駅ビルの谷間から、灰色にぬめる地平線が見えた。
 微かにきらめき、船影が横切るのを見るとあれは海だろう。
 彼は歩き始めた。
 海へ。




冬の蝶





「ねえ君。ここって、どこかな?」
 物思いを中断させられ、明臣は夢から覚めた人のようにひどくぼんやりと男を見上げた。
 真冬の海に、白いシャツと黒いズボンだけと言う凍死志願者のような格好。
 明臣は思わず自分のダッフル・コートの衿をかきよせた。
 海岸沿いの道路から、明臣が座り込んでいる突堤までは大分離れている。
 ここがどこかも知らずに、こんな所まで歩いてきたのだろうか。
 いぶかしんでいると心を読んだように、
「君以外の人見かけなかったから」
 と男は付け足した。
 確かに、分厚いコートを着ていても長居したい場所ではなかった。
 海風を遮るもののない堤防には、明臣以外の人影は無い。
「どこへ行かれるんですか?」
「……えーと。……考えてなかったな……ちょっと待って、今考えるから」
 許可も取らずに明臣の隣に胡座をかく。
 明臣はあっけにとられて男の顔をまじまじと見た。
「自分が本当はどこへ行きたいのかなんて、自分にさえ分からないものだよ。じゃない?」
 男がちょっと首をかしげた。
 ハッとした。
 訳の分からない屁理屈ともとれる言葉を、明臣は不思議に聞き入れていた。
「これ君の?」
 節の高く張った手が、明臣のヴァイオリン・ケースを示した。
「父の物なんです」
 形見だった。
 それでも母にとっては、未だこのヴァイオリンは父の物であり続けているし、明臣にとってもそうだ。
 明臣の父はまさに彗星のように音楽界に現れ、その才能を一瞬だけ閃かせ、あっという間に消えていった。
 若くして事故死した天才ヴァイオリニストは、その音以上に悲劇の最期でもって人々の心を魅了した。
 母も自分も周囲の人間も、十年前に死んだ人間に心を奪われたままだ。
「でも君も弾くんだろう?」
「いいえ」
 思いがけず強い口調になってしまい、明臣は慌てて言い直した。
「もう止めるんです、ヴァイオリン」 
「どうして?」
 見も知らぬ男に答える義務などないのに、なぜか明臣は深く考え込んだ。
 理由を一言で表すのは難しかった。
 いくつもの事柄が頭に思い浮かんだ。
 そのどれもである気もするし、どれもが違う気もする。
「先生が。いつも褒めるんです。何をやっても褒めてくれるんです。すごく高い声で、早口で。でもあの、先生が悪いって事じゃないんです。僕、先生が何を言ってるのかいつも分からなくて。聞き取れなくて、笑ってるしかなくて。笑うしかない自分が嫌なんです」
 聞かれたから懸命に話したのに、男は海を見つめたままだった。
 その様子がそんな話どうでもいいと思っているように見えて、むしろ言葉が次々に溢れてきた。
「本当に聞き取れないんです。それで、僕はいつも、褒められているのが自分じゃないような気がしてくるんです。先生が嬉しそうなのに、褒められて嬉しいって思えないのは嫌なんです」
 先生が本当は父の幻に惑わされて、父のいない子を哀れんで、褒めてくれているのだとしても明臣は応えたかった。
 素直に喜べない自分が疎ましかった。
 言葉が分からないのは気持ちが通い合っていないからだ。
 子供故の潔癖さで、明臣にはそう思えた。
 母が自分に父の姿を求めるように、先生も自分の音など必要としていないのだろうか。
 そう思ってしまう事にも疲労感を覚えた。
 一息に思いの丈を吐き出してしまってから、明臣はふと自分がひどく生意気な事を口走ったような気になった。
 男の不興を買っただろうか。
 明臣にとって周囲の人間の期待に沿う事は、染み付いた強迫観念だ。
 不安のあまり、却って隣の大人の表情を見る事ができなくなった。
「カワイっ!!」
 突然、奇声をあげた男がスゴイ力で明臣の体を締め付けてきた。
 明臣は頭が白くなり、次いで目の前が白くなった。
「く……るし……」
「ごめんごめん。……あぁもぅカワイイなあ!」
 ぐりぐりと今度は多少優しく抱きしめられる。
 無理矢理頬擦りしてくる顔を必死に押しのけながら、明臣にもようやくこの男の怪しさに警戒心が芽生えてきた。
 恐ろしいとまでは思わないが、変態の疑いがある為、少しでも離れようと後ずさりする。
