numero-4



島に来て、1週間がたった。アホな団体も、とっとと太平洋の彼方へ去った。二度と戻ってくるなよ。今日も天気が悪い。夕日を見に行くことをあきらめた僕は、部屋でポケット会話集をパラパラめくっているうちに、スペインのことをぼんやりと思い出していた。最初の旅で出会い、今回の旅で再会した人々。地球上に散らばったいくつもの旅は、きっとどこかでつながっている。


 少し開いた窓の隙間から、湿気を含んだなま暖かい風が吹き込んでいた。夕日の時間にタハイへ行かないで部屋にいるのは久しぶりだ。スーパーでワインや食料を買ってこようと思っていたが、空は重苦しい灰色の雲に覆われ、今にも雨が降り出しそうだった。
 それでも、何だか今日は気分がいい。村の誰もが、家の中でうたた寝をしているように思える平和な夕暮れだ。勝手に盛り上がるだけ盛り上がって去ったマスカキ文化交流団体。奴らが騒がしかった分、静けさが心に染みてくる。
 ベッドに寝転がって、枕元に置いたスペイン語のポケット会話集を読む。グラン・カナリア島の学校で、文法の基本や日常会話は覚えた。その後の旅で、ボキャブラリーもずいぶん増えたと思う。でも、そこまで。相変わらず政治や経済の話はよくわからないし、映画を観ていても、意味がわからずに首をかしげてばかりいる。
 僕がはじめてスペイン語の本を目にしたのは、高校生のころだった。アントニオ・ガウディの建築ガイド。田舎町の図書館になぜそんな原書があったのか、今考えると不思議だが、その本がきっかけで、ガウディの建築物をナマで見てみたいと思うようになった。そして21歳のときに、お金をためてスペインへ出かけた。ガウディの作品さえあれば、目的地はポーランドでもウクライナでもよかったのかもしれない。
 生まれて初めての30日間の旅。バルセロナの街で、ガウディが残したものを飽きることなく、何度も何度も眺めた。そうしている間に、スペインという国自体を好きになっていった。話せる言葉は挨拶程度だったし、数字も1から5までしか数えられなかったが、それでも毎日がやたらと楽しかった。
 記憶のなかで、大聖堂サグラダ・ファミリアの映像に、うす汚れたジーンズをはいた20歳の自分や、最初の旅で知り合った人たちの顔が重なる。そのなかには、今回の旅で再会を果たした人がいた。ひとりの日本人と、ひとりのスペイン人。


 その日本人と出会ったのは、グラナダの路地裏にある小さなカフェだった。朝食後のコーヒーを飲みながら地図を眺めていた僕に、彼はこう話しかけてきた。
「どこへ行くんですか?」
 バルセロナ、グラナダと旅をしてきて、次はどこへ行こうかと考えているところだったので、心を見透かされたような気がした。普通はまず、おはようございます、とか、どちらから来たんですか、なんて声をかけるものだ。いきなり「どこへ?」とはヘンな人だなあ、なんて思っていると、彼は手を差し出して「市村です」と名乗り、僕の向かいに座った。
 市村さんは、グラナダからバスで2時間のところにあるカピレイラという村に住んでいた。職業は画家で、グラナダに絵の具を買いに来たらしい。ネバダ山脈の中腹に広がるカピレイラが美しい村であること、そして知り合いが安い宿を経営していることを聞いた僕は、彼にくっついて、その村へ行ってみることにした。
 カピレイラは、おもちゃのような小さい農村だった。ガイドブックには出ていないが、アンダルシア独特のいわゆる「白い村」のひとつだ。彼のアトリエ兼住居には、大小のキャンバスが所狭しと並んでいた。白い家に花や蝶を組み合わせた抽象的な油絵。その作品を気に入ったこの村のフランシスコというスペイン人が、彼のスポンサーのような存在で、アトリエと部屋を無償で提供し、創作活動に専念させているようだった。
 僕は大地主フランシスコのホテルに泊まり、バルで食事をとり、ビールを飲んで過ごした。絵はがきでよく見る「白い村」は、真っ白に塗られた家並みを横あるいは下の方向から撮影しているから美しい。村で最も高い丘から見下ろすと、段々畑のような斜面に並ぶ家々の、汚れて黒くなった屋上部分がやたらと目立つ。そして、時折風にのって漂ってくる牛の匂い。平気でウソをつき、匂いも音も隠す。それが絵はがきというものだ。

