蓮光寺とちょん髷塚               平塚市榎町  2003年2月

 天保9年(1838年)国府祭から還幸途中の寒川神社の神輿が、馬入川の渡し場に到着し、まさ に渡船に乗ろうとした時、平塚八幡宮の神輿を担ぐ馬入の者の乱暴にあって、神輿は川に落ち、折からの梅雨(旧暦5月)に増水した激流は神輿をはるか相模灘まで押し流してしまった。
 

 さて、神輿流出という不祥事に、寒川神社では湘南海岸の村々に三百石の報償付きで捜査を依頼した。数日後、鈴木孫七が南湖の海中に沈む神輿を発見して背後の石尊山へ奉置し一之宮に知らせた。三日後、神輿は一之宮に戻った。孫七は謝礼として若干の社地を頂いた。この社地は同家で終戦後の農地改革まで耕作していたという。この縁で浜降祭が南湖の浜で行われるようになり鈴木家は御旅所神主を許されたという。同家には二通の古文書が現存しており、この言い伝えは真実性がある。この流された神輿が、天保15年に寒川神社から譲渡された現存する菅谷神社の天保神輿と言われており、私の自慢の種である。

その乱暴の原因は明らかではないが、八幡宮の神輿は寒川神輿をこの渡し場まで見送る習わしだったと言われている。乱暴者16人は、打ち首の刑を受けたが、実際は代官の江川太郎左衛門の温情により、ちょん髷を切り落とされただけで一件落着となった。その髷は平塚馬入の蓮光寺に葬られ、丁髷塚の名を残していたが、昭和32年平塚観光協会は供養碑を建てた。
事件当時、”唄の新宿、喧嘩の馬入、怒らず帰る須賀の者”という流行唄が生まれたばかりでなく、馬入村には数知れぬ災難がおきたので、これみな一之宮様の祟りであるとし、その後、一之宮神輿の通過には土下座して拝んだという。
 この日庫裏を訪ねたら住職が快く案内してくれ、江川太郎左衛門
の人柄や連光寺は寒川神社とは縁が深く社地に建てられていたこと、その昔は河口が向こう岸の現在のゴルフ場の辺りで寺もその辺りに在ったことなどを聞かせてもらった。

南湖の左富士         茅ヶ崎市町屋 

 サアー茅ヶ崎名物 茅ヶ崎名物 左富士 上り下りの東海道
 松の緑の 吹く風は 昔も今も変らねど 富士の高嶺と男だて
 相模おのこの晴れ姿 ドッコイ ドッコイ
 と甚句にも唄われる「左富士」はここのことです。
 東海道は、茶屋町から下町屋に向かって右にカーブしています。
 その間にある鳥井戸橋に立つと、今まで右側に見えていた富士を左側に見ることになります。 東海道で左側に富士が見えるところは、ここの鳥井戸橋しかありません。そこで安藤広重は、東海道五十三次名所絵図で『南湖の松原左富士』を描きました。