浜降祭日記の注目記事        2004.01.15

 
 明治10年7月11日
(寒川神社日誌)
 藤沢、座間、他、広範囲にわたる計6箇所に標札を立てている。(日誌には標札の図が描いてある)
 来る13日正遷座式、同15日浜降祭執行に付、藤沢駅・四ツ谷(座間)・一之宮・用田村・厚木町・田村邸
 右六ケ所へ、左の雛形之標札を設候事
    
     標札は下記の通り(当然ですが縦書きです。)
本月十三日
正遷宮式
明治十年七月
同月十四日祭典
同十五日浜降神事 倭舞興行
寒川神社 社務所
     現在は神社としては浜降祭に関する標札は立ててないと思う。浜降祭ポスターはどの範囲まで貼ってあのるだろうか?

 明治21年〜26年(浜之郷が不参加になっていく様子)
 明治21年(意訳)
 浜之郷村の神輿は浜辺の祭場には列席するものの、寒川神社までは供奉してこない先例であったが、最近になって氏子総代が参向し奉幣を以って本社祭場へ参列したいと申し入れてきた。別項に先述したが明治19年には不意に社頭まで随行してきたり、浜之郷なりに気にしていたのだろうか?
 明治22年
 道中順、浜席順に浜之郷とあるので出輿しているようにも思えるが、7月9日には浜之郷神社は本年延引の由、13日には浜之郷神輿の儀、氏子の意見が合わないので本年は奉幣を以って神事執行の届け出あり・・、翌明治23年7月3日には浜之郷八幡社は昨年奉幣での参加だったので本年は出輿方勧誘のため能条弘が当該村へ出張の記事がみえている。この年は3日に岡田村日枝神社、6日に鶴ヶ嶺村字中島へも出輿を勧誘し、結果は出輿している。
 明治24年7月5日
 例会が行われた日の日記に・・・浜之郷八幡社が還幸の際、寒川神社まで供奉して来ないので、各村々から甚だ以って不公平だとの申し出がある。本年より改めて当該神社神輿も各村同様に当神社まで供奉するよう申し入れのこと。
 尚、不承諾の場合は供奉の順列を・・・・・後略。
 明治24年7月11日
 浜之郷八幡社は来る14日に独立して浜降祭を執行するので当社への供奉は難しい旨、書面で通知が来た。結局この年は中島共々不参加であるが、翌25年・26年は再び参加し、明治期としては最高の12神社が出輿している。明治27年以降は日清戦争が勃発した等の影響で参加神社が2〜3社となり、この年から当分の間、浜之郷は不参加となった。

 明治24年7月15日
(喧嘩か?)
 ・鳥居戸御休憩所混沓を防ぐ為め、当朝各社整列順を標示し、及び浜の祭場幕張等は依古例、南湖鈴木孫七へ申付準備為致候事
 ・本日浜辺へ渡輿の際、芹沢・大曲両社輿丁の間に紛議出来により、大行事及各村神事係取扱、双方談判の末無異和解せり
  
この件で「御祭事が済み午前8時御発輿、但し、5時発輿の予定が前述の事故によって遅れた」との記事がみえている。段々と参加する神輿が増えてくると揉め事が発生しているらしく、例えば鳥井戸での整列順を標示したりしている。

 明治25年7月1日
(甘沼 初参加)
 ・去月十六日 本郡松林村甘沼より左之両名出頭、該村々社八幡大神今般神輿新造致候に付、本年より浜降祭供奉相勤度旨願出、以下略・・・・・。  
左の両名は・・・氏子総代 沼上庄左衛門 瀧沢浅右衛門・・・と書いてある。

 明治27年7月15日(日清戦争及び旱魃の影響で供奉神輿は岡田のみ、但し茅ヶ崎他の神輿が出輿していた。)
 ・岡田八坂神社神輿、一之宮にて当社と御出会一列にて南湖の浜へ
  予定の時刻御着輿相成る
    浜降祭場神輿整列順
       
2基のみなのに例年の如く書いている。几帳面というか・・・・・?
        八坂神社 弐  岡田  横書きだとこうなるが、日記は縦書きなので、向かって右側が席順2番目の意味
    寒川神社 壱
 