 それでも、僕はのどかなカピレイラの雰囲気が気に入った。滞在した5日間、市村さんは、それまでどこかにたまっていた日本語を全て吐き出すかのように、来る日も来る日も僕を相手にいろんな話をした。美術、政治、演劇、音楽、そして日本の悪口。何度もうんざりした気分になったが、「僕はいろんなものを捨てて、ここへ来たのだから、もう日本には帰れないんですよ」という彼の言葉を聞くと、心の底から嫌いになることはできなかった。最後の日、市村さんは村の広場から出発するバスを見送ってくれた。白髪まじりの57歳。小さな身体、ギラギラした厳しい目。僕は遠ざかる彼の姿を見つめながら、あの人はこれからどうなるんだろう、と思った。それから4年後に再びスペインを訪れたが、モロッコへ足をのばしたりして、カピレイラに立ち寄る時間はなかった。グラナダには行ったが、あの路地裏のカフェは姿を消していた。さらに4年。今回の旅では、出発前からこの村を訪ねてみようと心に決めていた。目的はただひとつ、市村さんのその後を知りたかった。

 何も変わらず、細々と絵を描いているのだろう、という僕の想像は見事に裏切られた。久しぶりに会った彼は、大きな成功を手にしていた。カピレイラには彼の作品を展示するギャラリーが建てられていた。毎月のようにスペイン各地から画商がやってきて、年に数回はパリやフランクフルトでも個展を開いているらしい。当然のことながら、市村さんは、いよいよ饒舌になっていた。
 彼が酒も飲まずにひたすら語るサクセスストーリーは、大河ドラマが何本か作れるほど長大なものだった。その言葉をつなぎ合わせれば、日本で「現金収入にひかれて」絵を書きはじめ、「他人に薦められて」ヨーロッパへ来て、「まわりのおかげで」売れっ子となり、「フランシスコが建ててくれた」ギャラリーの主となり、「いまだに絵が好きじゃない」のに「明治以降唯一の海外で成功した油絵画家」になってしまった、ということらしい。
 僕は純粋に、スゴイ人だと認める一方で、もしこれほど成功していなかったとしても、彼は同じような言い方をするだろうか、と思った。スペインの田舎に住む、売れない日本人画家。そんな人が「絵は好きじゃない」なんて言っても、その言葉を優しく受け入れてあげる人は少ないだろう。
 ふたりで話すことは、前回同様、時には苦痛だった。現代日本を嘆き、僕をそんな時代の代表であるかのように攻撃してくる。これほどアクの強い老画家に、惹かれる自分が不思議だった。ひとりで異国に暮らしてきた男を支えているもの。僕はその部分に興味があった。 例え絵の世界で成功したとしても、それを一緒に喜んでくれるのはせいぜいフランシスコくらいしかいない。それがわかっていても、彼は前に進むことをやめようとはしない。その背中を押しているものは、一体何なのだろうか。

 人は、物事を考えるときに何かと何かを自然に比べている。頭の中にはかりのような道具が置かれていて、誰かと会ったり、何かを見たりすると、その道具を使って過去の情報や経験と比べて、何やら結論めいたものを出している。
 でも、カピレイラをあとにしたとき、僕は市村さんの人生をジャッジする気分にはなれなかった。25年間のスペイン生活、成功、孤独、ギャラリー、日本、友人。頭の中に彼をとりまく事柄をいくつか並べてみるのは簡単なことだ。でも、何かほかのものと比べようと思う以前に、それらをはかりに載せるという行為そのものが、自分には許されていないような気がした。そこにはひとりの日本人の、僕には把握できない種類の人生があった。

 その日、僕らは市村さんの知り合いの運転手のタクシーでグラナダへ出かけた。画材を買ってから中華料理を食べて1泊し、翌朝は地中海沿いをドライブして帰る。市村さんが突然そんなプランを持ちかけてきたとき、この村に来るのもこれで最後かもしれないと思っていた僕は、断らなかった。それは、アップダウンの激しい山道を走っていたときだった。市村さんが運転手に「今日は誕生日なんですよ。66歳になっちゃった」と言った。運転手は驚いて言葉を失った後、その空白の時間を埋めるかのように「おめでとう!」という言葉を何度も連発して、最後には誕生日の歌まで口ずさんでいた。
 僕は、別の意味で驚いていた。もしかしたら、市村さんは誕生日というものに対して何の興味も期待も持っていないのかもしれない。しかし、仮にそうだとしても、タクシー運転手と旅行者と一緒にドライブして、グラナダに泊まる……それは、あまりに寂しすぎる誕生日じゃないか。どうして村の人々は、せめてフランシスコの家族だけでも、彼を祝福してあげないのだろう。

