中断されかけた浜降祭   2004.01.08

 
 明治30年代に入ると不景気や災害などの理由で浜降祭が中止されたり規模が縮小されたりしている。浜降祭に関する限りは明治30年代は冬の時代といえる。浜降祭が中断されそうになったのは、明治13〜44年の32か年で、7回におよぶ、それは明治27年(1894)、28年、32年、34年、35年、37年、38年である。それぞれの年の事情についてみてみよう。

 明治27年・28年(日清戦争)
 明治27年は6月に日清戦争がはじまった年である。しかしこの年寒川神社は浜降祭を実施すべく計画を立てていた。またこの年は旱魃が続き、氏子の多くは農民であったため経済的不安がつのった時期でもあった。近隣の村に対し浜降祭の相談をすべく7月5日午前9時寒川神社へ出頭するよう通知を出している。ところが25年と26年に参加していた9か村の村々から本年は不参加との連絡が続々と入った。 しかし、寒川神社は7月11日再度近隣の村々へ参加を呼びかけている。ところが結局この年参加したのは、寒川神社と岡田の八坂神社のみであった。なお遠藤の御嶽神社は、浜には参加せず寒川神社へ還幸するときに供奉している。この様な状況ながら浜降祭は行われたことになる。
 
  明治28年は4月に日清戦争が終結している。この年も寒川神社は浜降祭の開催を決め、7月5日午前9時社務所に参集するように呼びかけている。しかし参加の返事が届いたのは、遠藤・下大曲・甘沼の三社であった。日清戦争の影響と前年の不作のせいであろうか。寒川神社にとっては大いに不満であったであろうことは想像にかたくない。しかしこの年も小規模ながら行っている。

 明治32年(赤痢蔓延の兆候ありとして県知事が中止命令)
 命令に対して「本年はやむをえず休祭」にすることを決定し、氏子圏の村々へ連絡した。しかし一方で寒川神社宮司は「江戸時代の浜降祭」にも引用した「具申書」を提出して祭典の意義を強調し、さらに「たとえ多少流行病あるも、特許を得て、渡幸いたしたき衆望にこれあり」としている。また浜降祭を中止すれば「・・・略・・・、民情に反し悪感情を生じたるやの懸念あり」と、浜降祭に対する民衆の感情が抑えがたいことを強調しているが、結論としては「南湖への出御はしないまでも、静かに寒川神社で儀式を行いたい」としている。
 それでも、その後関係機関との折衝を続け、7月13日に再度、県庁へ浜降祭執行願いを提出し、条件付ながら許可を得ている。寒川神社は同14日に関係村々へ参加を求める連絡をしている。参加を要請した村は、遠藤・下寺尾・門沢橋・甘沼・一之宮・下大曲の六か村であるが、もっとも7月5日の会合に参加した村は、この他では田端・赤羽根・芹沢である。結果として遠藤と大曲が出輿し、一之宮が出迎えのみ行っている。

 明治34年(不景気のため中止)
 この年は寒川神社の方から中止を申し出ている。不景気を理由に、南湖浜での祭礼はやめ、寒川神社の社殿で祭礼を行うとしている。ただ、壮丁(担ぎ手)達は不満らしく、輿庫を壊して神輿を持ち出すような事件が生じているようだ。

 明治35年(当初中止と決めていたが、急遽執行。氏子の熱意により実施となったか?)
 前年と同様7月14日付で「神輿渡幸休止上申書」を県知事宛に提出している。また、同日付で藤沢警察署に対し、前年宮山駐在所に提出したものと同じ内容の(輿庫を壊し神輿を持ち出すような風聞があるので取締りを頼む)依頼書を提出したり、関係するところへ中止を連絡している。
 しかし同じ14日の日付で、俄かに再度、氏子一同から申し出があり、古例の通り浜降祭を執行したいので、休止上申書を取り消したい旨県知事に届けている。結果として払暁に至って執行することに決定したためか、出発時刻は5時40分と遅く、供奉神輿はないものの浜降祭は行われた。「右古式祭、異常ナク終リ・・・還幸ノ際・・・」岡田・八坂大神と下寺尾・八坂神社が一之宮まで御迎えし、寒川神社まで供奉したと日記には書いてある。

 参考資料(1989年)には次のように書いてある。
 前年同様中止と決め県庁に連絡し一日前の7月14日各村々へも連絡したが、7月15日の夜になってから突然、宮山村の者達が神輿を担ぎ出し浜降祭の執行を寒川神社にせまった。神社側もやむなく折れてにわかに浜降祭が挙行されることになった。急なことゆえ行列に参加したのは下寺尾村と岡田村の二社(誤解・出迎えのみ)であった。

 明治37年・38年(日露戦争)
 明治37年は2月に日露戦争が始まった年である。水害等のこともあり、浜降祭を盛大に行うことは控え、神輿渡御も一之宮までとしている。式次第によると御霊代(御辛櫃)にて神幸して、南湖の浜には大玉串を奉持して古例の祭典を執行し、一之宮にて御迎えの神輿へ御還座のうえ、同所にて暫時休憩して還幸するとしている。還幸祭に岡田八坂神輿とあるところから一之宮まで出迎え供奉したものと思われる。

 明治38年は8月まで日露戦争が続いていた年である。7月7日に相談したが結論が出ず、それぞれ村へ持ち帰って回答することにした。7月10日に2回目の会合が開かれ、例年通り行うことが決定された。その結果、遠藤・大曲・下寺尾・岡田・一之宮・他の八か村へ神輿を出すよう連絡した。しかし南湖の浜へ参加した様子は記録にない。でも一社のみ「岡田日枝神社神輿一之宮迄御迎の上当社へ随行」とあるので、この年も小規模ながら行われたことがわかる。

 以上のように、浜降祭はしばしば中断されそうな年があったが、そんな場合でも小規模ながら実施している。寒川神社にとっては年に一回氏子圏の人々が総出で参加する祭りであったため、何としてでも実行せねばならなかったといえる。一方行政側も民衆の熱望する年一回の祭りを中断することができなかったといえよう。
 明治以降では支邦事変で(昭和12年勃発)中止か? 太平洋戦争終戦の年(昭和20年)でも、時局柄参加が困難と中止を届け出る神輿が多いなか、寒川神社の神輿は、当時寒川に駐軍していた陸軍戦車隊の兵隊たちの奉仕により出輿している。社頭から鳥井戸までの往復を兵隊が、鳥井戸から南湖浜までの間を氏子青年が担いでおり、兵隊の奉仕がなければ担ぎ手がいなかったことがわかる。

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