ブルーグラスの月刊誌「ムーンシャイナー」2002年5月号に載せていただいたものを一部書き直したものです。
なお、文中の
「私のホームページ・・・http://www9.ocn.ne.jp/~nsynbg/」は2006年3月から、
                      http://www.scn-net.ne.jp/~nsynbgに移動しました。


ビレッジ教室の20年

1.退職
 中学校の理科の先生をやめて、ギター・マンドリン・絵画の個人教室を始めてから20年も経ったなんて嘘のようです。せいぜい10年くらいに感じられます。学校を辞めたわけはいろいろあるのですが、つまるところは好きなことを好きなようにやりたい、ということでした。なりたいと思ってなった学校の先生でしたが、自分が通学した私立校のリベラルな教育とはかなり違う管理的な公教育になじめなかったこともあるし、生徒の心の中にまで入り込んで格闘してゆく教育者としての資質が自分には足りないことを悟ったので、辞める決意をしました。2つの学校に13年勤めて35才でした。自分にとってそれが本当に正しい選択であったか、当時十分な自信はありませんでしたが20年経った今、これでよかったと思っています。

2.開講
 82年3月に退職し、たまたま空いていた隣の部屋を借り、部屋の整備や生徒集めに半年かけ、9月にビレッジ教室を正式開講しました。ビレッジは西村の村で、素朴なイメージだし響きがよいので決めました。教室だよりの第一号を見てみると生徒は19名、うち男性7名、女性12名、女性のうち6名は絵画です。ほかに教室外でのマンドリンクラブの講師を一つ引き受けていました。ブルーグラス系の生徒はバンジョーのお嬢さんが一人だけでした。ほかはギター、フォークギター、クラシックマンドリンの生徒さんで、30-40代の方が中心でした。ちなみに当時の月謝は¥4000,20年後の今は¥8000です。¥4000x19=¥76000の月収でスタートしたわけですが、退職金が300万円出たので1年くらいは生徒が少なくてもどうにかなるだろう、と気楽なものでした。妻は5才の小麦(フィドラーとして皆さんに可愛がっていただいてます。)と1才の太郎(ファミリーバンドをやめてからハードロックの方へいってしまいました。)を抱えて大いに不安だったことと思いますが「あきらめた」のだそうです。

3.経営
 学校から解き放たれて、ラージヒルのジャンプ台から青空に飛び出したような気分でした。最大限の自由と、少しの不安。でも喜びが不安を凌駕しました。ルンルン気分で、手製のチラシをポストに入れて歩いたり、マンドリンクラブを訪ね歩いて「トレモロ通信」というミニコミ誌を作ったりして動き回った結果、半年後には生徒が40人になり、最低限食べていけるようになりました。しかし、そこから先は増えたり減ったりでした。90年代の前半に70人を越えたことがありましたが、その後は世の中を反映して今は50人を割っています。もうだめか、と思った時も2、3どあり、せっせと御茶ノ水の「ディスクユニオン」に古レコードを売りに行ったりしました。予想以上の値段で買い取ってくれたことを感謝しています。それでも、つぶれそうでつぶれず何とか子供たちも成人し、氷河期ながら明るく生きております。この記事が氷河期脱出のきっかけになるといいのですが。そしたらBOMさんにCDをたくさん注文します。

4.思い出にのこる生徒さんたち
 教室の20年間をふりかえると実に様々な生徒さんが入り、そして出てゆきました。一番はじめに来てくれたのが退職した時に担任していたクラスの男子生徒、脇田君でマンドリンを習ってくれました。退職するときに「先生、おれ習いに行くよ!」と言ってくれました。これは本当に嬉しかった。それから20年間に516人の方が入りました。入ったとたんに辞めてしまった人もいました。いまだに理由がわかりません。一番長い方は18年、いまも来てくれている絵画クラスの4人の女性です。楽器で一番長い方はクラシック・マンドリンの2人の女性で13年になります。印象にのこる生徒さんとしては、初め数回来ただけで、その後仕事が忙しくて一度も来れないのに、「辞めたくないから」と7年間も月謝だけ払い続けてくれている方。「ちょうちょ」が弾けてうれし涙を流したHさん。「せんせーきいてきいて!」で始まり1時間しゃべり続けてしまう中学生のS子ちゃん。家族全員で習いにきてくれた広田さん、泉さん、もたいさん(みなファミリーバンド)、東さん。尊敬してしまうほど練習してくるYさん。練習がきらいなのに教室に来るのはすきなM君。どんどん上達して教材が追いつかないAさん、反対にこれほど不器用な人もいるんだと驚いたBさん。じつに様々な個性と出会ってきました。教え方も教材もそれぞれに変えなくちゃなりません。学校に勤めていた頃は、そんな一人一人の違いに対応するゆとりはありませんでしたが、今は40人を一度に教えるなんて論外、と思います。

5.教える方法について
 公務員から私塾講師にという意味では180度の転換でしたが、教える仕事という意味では同じ線上の仕事であり、13年間の授業経験は役に立ちました。初めてバンジョーを弾く人がフォギーマウンテンブレイクダウンを弾けるようになるまでのステップを、できるだけ細かく用意する必要があります。市販の教本、ビデオはある部分は詳しくて解りやすいのに進んでいくと急に難しくなる、ということはよく経験することです。バンジョーの場合はとくに一番初めの基本的なロールの練習や説明が不十分な場合が多いです。スクラッグス教本はその点すばらしく、私はかなり参考にしました。私のやりかたを紹介します。