「もう何もしないよ」
 手を上げて誓う仕草をしながら、男は失笑している。
 妙な奴と思いながらも、立ち去る事までは考えつかないほど心を許している事に、明臣はまだ気付いていなかった。
「先生はさ。君の素質を伸ばしたいと思って褒めてるんだよ。君自身の音がどうでもいいから、適当に褒めてるわけじゃない。そんなに思いつめる事は無いんだ」
 わきわきと指を動かしたかと思うと、男は勝手にヴァイオリンをケースから取り出した。
 母は、父のヴァイオリンが他人の手にある事を喜ばない。
 慌てて伸ばした制止の手は、けれど微妙に開いた距離が災いして空をかすめただけだった。
「先生の言葉が聞き取れないのは当たり前だよ。アレはフランス語だ。意味は確か……『君は天才だ! 皆が一年かける曲を、一ヶ月で弾きこなしている!』とかナントカ」
 男は明臣の手を避けて身軽く立ち上がり、ヴァイオリンを左肩と顎で挟んだ。
 ヴァイオリンを弾けたのか、と明臣が目を丸くする内に男の左手が指板を滑り、右手の弓が弦に触れた。
 音が、飛び立った。
 首の後ろがチリチリとした。
 素早く、大胆な運弓にまず目を奪われる。
 伸びやかなボーイングに相応しい清冽なモーツァルトが冬の空を舞う。
 高音も低音も等しく美しく響く。それでいて、精緻な陰影を感じさせた。
 自在につけられた緩急が微妙なニュアンスを生み、音に深みと広がりを与えているのだ。
 明臣は次に耳を、そして心を奪われた。
 並みのヴァイオリニストではなかった。
 それ以上に。
『似ている……!』
 ゾッとした。
 顔など覚えていない。
 声すら知らない。
 けれど、音だけは知っていた。
 何度も繰り返し繰り返し、聞いていた。
 これは、父の響きだ。
 ──父のヴァイオリンが、【歌わされ】ている!──
「そんなに目を光らせているくせに。ヴァイオリンを捨てられると思うなんて、甘いよ」
 男は何の未練もなく演奏を断ち切った。くるりとネックを返して、拍子抜けするほどあっさりとヴァイオリンを差し出してくる。
 燃え上がった怒りを一瞬で消火され、明臣は呆然とした。軽い敗北感と共に父の形見を受け取った。
 分かってしまった。
 一瞬の内に、思ってしまったのだ。
『それは【僕の】物だ!!』
 と。
 自分の中にそんな気持ちがあるとは知らなかった。
 周囲に押し流されるようにして、ヴァイオリンを弾いているのだと思っていた。
 自分に父の面影を見出し、母が喜ぶ顔を見たかったのだ。そもそもはそれがきっかけだった。
 己の思惟に因らずヴァイオリンを続ける事に、後ろめたさを感じた。
 小さな練習曲も芸術の域まで引き上げる父を、明臣は神聖視していた。
 だからこそ音楽に対して不誠実な自分が嫌だった。苛烈な程真摯に音楽を愛していたが故に、その曖昧さを自分に許す事ができなかった。
 しかし、本当にやりたい事も、これだったのだ。
 明臣は、自分がヴァイオリンを愛している事を知った。
 父が、ヴァイオリンを愛していたように。
「覚えておくといい。君はいつか、お父さんにも負けないくらい上手くなる。君自身の音を聞きに来るお客さんに、たくさんの拍手をもらえる」
 微笑んだ男の輪郭が、ふいに大気へ溶け込んだ。半透明な体の向こう側に明滅する光の群れが見える。
 奇妙に現実感を欠いた現象を目の当たりにして、明臣は口を開けたまま、微動だにできなかった。
 混乱の余り、ただひたすら見守る明臣の目の前で、男は、消えた。
 消えた。
 明臣は我に返って辺りを見回した。
 冬の海。
 冷たい風が吹きつけるこの海岸に好き好んでやってくる人間はいない。
 浜辺にランニング中のジョガーがいたが、服の色も判別出来ない程遠い。
 明臣の周りには誰もいなかった。
 目の前の空間を改めて見つめるが、再び男が現れる気配もない。
『……幽霊?』
 思った瞬間にギクリとした。
 父に似た響きを出す男。父が死んだのは、ちょうど男と同じくらいの年齢ではなかったか。
 たった今まで見ていた男の顔は、どこか父に似ていたかっただろうか。
 現実か。
 夢か。
 男がここにいた事を示す証拠は何もない。
 けれど明臣は分かっていた。
 心の中、確かに残る物がある。
 その手の中にも。









