アイアンサイドの車椅子


 「鬼警部アイアンサイド」は、 1969年からTBS系列で放映された米TVシリーズ。サンフランシスコ市警のアイアンサイドは、犯罪者の逆恨みから銃撃される。からくも一命はとりとめたものの、脊椎を損傷。下半身不随となり引退を余儀なくされるが、その手腕を惜しんだ市警本部は、嘱託警部として独自の地位を保証し捜査の一線へと復帰させる。

 こんな基本設定をナレーションする若山 弦蔵の重低音に、ゴチックのロゴが浮かび、アップテンポながら哀調を湛えたクインシー・ジョーンズのテーマ曲がバックに流れて、気分を一層盛り上げる。こうした、和製テレビ映画にはついぞ見られぬハイセンスな格好良さに痺れて、切れ者アイアンサイドの捜査活動を毎週欠かさず見ていた時期もあったが、このシリ−ズの特徴は何と言っても、主人公が車椅子だったこと。

 段差が全てスロ−プに換えられたアイアンサイドのオフィスに、直属の部下としてイヴ・ホイットフィールドとエド・ブラウンの若手白人刑事。更に介護者兼運転手として黒人青年マーク・サンガーが配され、移動用には当時としても珍しい車椅子用リフト付きのバンが用意されていた。このシリーズ、サンフランシスコのランドマークを効果的に挟みながら、車椅子の警部の捜査活動をテンポ良く見せる本格派の推理ドラマで、 犯人捜し、謎解き、どんでん返しと毎週きっちり楽しませてくれた。

 ちなみに、アイアンサイドはレイモンド・バー。この人は劇場用の映画では悪役ばかりだが、TVではあまりにも有名な当たり役「ペリー・メイスン」から「アイアンサイド」と正義の人で一貫いる。部下のホイットフィールド刑事の吹き替えは、後に田中内閣で入閣を果たした山東昭子。製作開始は1967年で終了は1975年。モノクロからカラー化の時代へとまたがる息の長いシリーズだった。日本での放映は69年からだが、アメリカの二年分を一年で放映してしまう日本の放映事情から、数年で製作のペースに追いついて行ったとおぼしい。 私はシリ−ズの前期から中盤にかけては熱心なファンだった。その後はレギュラーの入れ替えやマンネリ感がなどからこ次第に疎遠になったが、全体的にはよく見ていたほうだと思う。

 単に懐かしいテレビシリ−ズの一つにすぎなかった「アイアンサイド」だが、それから15年ほど後に「車椅子」の人と知遇を得て、それまで意識したことこともない「リハビリテ−ション」や「車椅子」「障害」などがごく日常的なことになり、更に数年そうした経験を積み重ねて後、ふと、ある疑問と共に「アイアンサイド」の姿が蘇ってきた。アイアンサイドはシリーズの開始から終了までに3種類の車椅子を乗り継いだのだが、そういうことは、シリーズ物のマンネリ予防策として良くあることだし、当時はそれ以上の意味を感じることもなかったのだが、車椅子の友人と長く付き合ううちに、アイアンサイドの車椅子の乗り継ぎ方はちょっと変だったのでないかと思えてきた。

 そんな疑問から、アイアンサイドと車椅子の変化を見ると、スタート時は介助者に押されていた車椅子は、2か3シーズン目には電動に変わった。最近でこそ珍しく無いが、30年前に電動車椅子は画期的だったでのこれは良く憶えている。ただ、この電動車椅子はそれ程長期間使用されずに、その後は一転して自力移動の最もシンプルな車椅子になって、これは番組が終わるまで使用された。当時の記憶だけで書いているので、何シーズン目に変化したかは正確では無いが、乗り換えの順番この通りだったと思う。つまり、駆動法の違いで言えば、他力、電動、自力という順序で車椅子の全タイプを乗り継いでいった訳で、アイアンサイドは何故そうした順序で車椅子を換えたのか、これが不思議に思えた。アイアンサイドの制作者達は一体何をしたかったのか、そんなことを考えるうちに、そこには個人の自立に関わる興味深い事柄が表れているのではないかと思い至った。
 そこで、車椅子を軸にアイアンサイドの様子を整理してみると、

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1台目

 バリアフリ−のオフィスに介護人を従えて登場したアイアンサイド。組織に縛られず、フリーハンドとも思える自由な捜査指揮振りで、二人の部下をこき使うが、忠実にして有能な二名がアイアンサイドを失望させることはなかった。介護一切を任されたマークは、元不良の黒人青年で、アイアンサイドの介護をしながら高等教育を受け、更生中という設定。当初は反抗的な表情を見せこともあったが、アイアンサイドの薫陶よろしく徐々に心を開いて行く。マークはアイアンサイドの命ずるまま、アイアンサイドを、いつ、いかなる場所へも速やかに移動させることを決して厭わない。

