| 岩本 徹三 | ||
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日中戦争、太平洋戦争を通してのエース。時に自分を「虎徹」にたとえた。他の旧日本軍エースとは異なり、格闘戦を好まず、一撃離脱に徹したといわれている。 大正5年北海道の生まれ。子供の時から非常に頑固者で自分の意見を決して変えなかったという。 農家を継ぐことを嫌い、家族に秘密で昭和9年に海軍を受験、水兵となる。その後、搭乗員を希望し転化試験に合格。昭和11年に操縦練習課程を卒業した。 昭和13年2月25日、岩本一空曹は初出撃、初空戦にもかかわらず四機を撃墜。4月29日に、さらに4機を撃墜し司令賞を授与された。9月本土勤務に戻る9月までに、14機を撃墜しており、その頃から既にトップ・エースであった。 その後、岩本一飛曹は空母「瑞鶴」に配属され、昭和16年12月8日の真珠湾攻撃では、攻撃部隊発進後の空母上空の哨戒任務についた。 インド洋海戦、珊瑚海海戦にも参加。ミッドウェイの大敗後は搭乗員の大量育成のため昭和17年9月に教官として本土に戻ることとなる。 しかし戦況悪化にしたがって再び前線に復帰。岩本飛曹長は、ほぼ毎日アメリカ軍と戦う事となる。 昭和19年6月に本土に帰還。10月に台湾、フィリピンの前線に参戦したが、戦局は既に決しており僅かな戦果をあげて再び本土に戻った。 昭和20年初頭。岩本少尉は沖縄防衛のため九州に配属された。最後には神風特別攻撃隊の訓練任務について終戦を迎えることになる。 敗戦に絶望し、なかなな戦後の時代に適応できず、酒に依存するようになる。 昭和30年、この偉大な「零戦撃墜王」は、戦時中に受けた背中の傷を何度も治療した結果、敗血症になって他界した。 彼の記憶によれば、ラバウルから戻った時点で142機撃墜、終戦までの合計は202機の撃墜、26機の共同撃墜、22機が未確認撃墜、地上で2機を破壊、さらに2機を大破させたのこと。戦後の研究者によればこの数は多すぎで、実際には80機前後ではないかといわれているが、その数も憶測に過ぎない。 | |