 次の記事が興味深い
     但し、茅ヶ崎八坂神社其の他柳島と云ふ
、各神輿出輿相成、当社祭場より
     遥かに離れて渡幸有之候も当社に関係無之
 ・午前十時還幸供奉神輿当社整列
        八坂神社  二  岡田
      御本社  一
        御嶽神社  三  遠藤
     但し、遠藤御嶽神社は突然途中より還幸の際供奉したるものにて、跡より世話掛り等追来り
     祭場へ列並候次第に付、浜の祭場
は渡幸無之、当社迄御供奉に相成り候
      「本年は出輿見合わせの旨」届けていたが、茅ヶ崎、柳島、遠藤は氏子が担ぎたいと騒いだのだろうか、
      「後から世話係り達が追ってきた」なんて興味深いものがある。茅ヶ崎などは「本年に限り途中に於て
      御別れ致度」と寒川神社までの供奉は出来ないが出輿したいと申し入れたが、再協議を求められ結果は
      「供奉は出来ないので出輿せず」となっていたはずが、遥かに離れて柳島とともに渡幸しているのが認
      められている。「当社に関係これなく」が面白い。この年はぎりぎりまで協議していたが、結局出輿出
      来ない旨届けている村々が多く、又その様子がよくわかる日記だ。


 明治28年7月8日
(無届で出輿)
 ・郷村の内、猥に当社へ無届にて浜辺へ出輿の向有之、古式祭場を○し不都合に付、金子主典県庁、
  警察本署及郡役所、藤沢警察署へ出頭取締上に関する協議を致置候事
 ・江森本部長より○○○、△△△両村長祭場へ出頭取締上に関する件を忠告致置候旨宮司へ親展書到来
 ・藤沢警察署へ
祭場取締上に関し一層保護を受致旨宮司より申事
  同13日
 ・△△△村々長より本村長へ書状を以て 当日該村神輿は村口にて奉送迎を・・・旨依頼せし由にて脇村長並び
  新田社掌来社の処、従前之例に反するものは一切謝絶の旨相答置候事
    ・参加届け出をしないまま結果として出輿していたり、祭場の取締り依頼等、寒川神社として手を焼いている様子がわかる。
    ・不景気等の要因もあるのか寒川神社周辺の神輿は別として、明治24年頃から奉送迎に対する不満?が散見されるように
     なっている。上記の例は「村口にて送迎を」と申し入れているが、寒川神社は前例に反するとして断わっている。


 明治33年7月
   (浜降祭もなかなか規則通りに運営できなくなり苦労している様子が伺われるが、そのやり取りのなかに
    注目すべき記述がいくつかみとめられた。特に「馳走スルヲ例とす」は興味深い)

 ・昨四日藤沢警察署長来社、其要件は当浜降祭に部内数村の神輿中 事故ありて分離以来歳時取締上不都合・・・
  当本部長と協議之上調停を試度考案中、郡長旅行に付本官其労を執り、本日南部村名が併記してある
  両村長に面接、仮に左の条件を示したり
    藤沢警察署長から「・・・神輿供奉の例式は・・・」「先導神輿は・・・」その他の調停案を示し、寒川神社の意見を承りたい旨
    申し入れがあり、左のように答弁す。として次のように答弁している。

        
 (意訳)
  浜降祭は由緒ある古来の祭祀であるが明治7・8年頃、村社から供奉したいという請願があったのでこれを許容し、古式を遵守して一定の規約を設けて継続してきたところ、「事故ありて目下の状況に至っている」「当社に於いては譲歩の途なき」としていろいろと話し合っているが、その中に・・・・・

  南部各神社が分離した理由として、「是まで御社まで奉送の例式なるも、鳥井戸に奉迎し、帰途町屋まで奉送のこと」に変更して供奉したい旨請願があったが「種々弊害あるを覚知し其の請願を謝絶」したためとしている。加えて「往路は茅ヶ崎、帰途は浜之郷が先導するごとき申し入れは、勿論同意を表し難し」とし、その理由は・・・古来当社の神輿は往復とも馳走するを例とす、然るを殊更先導ありて故意に進行を遅緩せしむるときは、忽ち、衝突を来たし・・・・・(後略)としている。
  