 サンフランシスコ市警が示した「優遇措置」や「VIP」扱いに、アイアンサイドという人物の権威性や大物感が一層強調され、車椅子の捜査官というキャラの特異性とともに、市警の「障害者」受け入れ態勢に見られる先進性、人権意識の高さもアピールされて、こうした社会性をまとったヒーローというのは昔も今も珍しい。社会性について言えば、「アイアンサイド」のチームの一員として欠かすことのできないマーク・サンガ−は、この時あくまでも民間人として位置付けられ、捜査にはいっさい関わることは無い。意見を求められても断るくらいにそれは徹底していて、今から見ると人種差別的な処遇に感じられるところだが、当時はこれがリアリティーを感じさせていたのも確かだった。例えば、60年代の米映画で主役をはれる黒人は、ハリー・ベラフォンテ、サミー・デービスJr、少し下ってシドニー・ポワティエなどで数える程だった。そうしたことから60年代も依然黒人差別意識が根強かっただろう事は容易に感じられる。ところが70年代を経て80年代から90年代にかけ、黒人の進出が増加し拡大し、今や、黒人が主要な位置を占めない映画など探す方が困難だし、あらゆる分野で、黒人の偉大なヒーローが誕生している。そこに、この40年間、アメリカが黒人の社会的地位をどれ程向上させたかを見ることは容易だし、商業主義的要素を割り引いたとしても、アメリカ社会が獲得して来た人権感覚の深さ、広がりは、「黒人問題」を、「アイヌ」「在日」「同和」等と置き換えてみるまでもなく、わが国などの及ばぬスピードとスケールを持っているが明らかに思える。

 

2台目

 3シーズン目か4シーズン目だか定かでは無いが、アイアンサイドの車椅子は電動化され、マークはアイアンサイドの車椅子を押す仕事からは解放されたが、側を離れることは無く、電動の昇降用リフトが装備されたバンの運転も相変わらず行いっていた。この頃はどんな資格、身分になったか不明だが、捜査活動にも少なからず関れるようになっていたと思う。
 車椅子を電動に変えた理由など説明されないので想像するしかないが、基本的には当時の最先端を示す電動車椅子の「カッコよさ」を取り入れると言うことではなかったか。電動車椅子が実用化されたのが何年だか知らないが、アイアンサイドはまっ先に導入した人物であるのは確かで、リフト付きバンも合わせて、高額な福祉器機を容易に利用できると言うのは、格好良さが義務づけられるヒーローに相応しい実力の表れとも言える。
 

3台目

 3台目に至って、アイアンサイドは、自分の手で車椅子をこぎだし、単なる車椅子に乗った警部として登場することになる。車椅子を押すことが無くなったマークは介助者から刑事へと変身していった。なぜ電動車椅子を放棄したの説明は無かったため、これも想像するしか無いのだが、ステータス・シンボルとも言えそうな先端技術の固まりとも言える電動車椅子に頼るより、自分の力で車椅子を漕ぐことが何より格好良いことに気がついたのが一番の理由では無いか思われる。

 一般的に言って、これら3タイプの車椅子は障害の程度によって使い分けられるものだが、アイアンサイドの障害は固定的で、障害が軽減されたことは無い。にもかかわらずこうして乗り継がれた。そこにどんな基準を見出せるかといえばヒーローとしての格好良だろう。そこで、3台の車椅子で表現されたカッコよさを、次のようにまとめることができるだろう。

 氈@介助者付きの車椅子は、いかにも重要人物らしくてカッコイイ。

  電動車椅子は最新テクノロジーを購入できる財力を感じさせてカッコイイ。

 。 自分の車椅子なのだから、自分でこぐのが一番カッコイイ。

 企画の段階で、制作側は車椅子の探偵という設定の面白さにねらいがあったのだろう。しかし、シリーズがヒットし、長期化していくに伴い、おそらく社会的な障害者の位置づけを明確にしていく必要に迫られたのではないだろうか。その過程で、広範囲に収集されただろう、障害と障害者、或いは社会的弱者を取り巻く社会状況などから、多くの問題点がシリーズにフィ−ドバックされて、車椅子の変化に対応してマーク・サンガーの処遇、地位的向上が計られたのも納得の行く流れに見えてくる。

 アイアンサイドと彼の車椅子の変遷から、自立とは、社会的地位が高かろうが低かろうが、障害があろうとなかろうと、「自分でできることは自分でする」ことを抜きにしてはあり得ないのだし、過剰な介助や援助は自立を阻害することにもなるとした考え方の変化を読むこともできる。このシリーズに、アメリカのTVが30年前!に行った障害と自立に関する、問いかけと答えとを見出すこともできる。ちなみに、90年代には男性刑事を部下に従えた聾の女性検事を主人公としたTVシリーズも製作され、その後の人権感覚の深まりを感じさせられたこともあった。

 こうしたアメリカの作品に較べると、日本が障害者を主人公に据える場合は、丹下左膳や座頭市に見られるような異形のスーパーマンか、或いは、裸の大将に代表されるように、善良で純真無垢な存在として描かれるか、いずれにしても極端に描かれる傾向が強い。欧米の作品に描かれる障害者は、日本よりはるかに、日常的な存在として描かれていることが多い。

 アイアンサイドの車椅子の変化と、マークの地位の向上に見られるのは、30年以上前のテレビ番組が行っていた試行錯誤のレベルの高さだが、60年代のアメリカが抱えていた問題のひとつを、「自立」と「人権」の問題と読み取っても、あながち的外れではないだろう。「自立」とは「人権」のないところには成り立ち得ないもである以上、「自立」と「人権」とは今も解決への過程にある今日的な問題に他ならない。

02.10.27