 グラナダに到着しても、僕は複雑な感情に支配されたままだった。ずいぶん長い話を聞かされたが、その合間には何度も日本食を作ってくれた。フランシスコをはじめ、彼が紹介してくれて友達になったスペイン人も多い。つまり、僕には彼の誕生日を祝ってあげる理由がいくつもあった。市村さんをホテルに残し、夕暮れの街を歩きながら、何軒かの商店のウインドーを覗いてみたが、とうとう何も買う気にはなれなかった。
 公演のベンチに座って、自分はどうするべきなのかを長い間考えていた。ピンと張り詰めたような気高く静かな孤独。彼にプレゼントを贈ることで、その孤独のバランスを壊してしまうことにはならないんだろうか。もしかしたら、フランシスコたちもそう思っているんじゃないだろうか。考えれば考えるほどわからない。未完成の解答用紙は結局、誰にも採点されないままごみ箱に捨てられた。
 その夜、僕らは食事の後、かつて市村さんの絵を購入したというスペイン人が経営するレストランを訪れた。老画家はオーナーに、持っていた紙袋から出した箱をふたつ手渡した。それは、彼の子供たちへのプレゼントだった。赤いリボンのついた、四角い箱。中身はかわいらしい日本製の人形だった。市村さんは、自分の誕生日に他人へのプレゼントを用意していた。そんなことを知らないオーナーは「ありがとう。帰ったら子供たちの部屋に飾っておくよ」と言って、うれしそうに笑っていた。

 この旅をしていて、酒に酔った夜にときどき考えることがある。あのとき、やはり僕はプレゼントを買うべきだったのだろうか、と。


 もうひとりのスペイン人は、パコという名前だった。カナリアのスペイン語学校の先生と同じ名だ。スペインという国は本当にパコだらけで、人混みの中で「パコ!」と呼べば、必ず何人かが振り向く。やったことはないけれど。
 8年前の夏、地中海沿いのコスタ・デル・ソルにたどり着いた僕は、海岸通りを走るローカルバスで、静かなビーチを探していた。いくつかの高級リゾート地を通り過ぎたころ、突然ひなびた村の風景が窓の外に広がった。もう、見るからに観光スポットはゼロ。僕は、迷うことなく荷物を抱き抱え、そこでバスを降りた。
 砂浜には古い木舟がいくつか置かれ、道路に面して古びた教会がポツンと建っていた。バス停から、ホテルの看板がふたつ見える。値段を聞くために小さな方のホテルに行くと、入り口の前に椅子を置いて、ひとりの老人が新聞を読んでいた。
「このホテルの人ですか?」
「ああそうだよ。部屋かい」
「ひとりなんだけど、いくら?」
「客が少ないから、ムチョ安くしとくよ。どこから来た」
「マラガ」
「いくらで泊まっていた」
「1000ペセタ」
「1000か。うちはいい部屋だから1500でどうだ。ムチョ安いぞ。本当は3000の部屋なんだ」
 彼の英語と僕のスペイン語はひどいレベルだったが、強引に美しく翻訳すると、そんな会話だった。見せてもらった部屋は、海とは反対側で窓もなかったが、清潔で居心地がよさそうだったので、そこに泊まることに決めた。

 毎日、目の前の海で、泳いでばかりいた。ホテルの入り口では、パコというその老人がいつも新聞を読んでいて、前を通る度に何やら話しかけてきた。不思議なことに、この老人が身振り手振りを交えて話しているのをじっと聞いていると、何となくその内容が想像できた。そして、パコの口癖である「ムチョ」が、いっぱい、とか、すごく、という意味の単語であることも、そのときはじめて知った。

 日本人がこの村に来るのは珍しいらしく、パコは僕のことをタクと呼んで、友達のように接してくれた。1週間後、その村を出るときに僕はパコの写真を撮った。もちろん、新聞を読んでいるポーズで。
「この写真、日本に帰ったら送るよ」
僕がそう言うと、パコは首を振りながら言った。
「もうここには来ないのか」
「いや、いつになるかわからないけど、また来たいって思ってるよ」
「じゃあ、写真は送らなくていい。そのとき、持ってくればいいんだから」
 パコはちょっと寂しそうな表情をしていた。70歳くらいになるのだろうか。その顔はさまざまな深さのしわで埋め尽くされていた。遠ざかる村の景色をバス最後部の窓から眺めながら、必ずいつかパコに写真を届けようと思った。だから、今回の旅で地中海沿いを自転車で走ることを決めたとき、パコの顔が脳裏に浮かんだ。彼がまだ生きているのなら、もう一度会いたい。