レベル0で単純にメロディーをぽつんぽつんと弾くところから出発します。ドレミの位置を覚えてもらいながら右手のフィンガーピックに馴染んでもらいます。
レベル1で単純なフォワードロールとダブルサミングだけを使って「キャベツをゆでろ」のようなメロディーのやさしい曲を弾いてもらいます。この段階でもリズムを正しく弾けない方が多いのです。タンタカラタカラが、タタカラタカラになりがちです。
レベル2でリバースロールとスライドとハンマリングを加えた曲を何曲か弾いてもらいます。リバースロールはビギナーには弾きにくいのですが、役に立つロールなので頑張ってもらいます。伴奏のウンチャウンチャも練習し始めます。
レベル3でプリングとバックロールとクイックリバースロールが加わり「クリプル・クリーク」がスクラッグスのように弾けることになります。このレベルまで来たら沢山のスタンダード曲を弾いて幅を広げてもらいます。ハイポジションでの基本的なバックアップも覚えてゆきます。
レベル4では、より多くのリック(慣用句)とハイポジションでのソロをやります。ここまで来てやっと「フォギーマウンテンブレイクダウン」が弾けることになります。3拍子の曲もやります。
レベル5.はCフォームでの演奏、4弦Cでの曲、メロディックスタイル、コードソロなど少し変わった弾き方をやります。

最初からこのように明快なステップがあったわけではなく、20年の間に試行錯誤しながらこのようになりました。もちろん生徒さんによっては、このとおりのステップでない場合もあります。タブ譜は出来合いのものを使うこともありますが、大部分自作のものです。(私のホームページでご覧になれます。http://www9.ocn.ne.jp/~nsynbg/ )ギター、マンドリン他それぞれの楽器に同じようなステップがあるので、その設定とタブ譜づくりは大変なものです。まだまだ十分な曲数ではないので現在も進行中ですが、楽しんで作っています。私は演奏はそれほど上手ではありません。毎月ロッキートップで演奏していらっしゃる方たちのほうが遥かに上手です。でも演奏と教えることとは、また別のことなので私の存在意義はあると思っています。

6.ふりかえって
 時間的には私の生活の大部分は教室での仕事ですが、ふりかえってみたときに大きく見える眺めは別のものです。
ひとつは教室スタート時から10年間続けた「湘南マンドリン・フェスティバル」。仕事にもプラスになると考え県下の社会人マンドリンクラブを集めて年一回平塚で開催しました。ほとんど私一人で運営を切りもりし(そのほうがやりやすかったからです)、10年で疲れて引退したあとを横浜の方たちが引き継いでくれて「神奈川マンドリン・フェスティバル」に成長し、参加団体も16,7になっています。

もうひとつは「グラスファミリー」です。学校に勤めていた頃から卒業生たちとやっていたバンド活動が盛んになって80年にサークルの看板を掲げ会報発行も始めました。本誌にも何度か紹介記事を載せていただき、国内最大のブルーグラス・サークルなどとサブさんから過大評価されて、うそ!マジ?やばー・・・が実態です。5年前に伊藤克巳くんに会長を引き継いでもらい引退しましたが、16年間グラスファミリーの中心にいて思い出は尽きません。特に月報GFCの発行と夏の清里合宿、秋のグラスオープリーの開催・運営は人生の一部であった気がします。残念ながらGFCは今年の3月号を以て休刊とのこと、グラスファミリーも新しい時代に入ったようです。
そしてこの中で誕生した「西村ファミリーバンド」も私の人生の大きな一部でした。教室開講時、1才の赤ん坊だった太郎が10才になって「ギターを弾きたい」と言い出し、14才の小麦と妻をまきこんで半年後にはグラスオープリーのステージで演奏してしまいました。バブルの時期でもあり家族バンドが珍しがられて、数えきれないほど沢山のステージで演奏させていただきました。そして、それが刺激になって泉ファミリーバンド、広田ファミリーバンド、もたいファミリーバンドが誕生しました。丹沢サークルも三瓶さんが西村ファミリーと出会ったことから生まれました。自慢に聞こえてしまいますが、きっかけを作ったことが嬉しいのです。

7.そして今
 組織に向かない人間である私にそれだけのことができた、ということに満足しています。教室はこれからも続けてゆきます。「マンドリン・フェスティバル」と「グラスファミリー」は組織が大きくなった時点で、私の役割が終わったことを自覚し引退しました。新しいことを始める時が一番たのしくワクワクします。いまパソコンが結構おもしろくて2月に「西やんのブルーグラス村」というホームページを立ち上げました。タブ譜もあるのでぜひ見にきてください。http://www9.ocn.ne.jp/~nsynbg/ です。また、新たな目標として今まで教室で教えてきた自作の教材などを整理して、遠くのかたにも役立つような「ステップアップ曲集」を作りたいと考えています。その節はまたBOMさんにお世話になると思います。それではこのような貴重なスペースに記事を書く機会をくださったサブさんとムーンシャイナーさん、20年間支え続けてくれたグラスファミリーの皆さん、教室の生徒さん、妻の里子に感謝して筆を置かせていただきます。

2002.3.29 西村丈彦


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