 それが、最後から二番目の別れだった。









「海が好きなの?」
 突然の質問に、けれど明臣は驚きはしなかった。
「冬の海は」
 いつもこうしていれば、彼に会える気がしていた。
「冬の海にもそれなりに、いい所があるからね」
 貴重な共感者を得、明臣は寒風でこわばった頬に笑みを刻んだ。
「また来たいと思う程度には?」
 男は応えなかった。けれどいつか会えると、知っていた気がする。
 この三年、ずっと海を見てきた。
 千もの昼と夜を隔てて、男は三年前と変わらぬ姿で明臣の前に現れた。
 やはり似ている。父に。
 その事が気味悪さよりも不思議な懐かしさで明臣の胸を暖めた。
 言いたい事は山程有り、けれど胸につかえて口をつく事はなかった。それは掴み取ろうとすれば指の間をすり抜けていく泡のようで、消えてしまうのが恐ろしくて、核心に触れられなかった。
 会話などなくても伝わる物を感じる。それだけで明臣は満たされた。
「今は何を悩んでたっけ?」
 ごく自然な口調で聞かれた。だから。
「褒められるんです。技術ばかりを」
 贅沢な、と言われるだろう悩みを、男には素直に打ち明けていた。
「いい事じゃないか?」
「音楽性がない、と言われてるような気がして」
「つまり、芸術的な深みに欠けるから、技巧ばかりを誉めそやすのだと?」
 明臣は頷いた。
「完璧な技巧だと褒められるほど、落ち込みもするんです。技術はある程度の訓練で、誰にでも習得できる。でも音楽性は……」
くつくつと笑い声に遮られ、明臣はムッと男を振り返った。
「なんですか」
「完璧な技巧、ねえ……」
「もちろん、僕は自分が完璧だなんて自惚れてるつもりはありません。でも、そればかりを言うのは、僕のヴァイオリンに音楽的な魅力を感じないからじゃないかと……」
「欲深になったねえ」
 堕落した、と言われた気がして、明臣は知らず顔を赤らめた。
「いい事だよ。目標ができたんだから」
「そうでしょうか」
「苦しくてもやめたくない、って思えるようになったんだろう? 進歩だよ」
「僕は、技術じゃなくて、僕ならではの音を認めて欲しいんです。でも、どうすればいいか分からなくて」
 それを聞くと男は、ふーんと唸り、「弾いてみてもいい?」とヴァイオリン・ケースを取り上げた。
 明臣に否やのあろうはずがない。またあの音が聞けると思うと、胸が高鳴る。
 指が動かなくなりそうな寒さの中、観客が自分一人である事を申し訳なく思うほどだ。
 覚えていたのと同じ、覚えていたより遥かに優雅な動作で、男がヴァイオリンを構える。
 揺るぎのない確かな音程が、飛び立つ蝶程の軽やかさで奏でられた。
 明臣は感嘆のため息を禁じえない。
 三年前にも男の演奏を聞き、その卓越した腕は分かっているつもりでいた。
 だが、男本来の力量はほんの少ししか表出していなかったのだと思い知らされる。
 弦が刷り切れそうなほど強く弓を押し付けたかと思うと、ヴァイオリンの持ち味を響かせる為に柔らかに触れさせる。
 核心の捉え方は斬新で快く、それだけで男の非凡な感性を覗わせた。
 音程を抑えたまま左手の空いた指で弦をはじくピチカートを、いとも簡単にやってみせる。右手は弓を弾きながら、の超絶技巧である。
 明臣は自分の技巧に少なからぬ矜持があった。例えば技巧的フラジョレットなら明臣にもできる。
 しかし、倍音をこんなにも美しく表現する余裕が、果たして自分にあるだろうか。明臣が己の技術に対して抱いていた微かな自惚れは、冷たい海風に吹き散らされていった。
 やはり叶わない、この人には──
 ヴァイオリンをより知ったからこそ、敗北感は三年前に比べ却って強くなった。
