上赤羽 八雲大神の神輿の歴史
               
2011.3.20(平成23年)寸雅爺

 さむ川 その昔を語る第九集に、「天神様ゆかりのお神輿について」という記事があり
一之宮の西町から上赤羽に譲渡された神輿の話なので、ここに紹介したいと思います。

管理人記
 この神輿の製作時期
  浜降祭書留によると、一之宮は一之宮神社(若宮八幡宮)として明治7年から浜降祭
に出御している。明治4年に浜降祭を斎行しているが、神社名の記録はない。
 明治7年以前の書留史料がないので推定であるが、一之宮は相模の国一之宮である
寒川神社の地元として、早い時期から供奉していたものと思われる。
 このようなことから、この神輿であるとすれば、
江戸時代に造られた神輿と考えてよい
と思われる。但し、明治29年の墨書もあり、下記の管理人(注)を参照。
 (若宮八幡宮);新編相模国風土記稿にみえる神社名

 譲渡された時期は、事情は?
 寄付金の記録簿から判断すると、譲渡されたのは明治34年と思われる。
 大曲の話のように、一之宮側の譲渡した背景や事情が書いてありませんので、詳しい
事情は分かりませんが・・・・・
 この当時は各地で山車も盛んで、一之宮には今でも各町内に計三台の屋台ありますが、
一之宮は屋台の方が盛んで、”屋台を買うために神輿を売った”ようなことを聞いたか、
読んだかした記憶があります。
 明治34年と言えば、不景気で浜降祭が中止されているくらいですから、戸数がわずかな
西町だけで神輿を保有して、屋台との両立は困難になったのかも知れません。
 (そんな話を裏付けるような、一之宮の祭りと屋台の話が第一集の別の項に載っていま
すので、後述します。)

 一方赤羽側は、この稿が上赤羽の宮世話人の方々から聞いた話を主に記述されている
ので、当時の上赤羽の詳しい事情が分かります。若い人の神輿に対する情熱が伝わって
くるようで、興味深いものがあります。

 この稿は、村越 春江さんが書いておられますが、入沢 スギさん(一之宮の人か?)
から聞いた話が発端であったろうと思われます。表題にある天神様と、どの様なゆかりが
あったのか?が記述されていないので残念です。
 ただ、同じ第一集の前の項に明治37年生まれの人が、「天神様について」という表題
で西町の梶原景時の館跡にある天神様には、大きな松と鐘つき堂があって、”
お神輿もあ
ったんです
”と書いているところから、お神輿は天神様のものだったと思われます。

 
以下、本文をほゞそのまま掲載します。  第九集;昭和61年11月1日発行
 「天神様ゆかりのお神輿について」
 明治30年代、上赤羽にあったのは、小さなお神輿だったそうです。若い人達はもっと
大きなお神輿を担いでみたいと思っていました。
 そんな時、一之宮の西町でお神輿を売ってもいいと言っている話しが耳に入ってきまし
た。他の部落へ売られないうちに早く買ってしまおうと、若い人と言っても40才代の人
だったと言う事ですが、部落の長老の人達に相談もしないで、さっさとお神輿を買いに行
ってしまいました。

 百円と、あとなにがしかの内金を払って、現在の香川の変電所の辺りまで四人だけで
担いで帰って来たそうです。
 残金は寄付金を集めて支払うことになり、その時の寄付の金額と名前を書いたものが
上赤羽の公民館に残っています。元は木の板に書いてあったそうですが、今は新しく書
き写されて公民館の壁に貼ってあります。
  明治34年で、最高額は25円。以下、15円、10円と続き、中間は6円、5円、
60銭、20銭、などの金額もあります。

 お神輿は八雲大神となていますが、八雲神社と言うお宮さんは現在はないそうです。
 赤羽部落の神社は、下赤羽にある神明大神で、9月のお祭りの時には、このお神輿は
担がないそうです。

 八雲大神のお神輿の紋章は、木瓜によく似た紋章で、私達が行った時は浜降祭の前日
でしたが、飾り付けをされていた人が藤原紋だと言っておられました。
 屋根の形が、お椀を伏せたようにこんもりとして下に流れてきて反り上がる美しい線
を画いています。上赤羽の人達は「今の新しいお神輿の屋根はひろがった形だけど、こ
のお神輿は古いだけあって、風格のある惚れ惚れするようないい形だ。」と、自慢して
おられました。

 お神輿の正面鳥居の下の裏には、明治29年、愛甲郡愛川村半原、二名の宮大工さん
の名前が墨書されています。

 管理人(注)
 明治29年の墨書は、修理をした時のものかと思われるが、これが製作年だとすると、
一之宮の浜降祭供奉は明治7年、29年、30年、31年、32年であるが、明治7年
に供奉した神輿は違う神輿と言うことになるので、
江戸時代に造られた神輿ではないこ
とになる。しかし、29年に製作して、5年後の34年に譲渡するというのも、ちょっ
と考えにくいですよね。

 (参考) 明治34年生まれ 亀山 教嘉さん記
 一之宮の祭り
 ・・・前略・・・私が親父に聞いた話ですと、宵宮には屋台の前に酒樽と薄荷(ハッカ)水
を乗せて曳いて歩き、誰にでも飲ませたそうです。
 何しろ毎年の事ですし、出費も大変だったことでしょう。祭りの費用をつくり出すた
めに、部落の共有財産を売り払ったという事も聞いています。(当時の一之宮は117戸)

 寒川町の文化財に指定された屋台について
 屋台は約百年位前(明治10年代)に出来たものらしいですが、一番先に西町のが出来
て、その後に東町と北町が一緒に作ったらしいのです。
 先に出来た西町のが古くなったので、宮山の下に売って、また新しいのを作ったとい
う話を聞いています。ですから西町のが一番大きくて新しいので彫り物なども立派です。
 昔は、一之宮の祭りと言えば宵宮の屋台曳きが本祭りよりも賑やかで、近郷近在から
大勢の人が集まって、あの大山街道が人でいっぱいで歩けないほどでした。

  画像は2007年浜降祭での上赤羽 八雲大神の神輿

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