T・オブライエン 「本当の戦争の話をしよう」

 しかしこれもまた真実である―ストーリーは我々を救済することができるのだ。(中略)彼らはみんな死んでいる。でもお話の中では(お話というのは一種の夢想行為なのだが)、死者達は時には微笑み、起き上がってこの世界に戻ってくるのだ。(「死者の生命」より)

 僕にとって小説を読んで泣くということはあまりない体験なのだが、この「本当の戦争の話をしよう」の最終話「死者の生命」を読んだ時には思わず涙ぐんでしまった。と言って(まあこの文章を読んでくれているような人たちに対しては無用の心配なのだろうけれど)、この短編集をいきなり最後の話から読むというようなことはしないでほしい。この短編集には全部で22の話が収められているのだけれど、21個目までは全て作者T・オブライエンのベトナム戦争における体験がとてもパーソナルに書かれている。日ざかりの小道で呆然と「私が殺した男」を見つめる兵士、木陰から一歩踏み出した途端まるでセメント袋のように倒れた兵士、祭りの午後に故郷の町をあてどなく車を走らせる帰還兵…。その色々な切り口から繰り返し語られる、作者にとっての“ベトナム”という極めて個人的な体験から紡ぎ出された小説を全て読んだ上で、たどり着いた最終話によって語られる作者自身のさらに時間的にさかのぼった話〜作者の小学生の頃の思い出、冒頭に引用したような作者の「なぜ書くのか」という告白を経てでないと、この感動には決して辿り着けないからだ。

 確かに村上春樹の小説の、特に初期の小説群は“喪失”がキーワードだった。それがどこらへんから転換が始まったのかは定かではないのだけれど、特に「レキシントンの幽霊」や「神の子どもたちはみな踊る」辺りから“救済”それも魂の、がどうも重要なキーワードになってきてるように僕は感じているのだけれど、この「死者の生命」の冒頭の文章は、そこらへんのヒントとなるような文章でもあるように思われるのだ。

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