2003年2月

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菅谷神社
 創建の年代は詳かではないが、天保年間編纂の新編相模風土記に「神明宮当村(岡田村)および小谷・大蔵三村の鎮守とする云々」とあり、往古より天照大神を奉斎して神明宮(通称天の宮)と称えられたことが記されています。
 当地区は相模の国一ノ宮寒川神社に隣接する古代より開けたところで、当神社を中心に塔の塚、応神天皇を祀るといわれる応神塚、等、の古墳が点在し、出土品によれば古代社会が営まれていたことが推測され、これらの中心をなすところに当神社が位置しています。
 神明宮と称えられた当神社は、明治4年2月1日村社に列せられた。明治42年7月23日には村内各所に鎮座する東守(とうす)権現社、八坂神社、山王社(以上無格社、岡田村)稲荷社(村社、小谷村)諏訪神社(無格社、大蔵村)の5社を合祀して、社号を菅谷神社と改称しています。
 昭和33年には合祀50周年記念大祭斎行、平成2年には合祀80周年記念事業が完遂しております。

昭和53年6月に新調した神輿
神社のパンフレットより
 
当神社の神輿は、天保9年(1838)5月、国府祭に渡御された寒川神社の神輿が、その帰路相模川(馬入川)の増水(旧暦の5月は梅雨時です)により流失し、南湖の浜へ引き上げられたと云う、浜降祭のルーツとも伝わる神輿で、天保15年寒川神社との神縁により譲渡され修復したものです。
 この神輿は、全国にも例を見ない程、勇壮・華麗なものでありますが長年の奉仕により近年傷みがひどく、現在は御殿に奉安され昭和54年12月15日付けで「天保神輿」として寒川町重要文化財に指定されています。
 尚、今日の神幸祭、浜降祭の渡御は昭和53年6月、氏子崇敬者各位の多額の浄財に寄って調製された神輿(左の写真)で斎行されております。(今では過去の話となっっている。下記参照

天保神輿(平成10年修復後)  上記の文章は神社のパンフレットを、ある程度読みやすく修正したものですが、天保神輿は昭和50年代に浜降祭が盛り上がりを見せ始めた頃、寒川さんから「古い方を神社へ納めてくれれば、ご希望の神輿を作って菅谷へ奉納しましょうと」申し入れがあったが、先祖が苦労して買った神輿だからと断ったそうです。(当時、宮総代の父の話)

 昭和53年6月に新調した神輿(中段の写真)も19年経ち傷みがひどくなって修理しようと業者に相談したら、この神輿は直せないが天保神輿なら修理可能と云うことで、平成10年6月吉日に合祀90周年事業として見事に復活(左の写真)し現在に至っている。 見事な彫刻で龍がくわえている玉(鈴?)の中に更に小さな玉が削り落とされており、当時の職人の腕を彷彿とさせる出来栄えです。

参考;現在の神輿の製作年
    寒川神社 昭和50年  倉見神社 昭和54年  一之宮八幡大神 昭和60年