高校美術部OBの同人誌「樹」からのピックアップ


99.3.18  ぼくが夢中になったこと

 思えば何かを集めたり何かに夢中になって今日まできた。思い出せる最も古いことは6,

7才のころのメンコ集め。これはメンコの勝負に強くなかったので2,3年で終わった。小

学校4,5年生頃のプラモデル作りとそれを増やすこと。アンプルに入った小さなシンナー

でくっつければすぐ出来上がるゼロ戦や隼、スピットファイア、ユンカースといった軍用機

シリーズ。お小遣いが限られていたから大したコレクションにならないうちに終わった。5,

6年生から中学にかけては切手集め。ストックブックに種類別に少しづつ増えてゆくのが嬉

しかったが、あるとき従姉妹が見せてくれたコレクションにショックを受けてやめてしまっ

た。彼女は記念切手を1シートづつ持っていたのだ。同じころ化学に興味をもち、硫黄から

硫酸を作れないかと庭の納屋で空き缶を使って亜硫酸ガスを吸いながら実験したが成功しな

かった。ただで手に入る石や鉱物のコレクションもした。菓子箱を縦横に仕切ったマス目に

綿をしき、その上に宝物達を置いた。ガムの包装を集めた。中学への行き帰りに駅の売店で

こっそり買って電車で噛んだ。グリーン、ペパーミント、スペアミント、クールミント、・

・・。ある日服のポケットに残っていたガムを母がみつけ注意されて終わった。中学時代は

通学にエネルギーを要したので、夢中になるものがなく過ぎた。高校ではマンドリンクラブ

と美術部のどちらにも熱中した・・と言うべき所だが、実はマンドリンの練習はあまり熱心

ではなかった。効率的な練習方法がわからなかったし、初めから巧い人がいて自分は下手な

人と思っていたので、楽しくはあったが熱中まではいかなかった。熱中していたら美術部を

かけもちしていなかっただろう。その言い方を裏返せば美術部も熱中してはいなかったこと

になるのだが、巧くなるための努力はこちらのほうがしたと思う。幼いころ遊び半分で行っ

ていた絵の教室にデッサンを習いに行ったほどだ。今持っているデッサン力は高校時代につ

いた。大学時代は工学部のためパレットクラブに1年間しか居られなかったので浅いつきあ

いで終わってしまった。高校時代、マンドリンの練習には熱心でなかったが楽器というもの

の理屈と音楽の理屈がわかってきたので、クラブとは別に自分でギターを独習した。それが

バンジョーにつながり工学部時代のブルーグラスバンドに発展した。大学時代はブルーグラ

スに明け暮れた。


 卒業して中学校の教師になった。当然、理科教育に夢中になったが中でも植物生態学の面

白さに目をひらかされ、野草図鑑と首っぴきの日々が続いた。生徒会担当を機会にリーダー

養成にもかなり夢中になった。マンドリンクラブで楽譜の読み書きを身につけたので器楽ク

ラブの顧問として曲のアレンジにも熱中した。このころは学校で職員室にいれば楽譜を書い

ており、外にいれば草を調べており、そうでなければ廊下を走っていた。休日は卒業生とつ

くったバンドでブルーグラスをつづけた。この最初の勤務校での8年間、絵はほとんど描い

ていない。絵が復活するのは2つめの勤務校で美術部の顧問になってからだ。ちょうど30

才。復活といっても夢中になったわけではない。この学校では生徒との関係が前の学校のよ

うにうまくゆかず、何かに夢中になる状況ではなかった。そして辞めたのが35才。その頃

パソコンと、そのプログラミングに夢中になった。簡単なデータベースソフトを自分で作っ

たりした。視力が落ちた。社会人マンドリンクラブの指導とネットワーク化にも熱中した。

これには生活も掛かっていた。ブルーグラスのバンド活動も単独のバンドからサークルへと

発展させる事を、楽しみつつ熱中した。生活のため絵も教えることになり、独自のデッサン

指導法を考えたりした。そして自分も再び描くようになった。この3月末で52才になるが

教員退職後の17年間はマンドリンとブルーグラスと絵に夢中になって生きてきた。コンサ

ートの企画、レコード集め、ビデオの録画、CD、楽譜、楽器集めは皆、その中のことだ。


 そして今、マンドリンクラブからは手を引いた。ブルーグラスと絵の2つに絞った。現時

点でこの2つに費やす時間の比は9:1である。これからこの比がどう変わってゆくか自分

にもわからない。わからなくていい。たくさんの夢中に出会って生きてきた。そう、一番

夢中になったことを書き忘れた。25才のとき出会って以来ずっと夢中になっているもの・

・・。(もの・・・じゃない!)


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