  右に拠り、各府県有名の大社に現存する神輿渡幸神事の例を考えるに・・・中略・・・当浜降祭は即由緒ある祭祀に依り、古来一社限りの神事也、然るに嚢年村社の神輿に供奉を許したるは、事実当社の失錯に原因し・・中略・・当社旧来の儀式を破却し、自己の便宜を企画せんとす、特に昨年は流行病があり、当社においては由緒ある祭祀と言えども、きちっと申請して許可を得て執行しているのに、南部はこれに反して殊更神輿の数を増加させ、一層盛典を挙行し烏合の勢力を呈する行為等があるので、所詮は協同一致の祭儀を執行することは難しいと確信仕り候、よって郡長及び警察署長の尽力に対し遺憾ながら不調に終わったと理由を書いている。
 何時から複数の神輿が参加したか?がはっきりとしなかったが、以上の記述から明治7・8年ごろに村社からの請願によって供奉が始まったと判断できる。南部の各神輿が分離した理由は「浜之郷も昔から浜降祭を独自で実施していたことを
主張して」と参考資料にはあったが、寒川神社までの奉送が負担になりそれを不満として離反していった様子がうかがわれる。
 「往復とも馳走すとあるが、出輿から浜着輿までの所要時間がすごく短い年があるが、馳走ならば、うなずけるし、ある掲示板で「昔は走っていた」との論議もあったが、あの話題(昔が何時の時代を差していたか不明だが)も信憑性がありそうだ。

 南部の神社が勝手に振舞って言うことを聞かず困っている様子が書かれている。古より寒川神社一社のみの神事であったが、村社の神輿に供奉を許可した事はまずかったと悔やんでいる様子が伺える。規則や決め事が守られずとても一緒に祭典は出来ないとしている。
  
*いずれにしても明治30年代は、日清・日露の両戦役と旱魃・不景気等により浜降祭受難の時代であったようだ。

 明治34年・35年7月 
  この年は不景気のため渡幸中止、社頭において祭典執行と決まったが次のような物騒な記事が掲載されている。
 ・当朝村内の壮丁共(担ぎ手達)猥に輿庫を披き、神輿を持出す等、往々不体裁の行為あるを見聞致候に付・・・(以下意訳)「当社としても十分注意いたしますが、貴署の警護をよろしくお願いします。」と藤沢警察署巡査部長宛及びほぼ同じ文面で宮山駐在所宛に警備依頼を提出している。翌年も同じ文面で提出をしている。
      
やはり昔々の若い衆も浜降祭は特別だったんだろうか?「浜降祭で担ぎたい」との熱意が伝わってきますね。

 明治35年7月

   ぎりぎり祭礼前日まで結論がでなかったのであろうか?14日付で県知事宛に「神輿渡幸休止上申書」を提出している。しかし同じ日付で・・・・・
 ・(県知事宛)「その後に至り協議を一変し、俄かに氏子一同より再度申し入れがあったので、古例の通り神輿の渡幸式を執行したいので、先の上申書の取り消しをお願いいたします。」と届出を再提出している。
 ・藤沢警察署へは「昨年休祭の処、本年は古例の通り渡幸式を執行致し候也」、寒川村長宛ては「浜降祭の義、休止の筈候処、俄かに執行相成候間」、此段御届に及び候也と文書を提出している。

  神輿俄然執行の理由

   7月14日夜に入り突然、本部落の人民から「明暁神輿を担ぎ出し浜降祭を執行したいので御霊遷しをお願いしたい」と言ってきた。然るに社務所に於いては昨夕まで、「本年も支障があるので休止に決定し、県知事へも届け出済みなので、容易に出輿の準備は出来ない」と説得したが、人民は県に対して差し迫り強願に及んだので、駐在所、村役場、本部落役員、神事係へ通報し、俄然集会協議の末、払暁に至って執行することに決定した。

 結果として氏子の熱意が関係者を動かしたのか? 七月十五日 曇 浜降祭古式により執行 午前五時四拾分出発・・・(中略)還幸の際、一之宮まで 岡田八坂神(社)下寺尾八坂神(社) が迎えて寒川神社まで供奉・・・(後略)と日記に記述されており、俄かに決まったため出発が遅れたが、古式の通り浜降祭は行われている。
 現代、もし「浜降祭中止」なんてことがあったらどうなりますかね?どういう態度にでますか?氏子の皆さん!?

