小文集’2000


00.1.6            明るく生きる

 明かるい未来は信じないけれど明るく生きるしかない。人間は醜いが自然は美

しい。私が神であればまず人間を滅ぼすだろう。でも私も醜い人間のひとり。

醜さをかかえて明るく生きるしかない。好天が続く。関東の好天は北陸の豪雪の

犠牲の上にある。日本の平和は沖縄の犠牲の上にある。豊かさは他国の貧困の

犠牲の上にある。幸せに敏感になれば不幸にも敏感になる。年とともに心が敏感

になる。痛みを感じながら、明るく生きる。


00.2.2        生で生きよう

 パソコンは面白い。BASICでデータベースをプログラミングしたこともあ

る。しかし、はかない。半日かけて打ち込んだデータが一瞬で消えた。インター

ネットも面白そうだが、探し、集め、読み、送る時間を考えるとバンジョーの

練習をした方が得だ。1000人との薄い結びつきより数人のバンドメンバーと

の結びつきを大切にしたい。生まの人間が生楽器で生演奏するのが本当の音楽。

電気の使用量を減らそう。


00.3.1          いらないんじゃないか?

 公立の小学校や中学校は本当に必要だろうか? ボランティアの非営利組織で

読み書き計算地理を教える場があれば、あとは自分が学びたい事を本やTV、必要

ならお金を出して専門学校へ行けばよい。放っておいても個性のある人材がでて

くる。国の赤字は一気に解決する。問題点は1つだけ、ツブシのきかない教師達の

再就職先。10年後の実施ということで本気で考えてみませんか?

君が代で悩んでる場合じゃない・・・。


00.4.7          いらないんじゃないか?(2)

