5泊6日の浜降祭  2003.11.16

 寒川神社の御神輿は氏子の若者達により浜降祭式典の行われる日より四、五日前に社頭を発輿され、まず藤沢市宮原の寒川社にお着きになります。そして翌日宮原の若者達により腰掛神社に、また、その翌日に芹沢の人達により藤沢市の白旗神社にお着輿になり、浜降祭の斎行される当日は白旗神社の人達により南湖の浜にお着輿されます。浜降の式典が執行されたのち、寒川の人達によって還幸なされたと言い伝えられております。・・・・以上が監物恒夫の本の中に古老の口伝として紹介されている「腰掛神社と浜降祭」の一説である。この話は、浜降祭の神輿が現在の寒川町・茅ヶ崎市・藤沢市の広範な地域を廻って、その神威を強調したとする説である。

「寒川神社神輿幸御道筋絵図」はよく浜降祭の順路を示したものとして評価されてきた。この絵図は明治6年高座郡芹沢村戸長塩川善左衛門が描いたものとされており、寒川神社の神輿が8日〜13日の6日間東は境川、西は相模川を境とし、現在の寒川町・茅ヶ崎市・藤沢市の広い範囲の43ケ村をくまなく巡行した様子が描かれている。この絵図には寒川神社の神輿が休息した所と、宿泊した所を、日を追って書き入れてある。その道順と休息及び宿泊場所を整理すると次のようになる。→こちらから
  道筋絵図こちらから

 これまではこの絵図(史料)が唯一寒川神社の浜降祭の神輿巡行の実態を示すものであるとされていた。その理由はこの時巡行した村々に浜降祭に神輿を参加させている村が数多く含まれていたからである。しかし「寒川神社日誌」を読むと、実はそうでないことがあきらかになった。明治六酉年九月 署名となっているが、絵図の中には日にちしか書き入れてないので誤解されたのかもしれない。

 寒川神社は明治4年5月14日、神奈川県で唯一官社として国幣中社の社格をえた。なお神奈川県下では鶴岡八幡宮が二番目に国幣中社になったが、寒川神社よりずっと遅れて明治15年9月のことである。
 寒川神社日記から神輿巡行の目的は
、いわゆる明治政府が強調する「三条の教則」を実現し、寒川神社が国幣中社としての宣言を高らかに高座郡の村々へ行った行事であることがわかる。13日に神輿が帰着すると、さっそく神饌を献じ、神楽を執行している。なおこの年6月はじめて明治政府から任命された寒川神社宮司片岡忠教が、同年9月禰宜富田光美がそれぞれ着任した。寒川神社は官社としてはじめて、官選の宮司・禰宜が就任した年でもあった。

 その後この年9月19日、寒川神社において神事大祭典を挙行している。その折り第18大組1番組から10番組までの43か村、総戸数4913軒に対して、玉串を軒別に配っている。この時玉串を配った43か村が先般神輿巡行を行った村々である。その意味では官選の寒川神社宮司のお披露目と氏子圏拡大をはかるための興行であったともいえる。思わせぶりな表題にしましたが、この神輿巡行は明治6年9月に、この年だけ行われたもので、寒川神社の浜降祭とは直接関係がないことがわかりました。

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