中国行きのスロウ・ボート

 村上春樹さんの最初の短編集ということになる。今では村上春樹さんの、特にエッセイといえば自然に画が浮かんでくるようなコンビとなっている安西水丸さんの洒落たカヴァーとともに1983年に出版されている。収められているのは七編の短編。その短編については村上さん自身による紹介文のようなものが文頭についている。以下引用。

 本書には1980年春から1982年夏にかけて発表された七つの短編が年代順に収められている。長編を里程標にすると、「1973年のピンボール」の発表後に最初の四編が書かれ、「羊をめぐる冒険」のあとに後半の三篇が書かれた。したがって「カンガルー通信」と「午後の最後の芝生」のあいだには一年近くのブランクがある。これは僕にとっての最初の短編集である。

 この短編集は本当によく読んだ。羊三部作ですっかり村上春樹というい作家にのめりこんでしまった僕は、文字通りボロボロに擦り切れるくらい読み込んだものだ。当時まだ学生だった僕は、すっかり常連気取りだったジャズ喫茶でバイトもしていて、バイトしてもらったお金でウイスキーのボトルをキープして飲んだくれるという、まあ今から思えば、本当に小さな世界の中に閉じこもって実に下らない時間を過ごしていた。もっと建設的なことに時間を費やせていたら、今頃もう少しまともな大人になれたのにと、後悔と苦々しい思いしかないので、あの頃のことはできるだけ思い出さないようにしている。そんなわけで今でも僕はこの短編集を読むと、多少の後ろめたい気持ちと、その頃僕の後ろを大音量で流れていたコルトレーンとかマイルスとかエバンスとかのジャズ、煙草の煙、ウイスキーの匂い、暗い店内の人々のざわめきとかが、ざらっとした感覚とともに蘇る。

 この短編を読むと僕は、前半の四編「中国行きのスロウ・ボート」「貧乏なおばさんの話」「ニューヨーク炭鉱の悲劇」「カンガルー通信」と後半の三編「午後の最後の芝生」「土の中の彼女の小さな犬」「シドニーのグリーン・ストリート」に少々落差のようなものを感じる。要するに「羊をめぐる冒険」を書き上げる前と後ろだけれど、やはり前半の四編はまだ習作の域というか、村上さんが短編における自分の文体を手探りしてるような、どこかぎこちなさのようなものを感じる。そのごつごつ感が初々しさも感じさせていいのだけれど、やはり僕が一番読み返したのは後半の二編「午後の最後の芝生」「土の中の彼女の小さな犬」(「シドニーの…」はちょっとお楽しみのおまけって感じだものね)だし、「羊…」を書き上げた前後では文体の感じが違ってくるのは当然のことかもしれない。僕は村上さんの短編の文体が本当にぴたっと定まる、その第一のピークは「回転木馬のデッド・ヒート」においてだと思っているのだけれど、そこへの道程の本当のスタートが始まるのはこの二編からだったなと思っている。

 特に「土の中の彼女の小さな犬」は「羊…」や「ダンス…」でその重要な舞台となる、村上さんの得意のフィールドの“ホテル”が舞台でもあるし、後のやみくろの世界や井戸へも通じる“土の中”の世界や、特に近年の短編に見られる最大のテーマ“魂の救済”(←もちろん僕が勝手にそう思ってるだけです)が、まだスケールは小さいけれど初めて掲示されている。村上春樹の短編の世界の原型とも言える重要な作品だと思います。

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