 明治36年7月7日
   
この頃もいろいろと物騒なことが心配されたようで、県の「内務部長へ稟請案」として、概略次のような記事がみえる。
 ・本月15日浜降祭に付き、古例の通り当日茅ヶ崎南湖海岸へ神輿が渡幸いたしますが、かねてより具状しておりますように、当神事を執行し退出までの間、祭場の近辺へ列外の各村々の神輿が進行して来ないようにいたしたいので、「右は数多神輿々丁各自勢力競争の結果、一朝衝突するときは御社各々関するを以って」例に依り厳重取締りの方向へご命令下さるよう、この件を貴官まで稟請するものであります。
 
    (この年も単基で供奉神輿なし、還幸時に前年同様岡田及び下寺尾が一之宮に出迎え供奉している。)

 明治37年7月14日
     この年は日露戦争等で「御幣のみにて神輿渡幸は一之宮まで」と決定しているが、若者達がが神輿を出御させようと
    している動きを、海野 晃(警官?)が察知して金子健治(禰宜)へ文書で警告している。(以下その意訳)

 ・拝呈、午前中は失礼いたしました、私はその後大蔵・小谷を巡回致しましたところ、昨夜宮山部落の若者が前記両部落の若者に対して、15日執行の浜降祭は本年は部落委員に於いて「御幣のみにて、神輿は一之宮まで御迎えに出すのみ」と決定しているが、若者達は「午前3時に神輿を出御させ御幣とともに南湖へ行く心得なので、赤木綿の手ぬぐい揃いで、3時までに寒川神社へ集まってくれ」と頼み込んだとの探聞仕り候。・・・(中略)・・・
 加えてご承知の通り、今宿より先は街路と出、又、今日出張した部長から先方各管区巡査に御幣のみと順達したのに、突然に神輿渡御をするような事態になると、本職も職責上実に困りますので、不本意ながら手続きに及ぶようなことになるかも知れないので、御推察の上御手配をお願い致したい。小生も明日午前2時には出張仕りたく候。

     「お揃いの赤い手ぬぐいで集まってくれ」とあるが、今も寒川さんは赤いタオルですね!この時代からの伝統なのでしょうか?

 明治39年7月15日
 ・午前正二時第二太鼓 社前逐次賑ふ
 ・午前正三時第三太鼓 神輿出御例に依りて喧騒を極む 
(翌年も同様の記述あり、昔も宮出は盛り上がったんでしょうね!)
 
この年は「二百十日前後の如し」大荒れの天気の中で行われている。その様子は次のようなものだった。
 「楼門を出づるや否や、大風雨と共に来りて・・・・・時を移すに従ひて益々甚し、此の中を宮司を始め衣冠、整然歩を大に進む、一之宮、田端辺殊に甚しく、馬上の面々顔の雨を手に握りて祓ふの有様なり、漸くにして予定の休憩所、鈴木孫七方に着、・・・・・休息凡そ四十分、騎馬南湖の海浜に進み、雨中整々古式の通り、祭典執行時に正六時二十分、了て(終えて)また休息所於いて凡そ四十分休息、
七時十分帰途につく、雨又暫時勢を加り、一之宮着予定の通り、休息凡そ二十分、同部落の神輿に向ふて祭式執行、大々的雨中の御祭式、各自益々勇気をまし、奉仕神職愈々整然神事執行、了て直に帰途に着り、八時過き全く帰社、大雨始めの如し」
  この年も7時10分帰途につき、途中一之宮で祭式を執行して8時過ぎに帰社。渡御時間が約1時間である。どういう担ぎ方をしていたのだろうか?
  上述の
馳走するを例とす」によれば走っていたということか・・・。現代の渡御コースで南湖浜と神社間は8kmありますよ!
  ちなみに私のウォーキング時の速度が6km/hでやや早足といったところです。(普通の歩き方で4km/h)


日記のおくり仮名はカタカナですが、読みにくいのでひらがなにしてあります。)
NEXT