 ひとしきり楽しげに即興であらゆる技術を披露すると、男は目を熱っぽく輝かせながらヴァイオリンを引いた。
「分かった?」
「僕の技巧が遥かに及ばない事は」
「そんなの当たり前だよ。そうじゃなくて。今の『技巧尽くし』の弾き方、音楽性に欠けてた?」
 明臣はとんでもない、と首を大きく横に振った。
「技巧と音楽性ってさ。別々の物だって思いがちだよね。本当は、どちらかが欠けて完璧になる事なんてありえないのに」
 明臣はハッとした。それは確かにそうだった。
 ヴァイオリンは、ギターのようにいつも同じ所を抑えていれば同じ音が鳴るわけではない。どの音律で響かせるか、その日の天候、ヴァイオリンの状態、演奏する舞台、協奏する楽器の調律まで考慮し、その瞬間にもっとも美しく響く音を選び出さなければならないのだ。
 その音程の分け方には中間音律やピタゴラス音律など様々あるが、どれが一番曲にふさわしいかを決めるのは演奏家の感性、音楽性だ。
「高度な音楽性がなければ、完璧な技巧なんて成り立たないんだよ」
「じゃあ僕は」
「技術こそが未熟、て事だね。ヴァイオリンを『鳴らす』事なら誰にでも出来る。ヴァイオリンで『歌う』のがヴァイオリニストだよ」
 音楽性に気を取られるあまり、技巧の追求が疎かになっていたのは事実だった。
 どこかでもう充分だ、という慢心がなかったとは言えない。
 感性は修練でどうにかなる物ではないから、と甘えてさえいたのだ。
 とことん悩み抜いた事を、いつも新鮮な切り口で提示してみせる男に、改めて明臣は慕わしさを覚えた。
「お悩み解決、かな?」
 微笑んだ男の輪郭が薄れたような気がして、覚えず叫んでいた。
「行かないで下さい!」
 子供のような事を言ってしまった。子供の頃から考えていた事だったからだ。
 父がいたら。
 側に父がいてくれたら。
 母も自分も、どんなに救われたか知れない。
 男は少し困った顔をした。
「それは無理だ、って分かってるんだろう」
「なんでですか」
 我儘なのは重々承知で、慣れない子供らしさを振りかざす自分に明臣は眩暈がした。
「僕には帰るべき場所があるからだよ」
 俄かに頬に血が昇ってくるのが、明臣にも分かった。
「どこに?! 母さんと僕のいるここ以外、どこに帰る所があるんですか!!」
 男は体のどこかが痛むような顔をした。
「僕はここにいるべきじゃない」
 低い囁き。男が奏でるヴァイオリンと違って、それは明臣の心に少しも響かなかった。
 小さく凝った明臣の心はそんな音を受け入れなかった。
「僕も母さんも、あなたにここにいて欲しいと思ってました。ずっとずっと、そう思ってました。これから先もきっとずっと、そう思い続け」
 男の表情が厳しくなる。
 明臣は大人に、こんな風に強く何かを訴えた事はない。期待され、それに応えるのがこれまでの習いだった。
 膝から下が別の生き物のように震えていた。
 父かもしれないこの男に疎まれるのが怖い。
 けれど、失う事の方が遥かに恐ろしいのだ。
「じゃあ。じゃあ、またここに来てください。僕にヴァイオリンを教えてください」
「駄目だよ。……駄目だ。君は、これまで懸命に生きてきた。それは僕が誰よりも知っている。今は辛いだろうし、これからも辛い事があるだろう。でも君は必ず乗り越えられる。僕はそれを知っているんだ」
 必死に言い募る姿が薄れていくのは、涙のせいばかりではない。最後ならなおさら、もっとはっきり見ておきたいと思った。
 しかし泣き慣れていない明臣は、盛大に零れる物をどうやって止めたらいいかも分からなかった。
 男の、何か言いたげな口元が虚空に溶ける。
 すがった指先は、けれどはじける光を掴んだだけだった。
 元の通り、明臣は一人ぼっちになった。




