浜降祭の起源と歴史    2003年11月1日 


浜降祭の起源
 浜降祭の起源についてはいくつかの伝承が残っているが、私なりに若干の考察を試みた。明治32年の浜降祭日記に「赤痢蔓延の兆候あり」として浜降祭の中止を命じた県知事に反論するためでもあろうか、「神事ハ千有余年間継続致来由緒アル最重ノ神事」として、古代から千有余年以上続いているとしている。
 
 それは遠い昔のことである。大和族の住民は多くの困難に直面し、また支障の多い陸上移動を避けて海を利用したことは明らかであるが、その上陸地点はだいたい河口から、しだいに川に沿ってさかのぼっていったものである。その証拠として、全国の神社の主な分布を見ると、山岳信仰とかその他特殊の理由によるもの以外の古い神社は、大きな川に沿って存在していることがわかる。
 相模川に例をとってみると寒川神社(相模一之宮)の他に、西岸の前鳥神社(相模四之宮)がそうであり、小出川をさかのぼったところの宇都母知神社、更に相模川をさかのぼれば海老名の有鹿神社、座間の鈴鹿明神、大沢の石楯尾神社がある。これは大和族が安住したところに、その一族の祖先を祀ったもので、言い換えれば民族発展の跡をのこしたものと言えるのである。
  
 寒川氏一族も開拓地を求めて西方から来て相模川に舟を入れて上陸し、川沿いに北進しながら田畑を開拓し、この沖積平野の地味の肥えた土地に地の利を占め、首長の統率よろしきをえて、相模川の左岸地域一帯を統治し定住した。その裏づけとして目久尻川をさかのぼると宮原の氏神、更にさかのぼって用田の鎮守も(いずれも旧御所見村、現藤沢市)ともに寒川社を名のっている。つまり今日でいう分家あるいは分族の発展と考えられるであろう。現在の海老名市にある社家の名も寒川神社に関係する地名であるし、門沢橋が常に寒川神社の神事に関与していたことを思い合わせると、この寒川氏は相当に大きな安定勢力であったと思われる。一族の発展は神社の発展であり、またその首長の勢力のほどもしのばれるのである。
 
「古事記」や「国造本紀」という八世紀や十世紀につくられた資料によると、律令体制下の相模国が成立する以前のこの地域は、三つの政治圏が、歴史的に存在していたとされる。すなわち相武国と師長国の二つの国造国(こくぞうこく)と鎌倉別(わけ)の支配する領域である。師長国造は酒匂川の下流、相武国造は相模川の下流寒川に住みついたとされている。寒川には「寒川神社由緒の古墳」ともいわれる、三個のそば塚に守られた前方後円墳「大(応)神塚」と菅谷ケ原頭に並ぶ十三塚があるが、これらの古墳と寒川神社を一連において考えるとき、寒川氏一族の発展−のちには国造として君臨した首長一族の活躍がしのばれるのである。
 
 さてそれでは「大(応)神塚」に葬られた相武国造は誰だったのだろうか・・・・・?国造本紀(こくぞうほんぎ)によると初代は成務天皇の五年九月、茅武彦命(かやたけひこのみこと)が国造に任命されたという。これはいわゆる官製の国造の初めであるが、これまでの国造(首長)の子孫がそのまま任命されたものである。
 茅武彦命については、西方より来て、相模国の当時の海岸であった香川・西久保あたり(いずれも現在の茅ヶ崎市の中西部)に上陸し、まず北方近くの芹沢に滞在し、次いで宮原に移り、三転して寒川に赴いて移住したとの説もある。
 この裏づけとして、芹沢腰掛神社が浜降祭に参加する説明として宮司が「寒川神社の御祭神が寒川の地にお入りになられる際、この社に立ち寄られたとの由で寒川神社とは御縁の深い関係がある故、浜降祭が行われるようになった当時よりお供してきたものとおもわれます。」と語って(1986年)おり、興味深いものがある。

 
 もうひとつ大胆な発想をすれば、高句麗系の渡来人が数多く相模国内に居住していたことは「続日本紀」等から知ることが出来るが、大磯の高来(高麗)神社には高句麗からの渡来伝承があり若光が帰化して移住したとされる。一方、相模川流域を南北に走る高座郡(高倉郡)・・・いずれもタカクラと読む・・・の地名は、高句麗系の渡来人の入植によるものとする説がある。これらのことから推測すれば、遠い昔の7世紀頃、高句麗の王子若光が大磯の浜に上陸し高麗寺山一帯に移住したのと同じ頃、同じく渡来民と考えられる一族が相模川を挟んで東側の茅ヶ崎南湖の浜に上陸し、相模川沿いに北進しながら田畑を開拓し相模川の左岸地域一帯を統治し定住した。(これと似た伝承は千葉県にも残っており新聞のイベント情報<下記参照>がヒントになった。)
 
 いずれにしても寒川の地に安住した一族は、祭祀されていた寒川比古命、寒川比女命を崇敬して宮山の地には神社を建立し、先祖が海山越えて艱難辛苦、無事上陸した南湖の浜にはお旅所を設け、石碑を立てて祖霊を降ろし禊の神事が行われるようになったと考える。以来、祭神の神幸を祝い、五穀豊穣並びに漁民の航海安全と豊漁祈願して禊を行い、今日まで延々と続いて来たものと思われる。これらの祈願は今日の「浜降祭祝詞」の文面にも現れている。

