小文集’2017                                


2017.1.6      マトリョーシカ

 あと3ヶ月で70才になる。切のいい数字に意味はないが、つまりおじいさんだということ。鏡に映る顔は確かにおじいさんだがなんだか自分ではないような気もする。ふだんは自分を外側から見ていない。自分は子供のころからずっと内側にいて変わっていない、変わるはずがないと思っている。多少変わったとしても昔の自分が消えたわけではない。ロシアのマトリョーシカ人形のように重なって残っている。そうか!他のおじいさんもおばあさんもそうなのだ、と気づく。他のおじいさんもおばあさんも内側は見かけほど老人ではないのだ。今は亡き私のおばあちゃんにもう一度会いたい。

2017.2.1     おばあちゃんの人生

 前号で「会いたくなった」と書いた父方の祖母のことを。祖母の名は華、戸籍には平仮名で「はな」。明治22年静岡県掛川の生まれ。千葉県の流山で私が生まれた時華さんは60をすぎていた。きれいずきでちょっと口やかましくて小柄で端正な顔立ち、私を「たけや、たけや」と可愛がり熱いお風呂に一緒に入った。私が中学2年の時に癌で亡くなった。おばあちゃんになる前の華さんの人生を知ったのは10年くらい前のこと。嫁である私の母が時々長い電話で昔のことを話すようになってからだ。それは大変な人生だった。今の私が祖母に会えたらうんとやさしい言葉をかけられる。それができないのが悲しい。次号で祖母の人生をかいつまんで紹介しようと思う。

2017.3.1     おばあちゃんの人生(1)

 70才で亡くなるまで家族の一員だった祖母の前半生をほとんど知らない。母から聞いたことだけでも記しておきたい。祖母華(はな)は明治22年3月に静岡県掛川の木下家に生まれた。しかし生まれてじきに近くの士族中村家に養女に出されて中村華になった。理由はわからない。子供時代、娘時代のことは何もわかっていないが、のちの祖母の人柄や行動から考えるときちんと育てられたのだと思う。それから荒波が押し寄せる。18、9で嫁に行き女児を生むが夫はヤクザ者で恐らく暴力もあったのだろう。周囲が逃亡をすすめた。

2017.4.1     おばあちゃんの人生(2)

 明治が大正に代わったころ20才くらいの華(はな)は乳飲み子を置いて故郷を離れた。どれほど辛く心細いことだったかと思う。何かのつてで横浜の料理屋で働き始めた。そこで常連客だった西村光弥と知り合う。光弥は師範学校の校長で45、6才、自宅は大森で長く寝込んでいる妻がいた。やがて大森の光弥の家で女中さんとして光弥と妻の世話をするようになった。親子ほどの歳の差だったが惹かれあうものがあったのだろう、なるようになって24才、25才で続けて女児を産む。が正妻の子ではないから手元には置けず、またも乳飲み子を人に預けることになる。

2017.5.8     おばあちゃんの人生(3)

 華は親ほども年の離れた光弥の内縁の妻となり2人の娘を産んだが立場上手元で育てることはできなかった。しかし数年後長く病に伏していた正妻が亡くなり、手離した娘たちは養女という形をとって戻ってきた。華30才。突然家が変わり、親が変わった5、6才の娘たちの心の混乱は察するにあまりある。その翌年華は男児を出産する。それが私の父、丈児である。光弥の喜びようは尋常ではなかったという。しかし親子5人の幸せな時間はあまりにも短かった。

2017.5.30    おばあちゃんの人生(4)

 6月号だが5月末からの個展に合わせて早めに発行します。 絵のことを書きたいけれど前号の続きを期待されているので、続きです。
大正10年に私の父が生まれて大喜びした光弥だが、2年半後の9月に関東大震災が起きた。その心労から光弥は寝込んで翌年に病没する。すでに癌でもあったらしい。幸せな日々は3年ほどだった。光弥の弟さんの計らいで幼児であった私の父は西村の家督を継ぎ西村丈児となったが、華は西村華にはなれず中村華のままだった。そして母子は華の実家の親類がいる浜松に移った。華34才。10才、9才、3才の子供たちとの浜松での生活が17年続く。親類の援助があったとはいえ母子家庭の暮らしは中々大変なものだったと思う。それでも華にとって幸せな17年だったかもしれない。

