東京きたん集

 現時点での村上春樹の小説における最新作ということになる。前作の短編集「神の子どもたちはみな踊る」が、阪神大震災の後を受けた連作という、今までの村上春樹にはなかった“意欲作”と捉えられたのに対して、今作はまた作者得意のフィールドである“誰かに聞いた本当の話”という形をとった、いい意味で肩の力の抜けた読みやすい短編集になっている。

 あまりにすらすら読めるので逆に印象が薄くなってしまう短編集という気がしないでもない。しかし、そのあまりにもすらすら読めるというところに、またさらに高みを極めた文体の変化が感じられた。とても静かな文体。巨匠的感覚と言ってもいいかな。そこには不思議なことに、僕が村上春樹という小説家に出会う以前、高校生の頃読んでいた日本文学全集、三島由紀夫「午後の曳航」北社夫の「幽霊」遠藤周作の「沈黙」谷崎潤一郎の「鍵」といったあたりの雰囲気が感じられたのだ。

 村上春樹が「風の歌を聴け」をまず英語で書き、それから日本語に置き換えていったというのは有名な話だけれど、土俗的なものを完全に排したところから出発したことが、それまでになかったまったく新しい文体として、特に当時の若者(=僕の世代)に大きく支持される要因となっていったことは間違いない。しかし長くアメリカに滞在する間にプリンストン大学等で客員教授をしていたという氏の経歴、いわゆる「第三の新人」グループを中心にした戦後日本文学の流れを、短編小説を中心に解読してみたいという希望から、とっていた授業の内容が「若い読者のための短編小説案内」という本を上梓させることになったわけだが、そこらへんの成果が、この短編からはっきりと汲み取れると思うのだがどうだろう。今までの村上春樹独自の文体に、戦後日本文学の上質な文体が程よくミックスされてきたような。

 短編のひとつ「日々移動する腎臓の形をした石」などは、そのもっともよい例だと思う。話が重層的に、そして意図的に構築されている印象を受ける。ともかく巧い。もともと巧かったところにさらに匠の技が加わった様な。ただ、あまりに技巧に走りすぎて、つまりすらすら読めすぎちゃって印象に残らないという落とし穴はあると思う。あまりに作者が見えなくなってしまった。あのちょっとごつごつとした文章、「蛍」の頃が懐かしい、なんてね。ま、それも進化・変質の途上として仕方のないところなんだろうけど。

 ところで「若い読者のための短編小説案内」からの長い引用。これは20代の頃、小説家を目指していた僕がまさに日々悩んでいたことだし、そしてその解答がここにあったというものです。

 ひとつは、我々の多くは「非日常」を持たないわけだけれど、それはある意味では幸運なことであるのかもしれない、ということです。我々は戦争も経験していません。平和という、いわば限りのない退屈の中で生きています。また我々の多くは―都会に住む多くの人はということですが―もう土着(中上健次的な意味での土着です)さえ手にしてはいない。ある時期にマルクシズムが提供した理想も、とっくの昔にその意味を失ってしまった。全ての事象は色彩を欠いて平板化し、平板じゃないものはややこしい意味の迷路の中であっという間に蜘蛛の巣にからめ取られ、現世的メディアによって滋養をあらかた吸い取られてしまう。あとにはかすかすの抜け殻しか残らない。「じゃあ俺たちはいったい何を書けばいいのだ」というのが現在の文学にとってのひとつの大きな命題になっています。そこには目に見える切実な文学的テーマやサブジェクトは存在しないみたいです。しかしだからこそ、我々はそのような日常の表層の下から、自分の二本の手で平凡ならざる新鮮な「非日常」を掘り起こしていくことができるんじゃないかと、僕は思うのです。それは確かに簡単なことではありません。でもそれこそが実は最も重要な達成ではないかと思うのです。

 その意味から言ってもこの短編集のラストを飾る「品川猿」なんかは、まさにその達成を体現した素晴らしい短編だと思いました。


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