パン屋再襲撃・TVピープル

 僕は、村上さんの短編集としては「回転木馬のデッド・ヒート」がまず最初のピークで、その後「レキシントンの幽霊」から第2のピークを迎えたと勝手に思っているので、その2作に挟まれた「パン屋再襲撃」と「TVピープル」についてはあまり評価していない。

 「パン屋再襲撃」は装画がまた佐々木マキさんに戻り、「1973年のピンボール」の後日談ともとれる「双子と沈んだ大陸」が入っていて、発売当時はまずこの作品ばかり読み返してた。でも話の内容としてはただ暗いだけで、作品としてもあまり優れているものとは思えなかった。その他の短編も悪くはないんだけれど、なんかピンとこなかったし、まして「TVピープル」はねえ。心なしか佐々木マキさんの装画もなんか投げやりだし。

 このふたつの短編集は、村上さんの現時点までの記念碑的な長編「ねじまき鳥クロニクル」(94年発表)の準備段階として出てきた作品だったのだなと、今ではわかる。年代的に見ると「パン屋再襲撃」の作品群が85年から86年にかけて、「TVピープル」の作品群は89年に発表されている(「ダンス…」が88年、「国境の南…」が92年に発表)。
@まず「パン屋再襲撃」の全作品に登場する渡辺昇という人名(長編「ねじまき鳥…」では綿谷昇と名前は変わっているが)、それまで村上さんの作品で人名が固有名詞として登場するということはまずなかった。
Aまた、当然のことだが「ねじまき鳥と火曜日の女たち」という作品は、短編「蛍」と「ノルウェイの森」の関係と同じように、「ねじまき鳥…」の冒頭部分に組み込まれていくこととなった作品だし、「TVピープル」にはその名もずばり「加納クレタ」という作品が入っている。
Bでもこの短編集の一番大きな特徴は、それ以前の村上作品と比べて文体の大きな変化だろう。今までの形而上的な、いかにもインテリっぽい気取った文体が身を潜め、よりわかりやすい卑近な文章という感じになった。もっと身も蓋もない言い方をすれば、原稿用紙にこりこりと鉛筆なりボールペンなりで書き付けていた文章から、ワープロまたはパソコン的な文章に変化した。軽くなった、という印象。
Cそして文体の変化の先には、文章全体を通じてのテーマの微妙なシフト変更が見られる。より個人的な「意識の深層で起こる変化の前兆」とでも言うか、文章としては長編「ねじまき鳥…」の井戸抜けに具体化される、深層心理の探求への傾倒が、この短編集からははっきりと見てとれる。特に「TVピープル」「眠り」という作品からは「ねじまき鳥…」と同じ匂いというか雰囲気が強く感じられる。その点、この短編集発売当時はなんだこりゃ?としか思えなかった「象の消滅」あたりが、この時期の村上さんの一番代表的な短編といえるのかもしれない。

 とは言え、「TVピープル」中の「加納クレタ」とか「ゾンビ」には、さすがにこりゃないんじゃないのって感じだったし、「我らの時代のフォークロア―高度資本主義前史」は、当時雑誌SWITCHに山本容子さんの素敵な版画とともに発表されていて、挿絵としてでも単行本に是非入れてほしかったんだけれど、その内容は「ダンス…」の五反田君や短編「プールサイド」の主人公のような、出来過ぎ君の不幸という同じテーマの焼き直しにしかとれなかった。他の短編もいかにも印象が薄い。正直これを読んだ時、村上さんも終わったなと思ったくらいだ。

 大体ねえ、どれだけ個人の深層心理の奥深くに下りていっても、たまねぎの皮を剥き続ける猿といっしょで、結局は無、同じ所をぐるぐる回り続けてるだけでしょ。そんなの日本の純文学の陥る迷宮としていくらでも例があることだし、僕自身は実は「ねじまき鳥…」のあたりの村上さんには、なんだかなあって違和感が濃厚だった。ぶっちゃけ、いつまで井戸抜けなんて同じテーマの再生産ばかりしてんのよと。そんなの「世界の終り…」でもう十分じゃん、もっと外に向かう文章書いてよと。やっぱ文学って求心力よりは遠心力、“物語り”の力だよって、もっとJ・アービング見習ってよって思ってたかな、その当時は。ま、今はその後の短編集、特に「神の子ども達はみな踊る」が大傑作だと思ってるから「パン屋再襲撃」「TVピープル」も、新たなる高みに達するための過渡期的作品であったのかと、勝手に位置付けてるけど。

 だから次の短編集「レキシントンの幽霊」が出た時は全然期待してなくて、そこでいい方向に期待を裏切ってくれたから本当に嬉しかった。その為だけに存在している2つの短編といったらちょっと可哀相かな。

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