 バレンシアからの平坦な道を走り、カスティーロ・デ・フィーロの名を記した道路標識が見えてきたところで、僕は何ともいえない懐かしさを感じていた。パコは覚えていてくれるだろうか。そして、ムチョ喜んでくれるだろうか。
 カスティーロ・デ・フィーロには、日が沈む前に着くことができた。僕は村の変わりように驚かされた。パコのホテルと、海岸との間には、かつて何もなかったはずだが、今は大きな広場と、それを囲むように、レストランやホテル、銀行などがずらりと建ち並んでいた。パコの小さなホテルは、その一郭に埋もれるように残っていた。
 僕は自転車を引きずりながら、ホテルの玄関へと向かった。小さな白い椅子とともに、見覚えのある後ろ姿がそこにあった。パコ、と呼ぶと、彼はゆっくりと振り向き、僕の顔を見た。

 彼は、たいして驚いていなかった。驚かされたのは、こっちの方だった。彼が、1週間前にも来た友人を迎えるように、
「よう、タクじゃないか」
 と、言ったからだ。
「パコ、久し振りだね。元気でやってる?」
 僕も彼のようにさりげなくそう言ってみたりしたが、声が少しうわずっているのが、自分でもわかった。
「どうしたんだ、自転車なんて」
「バルセロナの近くから、ずっとこれで走ってきたんだ」
「そんなところからかい。なんでまた」
「またここで泳ぎたくて」
「そうか。それはムチョうれしいな」
 パコはそう言って笑った。僕はバックパックの底から、8年前の写真を取り出して彼に渡した。

 このときは自転車の旅のため日程も決まっていたので、2泊しかできなかった。パコは僕のために、玄関前にもうひとつ椅子を用意してくれた。ビーチの水が冷たくて泳げないときは、そこで彼とのんびり話をしていた。相変わらず、いい加減なスペイン語と英語のチャンポンで、だったけれど。3日目の早朝、前夜にすでに別れの挨拶を済ましていた僕は、自分の部屋から自転車を出し、玄関のカギを開けて扉を押した。
 そこには、まだ薄暗い広場を背にしてパコが座っていた。
「珍しいね、パコ。新聞を持っていないなんてさ」
「お前が出発するのが早すぎるんだよ。新聞屋よりも早く起きるなんて、身体に悪いぞ」
「見送ってくれてありがとう。ムチョうれしいよ」
 僕は自転車の旅を終えたらカナリア諸島でスペイン語を習うつもりだった。パコは、その後にまたこの村へ戻ってこい、と言った。
「次に会ったときはスペイン語でしゃべろう。しっかり勉強してこい。カナリアは美人が多いから、勉強にならないかもしれないけどな」

 そして4ヶ月後、カナリアからスペイン本土へと戻ってきた僕は、しばらくあちこちを旅した後に、カスティーロ・デ・フィーロへもう一度行くことにした。マラガからホテルに電話を入れると、すぐにパコが出た。久し振りじゃないか、今どこにいるんだ。
 彼はちょっと興奮しているようだった。僕がすぐ近くのマラガにいて、これからカスティーロ・デ・フィーロへ行こうと思ってる、と伝えると、パコはさらに興奮した声で、こう言った。
「タク、フィエスタは好きか?」
「え……うん、好きだよ」
「ムチョ好きか?」
「うん、ムチョ好き」
「よーし、そうか。204号室にはシャワーもトイレもバルコニーも付いている、うちで一番いい部屋だ。いいかタク、204号室だ。楽しみにしてろよ。お前はムチョついてるぞ。早く来い」
 とにかく最上級の部屋らしい。本当は安い部屋の方がいいんだけど、パコの勢いにつられて、そんなことはとても口にできなかった。もうひとつ、言えなかったことがある。僕は人混みが苦手なので、祭りもそれほど好きじゃなかった。

 しばらくぶりに見た村は、映画の撮影でも行われるかのように飾りたてられていた。ホテルの前の広場には巨大なステージと、数えきれないほどの露店。間違いなくフィエスタだ。大きな垂れ幕の宣伝文句によると、恒例の村祭りのようなものらしい。ホテルの前で誰かと立ち話をしていたパコは、僕の姿を見つけるとオーバーなアクションでがっしりと握手をして、部屋へと案内してくれた。
「どうだ、この部屋は」
 広いベランダからは、地中海が一望できた。手をのばせば届きそうなくらい近くにステージがあった。
「ちょうど、今朝この部屋がキャンセルになったんだ。いつもと同じ1500ペセタでいいぞ」
 それはたしかに破格な値段だった。部屋もバスルームもムチョ広い。バルコニーに置かれたテーブルでワイングラスでも傾けてみるか、という気にさせるような部屋だった。広場は着飾った村の人々で埋め尽くされている。