2017.7.3    おばあちゃんの人生(5)
浜松で母と3人の子に17年の歳月が流れ華は51才になった、丈児(じょうじ、私の父)は浜松高等工業学校を卒業して20才になった。2人の娘は25、6だがこの時点で結婚していたかどうかはわからない。どういうきっかけか丈児は日立航空機に就職し、母子は再び大森へ戻ってきた。この年、昭和16年の暮れに太平洋戦争が始まり丈児も燃料関係の兵役に就く。戦時中のことはわからないが4年後の夏に戦争が終わり、丈児は燃料、アルコールの関係から千葉県流山の東邦酒類に入社した。そしてこの会社に勤めていた山田美恵に出会い、熱烈な恋をして翌昭和21年結婚した。

2017.8.4    おばあちゃんの人生(6)
翌昭和22年に私が生まれ、流山町の狭い借間で祖母となった57才の華と4人の暮らしが始まった。さらに2年後に弟が生まれて5人家族になり、会社に近い米屋の門番小屋のような小さな家屋に移り住んだ。私の記憶はこの家から始まり、記憶の華さんは60才のおばあちゃんだった。数年後丈児は昇進して松戸市の大きな社宅に移り暮らし向きもよくなってきた矢先、華は癌を患い2年間痛みに耐えて亡くなった。起伏にとんだ70年の人生だった。私が物心ついてから10年という短い年数なのに、おばあちゃんとは何十年も一緒にいた気がする。こんなにすてきな人だったと知るのが遅すぎたけれど、私の心の中には若くてきれいな華さんが生きています。                            
2017.9.1      ジージ
 2,3回で終わるつもりだった祖母の話が予想以上に長く続いてしまった。私にとっておばあちゃんでしかなかった人がその前に母であり、さらにその前には若い娘であったという当たり前のことがこの年になって初めて分かった。このことで私が人を見る目も少し変わったと思う。人は見かけ以上に深い過去の世界を持っていると。3才になる孫の小夏は私をジージと呼ぶ。いつか彼女はジージーの若い日を想像してくれるだろうか。

2017.10.2    月の満ち欠け
 10/6の満月にむけて月が太り始めている。月の公転は速い。真夜中の満月はほぼ真南にあり、それから日ごとに痩せながら東へ移ってゆく。一週間もすると真夜中にやっと東の空から半月になって昇ってくる。さらに一週間たつと夜空に月はなくなる。朝日と一緒に昇るから見えないのだ。しばらくはお日様のそばにいる。そして何日か経つと夕暮れの西の空に三日月が見えて太陽を追うようにすぐに沈む。そして日ごとに太り始めて沈むまでの時間が長くなってゆく。

2017.11.1    月 は 動 く
 同じ時刻の月は日ごとに東へ移ってゆく。11/4は満月。満月は地球をはさんで太陽の反対側に月が来たときなので、日没とともに東から月が昇る。恥ずかしながらこういうことを立体的、空間的に想像できるようになったのは最近のことだ。自分が回転している地球の北半球に乗っていて、動いているのは太陽ではなく自分の方なのだということも知識でわかっていても実感すねことはむずかしい。人は自分を中心に考える。自分は動かないと思う。自分は変わらないと思う。自分は死なないと思う。

2017.12.2   絵を描くこと
 晴れの日が続くようになった。イチョウの黄葉の点描が150年前の画家シスレーと私をつなぐ。6月の個展を終えて水彩画はもうこのくらいでいいか、油絵に切りかえようと思ったのだが、11月に富士山に雪が降ったら居ても立ってもいられず御殿場線に乗っていた。まだまだ富士山とのおつきあいは続く。なぜ絵を描くのかという問いは続いている。どう描くのかから何を描くのかになり、なぜ描くのかになる。楽しいから? おちつくから? お金になるから? いくつか理由は出てくるがなんかちがう。少なくとも趣味とか暇つぶしではない。これからも問い続ける。


                       「西やんノート」へもどる