レイモンド・カーヴァー カーヴァーズ・ドゼン」

 僕はもう20年以上同時代を生きる作家として村上春樹氏の著作に好きで付き合い続けているわけだけど、ただ村上さんの翻訳作品についてはその全てをフォローしきれているとは到底言いえないのが現状だ。別に誰に義理があるわけでもないし、それが悪いとも思っていない。正直に言ってしまえば村上さんの翻訳作品は、村上さん本人の小説やエッセイほどは面白くはないというその一点に尽きる。翻訳はあくまでも村上さん個人のエクササイズであり、その成果の発揮された小説や短編のほうを手っ取り早く楽しんでいられればそれでいいというところか。で、その面白くない翻訳の代表が僕にとってはレイモンド・カーヴァーということになってしまう。こんなこと村上さんに言ったら怒られちゃいそうだけど、ま、そんな機会もないだろうからいいんだけれど。

 村上さんが「僕が電話をかけている場所」を出したのが1982年(「羊をめぐる冒険」を出したのと同じ年)。同じ中公文庫から出版しているのが短編集の「中国行きのスロウ・ボート」スコット・フィッツジェラルド著の「マイ・ロスト・シティー」、ジョン・アーヴィング著の「熊を放つ」、このあたりの一群の小説には当然のことだけれど最も初期の、鼠三部作の頃の村上春樹特有の雰囲気が漂っていて、どの本も何度も読む返したものだけれど、その中で「僕が電話をかけている場所」に関しては、ともかく地味という印象しかなくて、あまり記憶に残ってもいない。なぜ?と考えるに村上さんの最新の著作「意味がなければスイングはない」の内、ブルース・スプリングスティーンの章で、思いがけなくブルース・スプリングスティーンとレイモンド・カーヴァーの共通性について多く割かれていてそこにふ〜んと我ながら納得のいく記述があった。

 しかし彼らの共有するものは、そのような徹底したリアリティーだけではない。もうひとつの大きな共通的特徴は、安易な結論づけを拒む「物語の開放性=wide-openess」を彼らが意識的に積極的に採用しているところだ。彼らは物語の展開を具象的にありありと提示はするけれど、お仕着せの結論や解決を押しつけることはない。そこにあるリアルな感触と、生々しい光景と、激しい息づかいを読者=聴衆に与えはするが、物語そのものはある程度開いたままの状態で終えてしまう。彼らは物語を完成させるのではなく、より大きな枠から切り取っているわけだ。そして彼らの物語にとって重要な意味を持つ出来事は、その切り取られた物語の枠外で既に終わっていたり、あるいはもっと先に、やはり枠外で起ころうとしていることが多い。

 うむ、しかしレイモンド・カーヴァーがリアリティーを持って提示してくるアメリカのブルーカラー階級(ワーキング・クラス)の抱えた閉塞感、それによって社会全体にもたらされた「bleakness=荒ぶれた心」というのは、やはり僕にとってはリアリティーがもてない。俳優としてのサム・シェパードは文句なしに格好いいけど、脚本家としての活動はさっぱりわからないというのと一緒なんだろうな。同じブルー・カラー階級の閉塞感というなら日本人はやはり土着性というか百姓感覚が入ってくるだろうし、その土着性からアスファルトで引き剥がされた頼りない浮遊感といったものなら、十分にリアリティーを感じられそうだけれど。ただでさえリアリティーがもてない感覚の、一場面だけを説明も結論もなしにぽんっと提示されても?としかなれないのはある意味仕方がないことなんだろうな。という訳で、村上さんにとっては偏愛する小説家レイモンド・カーヴァーも僕にとってはどちらかというと退屈な作家の一人でしかないし、その翻訳の成果を持ち込んでくれた村上さん自身の短編の方が数倍も楽しみではある。でも今回「レイモンド・カーヴァー傑作選」を読み返してみた感想は思ってたほどは悪くない、少なくても退屈ではないというものでしたね。特に「足もとに流れる深い川」「ささやかだけれど、役にたつこと」2編の読後感の味わい深さというもの、前者の余りにも深い喪失感、後者の喪失感の中に本当にささやかなものではあっても差し込んだ一筋の光、その温かみはやはり何者にも替え難い、読書の醍醐味であると思います。

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