 バスを乗り継いで長い距離を移動したため、ひどく疲れていた。フィエスタは3日間続くらしいので、その夜は眠ろうと思っていた。しかし、日が暮れると、部屋の目の前にあるステージで演奏がはじまった。恐ろしいほどの轟音が壁を揺らしはじめ、窓を閉めても、まるで意味がない。さらに恐ろしいことに、スペインの夜は遅い。10時くらいから、フィエスタは加速度的に盛り上がっていった。
 ステージで演奏するビッグバンド以外に、それぞれの露店がラジカセで音楽をかけていた。フォルクローレ、ユーロビート、スパニッシュ・ロック、ビートルズ……メチャクチャだ。暴走族の集会よりも、右翼の街宣車よりもすごい。
 砂浜に設けられた巨大な観覧車の隣では、何かゲームが行われているらしく、四六時中、「大当りですぅぅぅ!グラナダから来たかわいいセニョリータに熊のぬいぐるみが大当りぃぃぃ!」とかマイクで叫んでいる。

 ベッドから抜け出してバルコニーに立ち、呆然としながら広場を見下ろしていると、パコが踊っているのが見えた。彼だけじゃない。そこにいる全員が飲みまくり、踊りまくっている。つまり、誰の迷惑にもなっていないってことだ。僕のように部屋にいる奴の方が珍しいワケで、こりゃもうあきらめるしかない。
 試しにカーテンを閉めてみたが、ステージの照明や、回転木場の電飾が、薄い布地越しに部屋の壁という壁を24色に染め、場末のラブホテルにいるような気分になる。ベッドが回転しないのが不思議なくらいだ。熱狂フィエスタは、そのまま午前5時まで続いた。

 ほとんど眠れないまま、朝食をとるために階下へ降りていくと、パコにバーンと背中を叩かれた。
「どうだ、ムチョすごいフィエスタだろう。1年に1回だから、みんな本当に楽しみにしてたんだよ」
 パコの親切な気持ちはよくわかっていたから、うなずくしかなかった。たしかに、あの部屋はフィエスタが好きな人なら涙を流して喜びそうなロケーションなのだから。ホテルは満室だったが、ツーリストは僕だけだった。ほかの宿泊客は、フィエスタのためにグラナダやマラガからやってきたウエイトレスや鼓笛隊たち。パコは僕に玄関の合鍵まで渡してくれた。
「若いんだから、朝まで飲んで、踊れ」
 たしかに、飲んで、踊るしかない。2日間、ほとんど眠らないでフィエスタに参加した。日本人は珍しいので、いろいろな人から話しかけられたりして面白かったが、体力はもう限界だった。復活するにはラテンの血を献血してもらうしかない。

 フィエスタ最終日の朝。チェックアウトするよ、と告げると、パコはびっくりした顔で
「今夜がムチョ盛り上がるんだ。なんで出ていく?」と言った。
「もう十分楽しんだよ。まだ先があるからさ」
「ムチョか?」
「うん、ムチョ」
「そうか。また、遊びに来い。すぐに来ないと、オレは死んでるぞ」
 本当にそうかもしれない、という思いが頭の中をよぎる。それでも、僕は再び写真を撮った。またここへ戻って来ること、愛すべき老人がそれまで生きていることを願いつつ。やがてフィエスタの派手な装飾の向こうから、バスがやってくるのが見えた。パコは椅子に座ったまま、僕がバスに乗り込んでも、右手に持った新聞を何度も大きく振ってくれた。


 時間を越えて、何度か出会う人々。どこかでつながっている、古い旅と新しい旅。それは景色も同じだ。マドリードの裏通りを歩いていてニューデリーの路地を思い出したり、エルサルバドルの市場にマラケッシュの袋小路が重なって見えたり。リンクする旅。イースター島の民宿の部屋で、スペインのことを思っているのも、そういうことなのかもしれない。ということは、これから先、肥満男を見るたびに、マルティンのことを思い出すのだろうか。それも暑苦しいような気がするな。そんなことを考えていると、誰かがドアを叩いた。「タク、いいマグロが手に入ったけど、少し買うか?」というマルティンの声。
 魚屋じゃあるまいし、宿泊客にマグロなんて売るなよな。でも、冷蔵庫に何も残っていないことを思い出した僕は、「買う!買う!」と日本語で叫びながらドアに向かって突進した。マルティン様、200グラムほどお願いします。