょうびょうびょう

「俺も、どうか俺も、連れていってくれ」
 白い雪よりなお白い、女の腕が虚空から伸び、引き倒された巳之吉の体を抱きしめた。
 ふいに強く強く風が吹き、紅いツバキが空に巻き上げられてゆく。
 その日から、親子の姿を見た者はいない。









  晴の日も
  雨の日も
  風の日も
  雪の日も

  晴の日も
  雨の日も
  風の日も
  雪の日も

  からになったこの心に
  忘れえぬ想いがあった

  哀しみよ苦しみよ
  両のかいなの只中で
  ほとびる愛しみよ、

  根雪が沈む目に宿るシズクとなれ──









完



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