 それ以後、冬の海で男を見かける事はなかった。
 本当に、最後だったらしかった。
 明臣はそれに気付きたくなくて、何度も海へ足を向けた。
 やがて波が寄せるように、じわじわと喪失感が全身を浸した。
 あの時。男が本当にいなくなってしまうと分かっていても、どうしたら良かったのか分からない。
 けれど、何をしてでも側にいて欲しかった。
 差し伸べられる腕と、応えてくれる腕をこんなにも欲していた事に気付いた。
 海風のせいだけでなく、明臣の目に涙が滲んだ。
 会えないのだと悟った。
 もう、二度と。
 強大な絶望が明臣を襲った。重く、暗く、誰にも頼れない孤独。
 けれどそれを、明臣は乗り越えようと思った。
 男は乗り越えられると言った。
 その言葉を証明する事が、畢竟、男の存在を証明する事でもある。
 忘れない、と思った。
 二度と戻らぬ冬の日を。
 あの海に舞い降りた奇跡を。









 明臣は夢を見た。
 幼い頃の夢を。
 海外単独公演も最終日を迎え、緊張がピークに達したせいかもしれなかった。安らぎを求める無意識の回帰願望。
 明臣の心の中にある物を気付かせてくれた男の夢。
 父より上手くなれる、たくさんの人に自身の音を聞いてもらえる、と励ましてくれた。どんな苦難も乗り越えられる、明臣にはその力がある、と信じてくれた。
 彼の言葉を励みに、明臣はあれから時に過剰とも言われる練習を続けた。気負いも迷いもなく音楽に取り組めるのが嬉しかったせいもある。おかげであの男の言った通り、技巧も音楽性も身につけた。
 たった今も、明臣自身の音を認められ、たくさんの拍手をもらった所だ。
 あれが本当に父だったと信じていた頃もある。
 今では正直分からない。男の顔も響きも二度聞いたきりで、その印象は遥か遠くなってしまった。
 それでも世界に音を認められた今日この日に、あの時の夢を見るのは何かの啓示だろうか。
 あの頃の自分を思い返すと、明臣は知らず口元に笑みを浮かべてしまう。
 ヴァイオリンしか知らなかった子供には、世界はひどくロジカルな迷路のような物だった。必死に手探りで歩き続けていたのだ。幼いながらに随分背伸びをしていたと、我が事ながら抱きしめたくなる程である。
 明臣は黒い上着を脱ぎ、タイを外した。楽屋は暖められていて、熱くなった心身を静める事はできそうにない。
 目がうるみ、視界がぼやけてきた。光が目の前をちらついている。
 疲労と緊張が目に来たか、と思う内に、奇妙に質感を失った室内が遠ざかり、ぐにゃりと視界が歪んでいく。
 身体感覚が急速に遠のいて、それを再び取り戻した時、明臣はアスファルトの道の真ん中に立っていた。
 コンサート会場があるウィーンでないのは一目瞭然で、日本語のビル看板が目に入った。
 路地裏らしく、辺りには誰もいない。
 突然の出来事に、けれど演奏直後の熱にうかされていた明臣は、夢見る人のようにぼうっとしたままだった。
 だが。
 視線を遠くに投じた時、突然目の前が開けていくのが分かった。
 駅ビルの谷間から、灰色にぬめる地平線が見える。
 微かにきらめき、船影が横切るあれは海だろう。
 彼は歩き始めた。
 海へ。
 この先の堤防に、自分がやるべき事に疲れ、やりたい事も分からない子供が、膝を抱えて座っているだろう。
 色々な事に迷い、けれども誰にもそれを話す事が出来ない子供。
 その子供に明臣は二度、出会うだろう。
 【彼】に、本人でさえ知らない心の奥底を、ほんの少し高くなった目線から指し示す事が出来るだろう。
 自分が言うべき言葉も、自分が本当にやりたい事も、今の明臣は知っている。
 知っていたのだ。









完

2002.12.25



■戻る■