小文集(序文集)  ’1988


88.4.1        桜の季節に

 昨年4月の教室だよりに私が形式的な式が嫌いであること、結婚式へのご招待はありがたくも辞退申し上げること、私の葬式は行わないことなどを書きました。40才になって1年すぎましたが考えは変わっておりません。新しい生徒さんもいらっしゃるので私の考え方を再度アピールしておきたいと思います。

物事に形式は全く不要とは思いませんが必要最低限でよいのです。ただ、人によってその最低限が違うのでトラブルのもとになります。多くの人が考える最低限を常識というのでしょう。でも10人のうち1人くらいはちがう考えの人がいて当然です。ちがう考えを大切にしない社会は老化してゆきます。結婚を祝う気持ちの表現はいろいろあると思います。出席をお断りしたからと言って祝福の気持ちがないということにはなりません。

88.5.2        金 一 封

必要以上に形式化した慣習の一つに「金一封」があります。何かの会に招待されたとき「金一封」を持参しないと恥をかくのではないかと思い、家計に響くような金額を包んでしまうことがないでしょうか。本来、招待は来て欲しいから招待するのであって、行ってあげることが最大の答礼です。それを初めから主催者が「金一封」をあてにして計画をたてるような会がある。結婚披露宴もそうだし葬式もそうです。主催者の資金が不足ならば会費制にすればよいのです。招待しておいて金一封を持参しない人をケチだと言うなら初めから招待すべきではありません。

88.6.1        私の考え

4、5月号で慣習に対してかなり一方的なきつい批判を書いてしまったので、私のことを思想的に偏っているんじゃないか、日本赤軍じゃないかと思われた方がいらっしゃるといけないので、私の立場を表明しておきましょう。政治的には支持政党なし、選挙の時はそのつど決めます。人に頼まれて入れることはしません。思想的には左の全体主義も右の全体主義もきらいで、少数意見も尊重されてゆくような民主主義が理想です。民主主義と言葉でいうと簡単ですが、日本の社会にはなかなか根付かないようで何事も同一歩調を合わせることをよしとする全体主義的な傾向があります。学校なんかでもふた言めには「集団行動」です。「個人行動」も尊重してゆかないと21世紀をリードしてゆく人間が育ちません。個性的な人を許容できる大らかな社会がよいと思うのです。(ギターの上達も人さまざまでよい、というわけ)

88.7.1        ちがいを楽しむ

3人の人がドとミとソの声を出すと、そこにドでもミでもソでもない美しい響きが生まれます。これが西洋音楽の基本になっているハーモニーです。日本の伝統音楽にはこのハーモニーはほとんどなくて1本のメロディーが中心です。何人かで歌うときも同じメロディーを歌うことが多いのですが、西洋では自然と誰かが別のパートを歌ってハーモニーをその場で作ってしまいます。このことから西洋音楽の方が優れているとは必ずしも言えません。ただ何でも同じにしようという日本人の国民性と、人とちがうことをしようという西洋人の体質のちがいが現われていておもしろいと思います。

ちがうものがうまく使われたときにすばらしいことが起きます。ドとミとソから、それらの和を越えたものが生まれてくる。人間の世界でもこのことは大切なことだと思います。何でも人とちがえばよいと言うことではなく、一人一人の持ち味が生かされてハーモニーが生ずるということです。子供に対しても総合成績より何が得意かを発見してやる親でありたいと思います。

88.10.3       秋 二 題

 まず金メダル。参加に意義があるはずのオリンピックなのに金がとれたとれないと、なぜあんなに騒ぐのでしょう。1位でなけりゃビリも同じ、と発言した中山選手の気持ちはわかりますが、でも2位は3位よりいいのだし、3位は4位よりいい。20位は21位よりいい。ビリでも出られなかった人よりいいのです。何でも1番にならなければ気がすまない人が多いみたいですが、私はそんな思いつめた生き方は嫌いです。 もうひとつは「自粛」。私に関係するものでも3つ取りやめになりました。福祉まつりや青年フェスなど、福祉の行事を取りやめるなんて! 陛下もさぞお嘆きのことでしょう。内容のないバカ騒ぎは自粛してもよいでしょう。でも皆が一生けんめい準備したり練習してきたものまでやめるなんて、どうかしています。自粛を自粛すべきです。

88.12.1       Xmas会

 ことしが終わろうとしています。ことしもお金には縁がなかったけれど、家族みな健康で幸せです。12/11に肢体不自由児のXmas会で演奏して平凡であることがとれほど貴重なことであるか、あらためて実感しました。起きられる、立てる、見える、言える、歩ける、という当たり前のことが当たり前でない世界がありました。自分の力で食事ができない子供がたくさんいました。福祉にお金をかける社会でなければならないと思います。もちろんお金だけでは十分でありませんが。


                        「西やんノート」へもどる