浜降祭の祭場
 現在の禊場と浜降祭の関連性は、その地域的変遷と相俟ってはななだ微妙であるが、古老の話(昭和43年)として古く相模川河口の中島・柳島が禊場であったと伝わっている。両地は河口デルタに発達した地域で、寒川神社の社地に属し、相模川流域の変遷は史跡「旧相模川橋脚跡」の位置によっても判るが、相模川自体が古代寒川大神の聖域で、寒川とは神川(かむかわ,神川橋はこれからきたか?)の転とされている。
 これらのことから、河口デルタ付近が禊場であると共に、常時の贄場であったと考定される。孫七家が浜降祭にワラサを特殊神饌として寒川大神に献じるのはその遺風であろう。以上のことから、寒川神社の浜降り神事が古来、相模川の河口に近い浜辺で行われたことは疑う余地がない。その後、天保の神輿事件(国府祭の帰途に流された寒川神輿が南湖の浜で拾われた)を機として、河口の中島・柳島から、やや東向して孫七家ゆかりの南湖浜に移動したものと思われる。(旧相模川の橋脚はこちらから

江戸時代の浜降祭
 浜降祭のことが書かれた最も古い記録は安永九年(1780)のもので、旧暦6月15日に寒川神社の社人が浜にお供えをするとあります。この年に浜でどのような儀式が行われていたのか、寒川神社の神輿が浜まで出掛けていたのか、また近隣の村から神輿が出されていたのか、いずれもわからない。もう一つ江戸時代の浜降祭に関連する史料として、南湖の鈴木孫七が京都の白川家に提出した「寒川神社浜降祭御旅所願い書」等があり、寒川神社の「浜下り」の神事がこの頃も続けられていたことがわかる。
  
 もう一つの史料は文政6年(1823)頃の様子を示している「新編相模国風土記稿」の高座郡濱之郷村の項によると、佐塚明神社の神輿が茅ヶ崎村の浜へ入輿していたことがわかる。入輿とあるので神輿が海に入ったと思われる。このことと神様の禊場への神幸には輿が不可欠であること、国府祭に神輿が出御していた事実等を考え合わせると、寒川神社も当然、神輿を出していたものと思われる。又、明治初期に参加している神社から推定すれば、近郷の一之宮、岡田、門沢橋、獺郷、宮原、等は供奉していた可能性もあるのではなかろうか。(「新編相模国風土記稿」には寒川神社の詳細や国府祭での五社の神輿については記載されているが、残念ながら浜降祭のことはでてこない。国府祭については「當國諸所に散在せる五社{五社は當社第一にして二の宮は大住郡・・・以下略・・・五の宮は同郡八幡新宿八幡宮是なり}の神輿を淘綾郡國府六所宮社地神揃山に集会し神事あり」と記載されている。)

明治時代の浜降祭
 それではいつ頃から寒川神社の神輿に浜之郷以下の神輿が供奉する形式になったものであろうか、複数の神輿が記載された最初の資料は「寒川神社日記」の明治6年7月11日であるが、前後の史料から推測すると寒川神社が国幣中社に昇格した明治4年以降のことかと思われる。行列の折国旗の後ろに続く御旗(菊花の紋所の下に、国幣中社寒川神社と紫地に白く染抜きたる錦旗とある)、まさにこの菊の御紋(明治12年に認可)の旗こそが、寒川神社の権威を示すものであり、他の神社とは格の違うことを明示するものであった。浜降祭の行列はまさに官社たる寒川神社の神威発揚の場であったといえる。「寒川神社日記」からは国策による国家神道の推進とも相俟って官社としての立場を利用しながら信仰圏の拡大をはかっていく様子がうかがえ、寒川神社固有の祭りでもある大祭・浜降祭・大祓祭等は益々隆盛をきわめることになり、それに伴って浜降祭へ参加する神社の数も増加している。

 参加した神社であるが、明治7年には5社(宮山、浜之郷、門沢橋、獺郷、一之宮)であったが、明治14年には10社に増加している。明治後期には半減しているが大正期は13社、昭和戦前期15社、昭和戦争期は20社程度と一定していて浜降祭に参加する神社の数が確実に増加している。明治期には(何時まで続いたかは不明)参加する神輿は寒川神社まで迎えに行き還幸時には送って来て還幸祭にも参加している記録が残っている。別項で詳述するが「萬鉄五郎の見た1920年代の浜降祭」には「・・・それで、その約十ヵ所のおみこしが夜中のうちにお迎えに寒川さんへ全部集まる。」と記されており、子供の頃に聞いた年寄りの話などから考えても、この形式はかなり続いていたものと思われる。又、渡御時の列の順番、南湖浜での席順、寒川神社還幸時の着席順も明治時代から決まっている。その後の浜降祭の発展、盛衰については他の稿に譲るが、茅ヶ崎の発展と共に浜降祭も盛大になり今日に至っている。


朝日新聞 2003年8月15日 かながわマリオン 「夏祭り 見て踊って感じよう!」
◆裸祭り 9月13日(土)
 千葉県一宮町の海岸。1200年ほど前から続く玉前神社の例大祭。祭神の玉依姫と一族が九十九里浜の最南端・釣ケ崎に 上陸したという故事にちなむ。午後2時半ごろ、約千人の下帯姿の男衆が、みこしを担ぎ九十九里浜の浜辺を疾走する=写真。7時半ごろ、玉前神社で還御祭。玉前神社(0475・42・2711)
 こちらのHPには「上総一ノ宮
裸祭」りとして紹介されています。訪ねてみてください。 
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