 学校という所は公平平等を唱いながら相対評価で競争させ偏差値で子供を仕分け

てしまう。その偏差値がいかに無意味であるかは昨今の不祥事が証明している。

魅力のある個性をじっくり育てることは学校にはできない。校内暴力、イジメ、

不登校、中退の激増は学校がもはや時代に合わないことを示している。莫大なムダ

遣いである教育予算をそっくり、不足している福祉に向けたら大人も子供もずいぶ

ん楽になるはずだ。


00.5.6          幸せのありか

 鼻で息ができる、というあたりまえのことが実は大変な体のしくみと働きによる

奇跡のようなありがたいことなのだ、ということを教えてくれた3、4月が過ぎた

。鼻で空気を吸える幸せを知ったのは花粉のおかげ。沢山のあたりまえが沢山の

幸せであることを知る。世界中の人がこのことに気がつけば世界はもっと平和に

なるだろうに。向かいの駐車場のニセアカシアが日に日に葉をふやし、めだたない

花を準備している。


           === 5月号 後記 ===

 ドアを開けて教室から出ると、そのニセアカシアの大木が目にとびこむ。めだた

なかった白い花が日に日に増え、大きな樹に雪が降りつもったようにたわわに咲い

ている。道を歩いているとあまり気がつかないが3階の通路からは樹全体がよく見

えて、特に樹の上半分には花が葡萄の房のように沢山ついている。樹が大声をあげ

て歌っているように見える。脳がなくても歌えるのだろうか? もしかすると「脳

ができたから歌えるようになった」のではなくて「歌いたいから脳ができた」ので

はないだろうか。植物も動物も細胞レベルではそんなに違わない生き物だから、

植物に「歌いたい」という「こころ」は絶対にあると思う。花は歌である。さらに

もしかすると「生き物だから歌いたい」のではなくて「歌いたいから生き物ができ

た」のではないだろうか。生き物が存在しない物質とエネルギーの世界にすでに

「歌いたい」という「こころ」はあったのではないだろうか。そんな「宇宙のここ

ろ」が星をつくり、生き物をつくり、動物をつくり、ヒトをつくった。だから僕は

歌う。僕が死んでも地球が蒸発しても宇宙は歌いつづけるだろう。5月のニセアカ

シアは、そう確信させてくれる。


00.6.5         宇 宙 と 私

 先月号でめだたない花を用意していると書いた教室の前のニセアカシアは、5月

上旬に樹冠を花房で飾り下旬には道路に花びらを敷きつめ今は緑の大木です。宇宙

の一部が星になり、星の一部が樹になり、樹の一部が花になる。だから花は宇宙で

もある。猫も宇宙。
人も宇宙。私も宇宙。同じものがいろんな姿になって表れ、

そして元に戻る。生死とはそういうことのように思える。


00.7.3           たなばた祭り

 やがて多量のゴミになるビニール飾りの下に、人混みを求めて人が押し寄せる。

宇宙の塵は集まって新しい星になるが、人はただ集まるだけ。あまりにも多くの

他人にかえって孤独感が深まる。夜空の星のように時間も空間も違うものが見かけ

は同じ平面の上に並ん
でいるのに似ている。人を集めるのが目的のイベントだから

それでよいのだろうが、祭りと呼ぶ気にはなれない。市民が浜辺で静かに天の川を

眺める一夜、というのはどうだろう。


00.8.2           55年前のこと

 今年も猛烈な暑さだ。スイカ、ざるそば、野外フェスの季節。青空に充満する光

が体を幸せにする。55年前には同じ夏空の下でたくさんの人たちが死んでいった。

兵隊も老人も母親も子供も赤ん坊も死んだ。それから55年間、ここだけの危うい

平和の中で僕は人生を平穏に過ごしてきた。スイカの季節がくると55年前のことを

思う。55年前のことは今もこの太陽の下で起きている。僕にできることはそのこと

を忘れないことくらい。祈りつつスイカを食べる。


00.9.1           「今」とは何か(1)

 本当の今という瞬間は人間には知覚できない、と気づいた。花が見えるのには僅か

な時間がかかる。花から出た光が私の網膜に届き、視神経が脳に伝えて脳が蓄えた

知識と比較して、花という名の物であると認識するのだから「花だ」と思った時は

0.1秒は経っている。0.1秒でも過去は過去である。わたしが見ているもの聞

いているもの全て過去なのである。本当の「今」は絶対に見えないし絶対に聞こえ

ない。今という瞬間の存在はだれにも証明できない!


00.10.1         「今」とは何か(2)

 今!と思った瞬間も実は過去である、と前号で書いた。本当の今の断面はブラック

ホールのように見えず聞こえず触われない。厚みのない羊羹のようなもの。しかし

わずかな厚みがあれば羊羹が存在するように、わずかな時間が光を生み、音を生み、

触感を生む。時間が流れることによって初めてこの世が存在する。感覚はすぐ記憶に

かわり、記憶の編集によって物事に意味が生まれる。「おはよう」の「う」を聞いた

とき、既に消えた「おはよ」とつなぎ合わせて理解しているのだ。


00.11.6         「今」とは何か(3)

 30分もワープロを見つめてこの文を書いている。そのあいだ私の時間は動いて

いない。30分の長さを持った「今」の中にいる。書き終えて時計を見てはじめて

自分の外では30分も時がたっていたことを知る。自分の時間とはそういう不連続

なものだ。一つの曲を演奏している間、一枚の絵を描いている間、時は流れない。

どんなに長くとも「今」の中なのだ。30分前に弾いたフレーズが心の中で生きて

いるうちは、それは過去ではなく「今」の一部を構成している。


00.12.1       「今」とは何か(4)

 この欄で、もう4ケ月も時間について考えている。流れた時は過去になってしまう

のに、時が流れなければ私も世界も存在できない不思議さ。「存在している」という

ことは「存在していた」ということ。と同時に数秒後、数分後の近い未来を変えるこ

とができる。
ブルーグラスの演奏はまさにその見本のようなもの。フレーズを思いつ

く、指を回す、そのフレーズが耳に聞こえる。未来と過去を含むこの何秒間かが私に

とって意味のある「今」となる。 「今」シリーズ終り。


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