守りの人生もいいけど、じゃあナゼ守るのかね?
野球では守ったら攻撃しなきゃいけないんだよねぇ
でも、攻撃はアクティブで守りはネガティブって意味じゃないんだよ!
攻撃を封じるために守るんだし! 投手が攻撃しなきゃ打者は塁にも出れないじゃん
ONがあるから、OFFがあるし OFFがあるからONがあるけど
全然ONになってないのにOFFばかり求めるヤツって生きてる実感とかあるんだろか?
疲れて眠るのが楽しいし、寝ないで起きてる辛さも楽しいのに...
金貯めて老後に備えるのは大切なことだけど、
すげ〜ヤツはそんなことを考えずにいつのまにか富を築くんだよなぁ
そこに気付けよ!
「”いつもガルシアは酔っ払い”の巻」 マルユウ学館刊 「ガルシアの野球ハードボイルド」より抜粋
クリスマスシーズンになって街のイルミネーションが華やかになってきた
ここ数年、日本でも光の飾りつけをする家庭が増え、ホームセンターのチラシもクリスマス飾りが多くを占める
これだけ日本のクリスマスデコレーションが一般的になってくると、ただ電球を飾るだけでは人々は満足しない
飾りは批評の対象になり、電球の輝きのみに頼ったデコレーションは失笑の対象になってしまうことさえある
飾りへの評価は、いわゆる「名所」のと「家庭」のでは若干の違いがあるようだ
名所のは飾りそのものに注意が行きやすいが
家庭のはその出来の責任の所在がハッキリしているため、センスを超えた「家」を含めた評価となってしまう
建物を考慮し、壁財の色や家の構造に基づくレイアウトを心がけるべきなのに
「電気代」と「電球代」を気にしながら、豪華にしようと少ない光で無理やり家全体を覆った
ビヤホールの提灯や精霊流しのような「和」な光がまだまだ多い...
夫婦生活も無い崩壊寸前の家庭のくせに、
どうだ〜ッ!と断末魔の家庭の偽幸福を無理やり誇示しているような感じのもあるし...
キリスト教に基づいて飾っているのではないのだから、いっそ日本独自のイルミネーション文化を作ってはどうか?
光の原点の「火」に戻り、「ロウソク」をテーマにして。
癒しの最大要素である揺らぎ、「f分の1揺らぎ」がロウソクの灯にはある。
松明(たいまつ)は狩猟や処刑のイメージでなんとも落ち着かないし
ランプでは山小屋を思い起こさせるし
「焚き火」では思わず囲んで歌いたくなってしまうからロウソクの灯の大きさがちょうど良い
ロウソクの灯が消えないように、「灯篭(とうろう)」を使おう
なぜ灯篭か?
提灯(ちょうちん)ではお盆やお祭り、ビヤガーデン、平次を彷彿させるし
暖かさよりも背筋がゾ〜っ系のイメージが強く、なにより火が直接見えなくなる
だから灯篭がちょうど良い
灯篭の形は「和」でも「洋」でも良いだろう
灯火をフューチャーすれば御影石も大理石に見えてくる。 人の感覚ってそんなもんだ。
だから、クリスマス中は灯篭の傍らに「サンタや雪だるま」を置いて
その後には「しめ縄」と「門松」を置けばいい
でも間違っても「走馬灯」じゃいけない
つい、なんとなく「嗚呼、俺の人生って...」とか思っちゃうから..
※「ロウソクは玩具じゃないよ...」
マルユウ学館刊、「ガルシアの野球人生、<軽微な苦痛は快感となる> 」より抜粋
練習試合中にそのアクシデントは起きた。
グリップエンドに"竹"と書かれたバットを見せながら、
打順の回ってきた鈴木仁人選手(仮名)は
「この’竹’、使っていいですか?」と私に尋ねた。
そのバットはまさしくチーム所有の"竹"と読めたため、
「もちろん! ご自由にどうぞ!」と私は答えた。
’竹’とは合竹バット(通称'ラミ')を示すが、
それは耐久性があって比較的安価な木製系の、主に練習用として用いられるバットである。
しかし、その構造から飛距離は望めない。
その’竹’を敢えて試合で使わんとする鈴木選手の姿勢は
他選手の財産ともいうべきバットを大切にしよう、という気持ちのあらわれであると感じ、
私は若干の感動すら覚えた。
そして鈴木選手の2打席目、’竹’を携えた彼は「ガキッ!」というバットの折れる音とともに凡退した。
折れたバットを回収しながらベンチに戻る私に、主将である「升水選手 (通称’マス’)」がナゼか叫んだ。
「おいおい、そのバット、俺のじゃないよな〜」
私はグリップエンドの’竹’の文字を確認しながら
「竹だからマスのじゃないよ...竹と書かれてるから ..竹..」
ん?!?!?!
何かが変だった。
わずかに胸騒ぎを覚えた後に私は、神の悪戯というべき事実に思わず天を仰いだ
あれだけ’竹’と思われた文字が「升」と読めてしまったのだ...
グリップエンドには背番号を書こう..笑える悲劇を招かないために...
「マルユウ書店刊 [ガルシアの野球・泣き笑い、『升酒は竹よりヒノキ』 より抜粋]」
「竹? 升?」 Photo by Nozomu
小学生の頃、父の友人の元・社会人野球選手の人とキャッチボールをしたことがある。
「元・社会人野球の選手」というヒビキのみでエラク感動と緊張し、
路上でするキャッチボールなのに自分の野球に対する才能の全てを見られているようで
投げる一球、受ける一球にすごく緊張した。
友達や父親とするキャッチボールでは味わったことのない、真剣勝負な時間だった。
そんな自分が今、その社会人野球の土俵にいる。
残された現役生活を社会人野球にかける選手、これから伸びる選手を
マネージャーとしてサポートできることに至福の喜びを感じる日々である。
{マルユウ書房刊 「ガルシアの野球人生・第3章」より抜粋。}
※注:上記コラムはフィクション性を多量に含むため、適度に酒を飲んでお読みください。
記念すべき第一号の「ひとりごと」を
管理人こと「ガルシア」が書いております。
では、今日のコラムなぞ...。
『先日、座間キャンプで米兵達とBBQをしていたところ
数人がたまたまグローブを持っていたのでキャッチボールをすることになり
私は車からグローブを取り出し、ファーストミットをつけた「ジム(仮名)」に向かって軽くボールを投げた。
するとジム(仮名)はキャッチするやいなや
「Oh! Baseball !」と叫んだ。
それは受けたボールが硬球だったことに対する単なる驚きではない、
喜びと懐かしさを含んだ少年のような声であった。
ジム(仮名)が発した「ベースボール」という言葉によって私は
米国人にとって、硬球とベースボールは同意語であるのだということを初めて知り、
動物の皮で作られたボールとグローブを用いて遊戯(PLAY)するという競技は
肉食という食文化があったからこそ生まれたものだということをあらためて感じた。
私がBBQで食べた肉の加工時に残った皮は、今ごろ海の向こうでボールやグローブに加工されて
イチローやマツイがボールパークで使っているかもしれない...』
※注: 心に余裕を持って上記コラムをお読みください。\(^-^)\