小文集’2016
                                


2016年
2006.1.5      俳   句

 401号からスタート、今年もどうぞよろしく♪
松戸の老人ホームにいる90才の母が今できることは俳句だけなので、母とのコミュニケーションのために私も俳句を作ってみた。今までは時間もないし敬遠していたのだが作り始めたらこれが中々おもしろい。朝の公園にケヤキの枯葉が一面に広がって落ちている。「公園は ケヤキ落ち葉の ・・・・・」とリズミカルなフレーズが出てくる。ところが最後の「・・・・・」がむずかしい、というかおもしろい。この5文字の選び方で句は全くちがうものになってしまう。初めは「宇宙かな」とした。あとで「語り合い」に変えた。母は「宇宙のほうがおもしろい」と言った。

16.2.1        考 え 方

 出発点が同じでも考え方によって全く反対の結論になることがある。人は必ず死ぬ。だから何かを一生懸命やってもしょうがないとある人は考える。だから何かを一生懸命やるのだ、とある人は考える。私はあとの方だ。宗教がきらいな私に死後の世界はない。あるのは生きているこの世界だけ。一瞬の夢のようなこの世界。科学的にも奇跡のようなこの時間と空間を味わい尽くして生きたい。死後の世界はない、という意味は死後の時間も空間もないということだ。死後はない、と言い換えてもいい。   生きている今があるだけだ。何を一生懸命やるかは私の自由。

16.3.7       楽しい勉強

 1年ほど前に急にルネッサンスに興味がわいた。理由は、よく知らなかったから。ダヴィンチ、ラファエロ、ミケランジェロくらいしか思いつかなかった。それで少しづつ関連の本や画集を見るようになった。少しわかるようになったらタイミングよく「ボッティチェリ展」が上野で開催され先週興味深く見て来た。私は絵からルネッサンスに入ったが当然地理や歴史と深くかかわっていて、15Cのフィレンツェを真ん中に、その前の中世、あとの近世、当時のイタリアの状況、そのころの日本は、と興味は尽きない。今になって勉強が楽しくなってきた。もうじき69才。

16.4.4       脳 内 時 空

世界の中に私がいる。しかし私の中に世界がある、とも言える。私の脳が世界を創りだしている。しかしそれにしては知らないことが多い。私の好きなコーヒーの産地グァテマラはどこにあるのか? カウボーイが活躍したのはいつごろか? 宇宙の大きさと年齢はどのくらいだったっけ? バロック時代の画家を知ってる? 鳥の名も木の名も少ししか知らない。ネットで検索すれば何でもわかると思って脳内がガラ空きになっている。脳内の時間軸と空間を拡げてゆきたい。いまルネサンスの画家ボッティチェリとその時代を書いた辻邦生の長編小説「春の戴冠」を読んでいる。15世紀のフィレンツェに私の時空が拡がる。

16.5.9       地動説、ビッグバン

 ものの見方が変わってしまったという点で地動説ほどすごいものはなかったと思う。不動の大地が実は大きな丸い球で、浮かんで回っているなんて! また、この宇宙の始まりは針の先よりも小さな点だったなんて! こういう発見は人間の日常の感覚がいかに狭く、そして偏ったものであることを教えてくれる。日常の感覚はとりあえず生きてゆくのに必要なものだがそれは真実の一部しか教えてくれない。日常の感覚を疑わなくてはならない。生きていることは当たり前というのが天動説だとすれば、地動説なら死んでいる方が当たり前ということになる。

16.6.2       私はどこに(1)

 ある男が居心地の良い部屋に住んでいた。居心地がよいので外に出なかった。10年経ってたまたま外に出たら隣にも、その隣にも部屋があった。男は自分が端の部屋に住んでいたことを知った。居心地がよいのでその隣人たちとだけつきあって暮らした。10年経って階段を発見、降りてみたら同じような階が下にもあり男は自分が最上階に住んでいたことを知った。居心地がよいので住みつづけ、また10が経ったとき何かの拍子に男は建物の外に出てしまった。目の前には大きな海が広がっていた。建物は船の上に建っていた! また10年が経って男は海が丸い地球に乗っていることを知った。その10後にはさて・・・?

16.7.1       ラルフ・スタンレー

 ブルーグラス音楽の大御所でバンジョープレイヤーのラルフ・スタンレーさんが6月23日に89才で亡くなった。初期ブルーグラスの最後の一人だった。機関銃を打ちまくるようなバンジョーと数人のメンバーが一つになったバンドのリズムに学生時代の私は陶酔した。私のブルーグラスの原点と言える人だ。その人が死んだ。しかし残念とか悲しいという気持はない。彼は好きなことをやって充分生きた。拍手したい。人は死ぬ。私も死ぬ。それはあたりまえのこと。あたりまえだけれども不思議なことでもある。人がこの世に生まれてくることも。私もあなたも今日は生きている。
16.8.3       私はどこに(2)
 6月号のつづき。男は自分がどこにいるのかやっとわかった、と思った。しかしそのあと男は地球が太陽の周りをまわっていることを知り、太陽を基準に自分の居場所を考えればよいと思った。しかしそのあと太陽も銀河系という星の群れの中で動いており、その銀河系もまた動いていることを知って再び自分がどこにいるのかわからなくなった。この宇宙には不動の中心点がないのだろうか? 10年経って男はハッと気づいた。自分のいる場所が宇宙の中心だと思えばいい、と。男は船に戻り本の部屋に戻った。部屋は昔と変わらなかったがそこが宇宙の中心になった。

16.9.1        3 人 の 私(1)

 私の中には3人の私がいる。1人はふつうに何かしている私、もう1人はその私を見ている(意識している)私、もう1人は勝手に働いている私の身体。たとえば私が楽器を弾いているとき、まず楽器を弾いているその私。次にカッコよく見えているかなとか弾きながら思っている私。そして呼吸や心拍、まばたきなどを勝手にやっている私。この3人めは中々気がつかないがケガや病気をすると気がつく。私とは複雑なおもしろい存在だ。

16.10.3       3 人 の 私(2)

 前号で書いた3人の私は簡単に言うと、私の行動、私の心、私の体ということになる。この3つは別のものでないが同じものでもない。体は生きている間は常にあって細胞レベルで動いている。それがあるから行動できる。心はいつもあるわけではない。行動に深く没頭すると心は消える。簡単な行動をしている時や行動を終えた時に心は現われてくる。演奏している自分がカッコイイかなんて考えている時はまだ演奏に没頭できていない。では心はないほうがよいのだろうか?

16.11.1       3 人 の 私(3)

 前号で、何かに没頭している時に心は消えると書いたがふつうに使われる意味での心は常にある。ここで言っているのはそういう広い意味の心ではなく「自我意識」のことだ。自分について考える自分、それが3人めの私。3人めの私はヒマな時に現れる。そして生きる上で必ずしも必要のないことを考える。私はなぜ私なのだろうかとか、なぜこの時代にいるのだろうかとか、死んだらどうなるのだろうかとか、すべては幻ではないか、とか。

16.12.2       序文集を作りました。

 毎月のこの序文も書き始めて32年、相当の分量になったので手書きを活字にして本にした。本といってもB5クリアファイル(30ポケット)のお手製。1985年から昨年末までの319タイトル、目次を含めて60ページになった。読み返してみると人生後半の自画像を見るようだ。絵ではなぜか自画像を描かないがこういう形で自画像ができた。 今年もあっというまに12月、イチョウの黄葉が美しい。     俳句を一つ、「思い出を湯気に包んで風呂の中」


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